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30話『性徴原基』

 越えられたくない一線をあっさりと慎也に越えられてしまったあの日の夜。俺はお父さんにしがみつき、嗚咽のみを漏らしていた。


 何度も何度も、縋るように「おとうさん」という単語を口にし、震える全身を押し付けて全身を這う不快感と後悔を忘れようとした。


 他のことを考える余裕なんてなかった。そんな行動を取られるとお父さんは当然困ってしまう。そんなことはこっちだって十分分かっているはずなのに、止まれない。


 落ち着いた後も自分の履いてるスカートの乱れ、手首や太ももに残った指の跡を見ると慎也の荒い息遣い、握り込む力、捲り上げられた時の感触、耳元に響いた声が蘇ってきて体の芯が冷たくなる。


 お父さんは何も聞かず、好きなようにさせてくれた。泣いていたからだろうか? どれだけ体を押し付けても何も言わず、されるがままに俺を受け入れてくれる。


 背中を撫でてほしいと言った時、少し間は空いたけど優しく背中をさすってくれた。意外だった。流石に一言「そういうのは」って言ってくるものだと思ってたから。

 お父さんに撫でられると、家の外で感じた不快感や他人への嫌悪感が記憶ごと薄れて心が落ち着く。


 歩くお父さんに追従し、ソファに座ったら俺も隣にピッタリとくっついた後に座る。

 相手がどう思ってるかなんてこの際考えず、離れたくない一心で無遠慮に体を密着させ続けた。

 長時間そうしていたらお父さんが何か言いかけた。けれど俺は「お願い」とだけ呟き、その一言を飲み込ませてただ何もしない時間を過ごし続けた。



 事件の日から、俺は学校を休み続けた。


 周りから求められているポジション的に不登校を決め込むのはイメージダウンに繋がるし今後の事を考えたら良くないのかもしれない。

 でも、あんな事があって、慎也と同じ教室の中で普通に学生生活を送れるわけがない。

 その時の精神状態だと、男子から普通の会話を振られるだけで泣き出してしまいそうだったし、慎也に関しては顔を合わせる事さえも怖い。


 色々考えた結果、総合的に学校へは行かない方がいいと判断した。言うても夏休み前の数日間休むだけだし、夏風邪でも引いたことにすれば変な勘繰りも受けずに済むだろう。


 まあ、慎也に関してはまだ正式にお別れを言ったわけじゃないし、夏休み中に何かしらで誘われる可能性はまだ全然あるから気分的にはかなり億劫なのだが。



「はあ……」



 布団の中で丸くなって、お腹がすいた時だけもそもそと布団から出てまた戻る。

 布団を頭から被っていると、家の外で起きた嫌な出来事や慎也の事で頭の中がぐるぐるする。なんか、殻の中に閉じこもって少しずつ体が腐って溶けていくような感覚に陥る。


 お父さんにしがみついてメンタルリセットしても、考え事ができるようなタイミングになるとすぐに気分が悪くなる。悪循環だなあ。なんでこんな風になっちゃったんだろうな、俺。



「このまま、本当に溶けて無くなっちゃえばいいのにな〜」



 なんて、誰に向けたわけでもない独り言を呟いて膝を抱える。


 お父さんが仕事から帰ってくるまで朝も昼もずっとこうしている。

 夕方になってお父さんが帰る時間帯が近付くとようやく体が活力を取り戻すので、気が変わらないうちにシャワーを浴びて身を清潔にし、身なりも整えて鏡で表情の練習をした後にソファに座る。



「ふぅー……」


「おかえりお父さん。お仕事おつかれー!」


「理子。風邪引いてんねやろ? ちゃんと寝とき」


「熱っぽいだけだから平気だよ」


「平気ちゃうなあそれは。熱っぽいんならあかんやろ、無理しぃな」


「平気だって。それよりお父さん」



 俺がソファをポンポンと手で軽く叩くと、お父さんは溜め息を吐きつつもカバンとネクタイと背広をとっぱらった状態で隣に座ってくれた。


 人一人分座れる程度の隙間が空いている。意図的に距離を離された。でも俺はその意図を無視してズイっとお父さんの方に体を移動させ、仕事終わりの匂いを嗅ぐように頭を預けてお父さんの胸板に鼻を近付ける。


 預けた頭を動かす。前より強く、前より長く。頭をグリグリと動かす。



「最近理子、犬みたいになってんで」


「実子ではないにせよ、娘を犬呼ばわりですか。酷い親も居たもんだ」


「……やめぇそのぐりぐり。ほんまに動物の行動やってそれ。良い歳した女子が男にやるもんちゃうで」


「親子なら何をしてもセーフでしょ」


「なわけあるかい。親子間でも明確にあかんラインは存在するやろ。ほんでこのしがみつき頭ぐりぐりもあかんラインの内側やと思いますけどね俺は」


「血が繋がってないからセーフ」


「輪をかけてアウトやねん」


「今更さ〜、10年以上親やってくれてるのにそんな事言い出すとかさ〜、悲しいなあ私。たとえ血が繋がってなくてもお父さんはお父さんなのに」


「最初に血の繋がり言い出したのそっちやからね? やし、こっちの主張は血が繋がってようとなかろうとあかんやろって話やねん。他人との境界線ちゃんと守ろう言う話やねんな」


「……」



 頭をぐりぐりと動かすのを止め、無言で強めに押し付ける。



「はあ……嫌なことあったんなら隠さず言うたらええやんか。ナイーブんなってんのは分かるけど、俺に甘えても解決しぃひんやろ」


「そんな事ないし」


「そんな事ない場合、何があったのかまるで分からへんくなるなぁ。父親に甘えなあかん精神状態って何? 愛情不足やと感じてんの? 今の俺、結構理子の甘えに対し寛容なつもりなんやけど」


「別に、お父さんに不満があるわけじゃないよ。けど嫌な事はあったのは事実だし、そういう事があって親に甘えるのって変な事じゃないでしょ」


「そうかなぁ……」


「そうだよ。よく映画なんかでも親に甘える子供の描写とかあるし。私くらいの歳の子でもそういう描写ある。だから自然」


「そういう感じのとはまたちゃうような気すんねやけど」


「気のせいでしょ」


「やったらええけど。ほんで、また撫でてほしいん? そうならそうって初めから言うたらええやん」



 ようやく頭を押し付けてる理由に気付いたらしい。気付いたのなら勝手に撫でてくれたら嬉しかったんだけどな。



「素直に言ったら普通の親子はっていう怠いお説教みたいなの言ってくるんだもん」


「今更言わへんよ、もう」


「ほんと?」


「ほんと。言うても聞かへんさかい、もう流すことにしたわ」


「トゲトゲ言葉だ。生まれ地域の本領出してきた。そういうのはもっと皮肉な回りくどい感じで言うもんじゃないの?」


「それ言うならチクチク言葉やろ。ほんで偏見に塗れた事言うてきよる」


「ぶぶ漬けいらないからね」


「言わんわ。変やろ、家族相手に言うたら」


「そうなの? 出てけって意味で言うんじゃないのそれ」


「そんな強い意味合い含んでたら素直にそう言うやろ……」


「なんて言うの」


「帰らへんの? って」


「嘘だ。そんなのイメージ通りじゃない」


「知らんわ。ほんならあれか、夜は冷え込みますねぇとかええ時計してはるって言うんちゃう」


「そんなの急に言われても『そうですねぇ』としか思わなくない?」


「会話下手やろその場合。文脈無視して急に言うわけないやん。相手が気ぃ回らんすぎる」


「ストレートに『早く帰って』って言えばいいだけだと思うけど」


「言うてるて。そんなんイメージとちゃう言うからわざわざ頭こねくり回して出したんやろが」


「ふーん。……てか、そんな話どうでもよくて」


「撫でたらええんよな。はあ……。ほれ、じっとしとき」



 ほれ、と言われたのでお父さんの膝の上に体をほとんど乗せ、浮いた足先をお父さんのふくらはぎ付近で絡めて更に体を密着させる。



「じっとしときって言うたんやけど」


「してるやん今」


「なんやねんこの姿勢。許されるの小学生までやろ」


「その期間はまるまる親からDVとネグレクトを受けていたもので」


「ごめんなぁ駄目な父親で。飯作るさかい降りてもろて」


「うー。……ごめんなさい」


「どんだけ降りたないねん」



 父親は困ってるのか呆れてるのか、もしくはその両方を声に滲ませながらゆっくりと俺の頭を撫で始めた。




 夏休みが始まってからも俺の生活は変化しなかった。

 定期的に通知で光るスマホの画面。

 通知の内容に目を通して、話が長引きそうなのを予感しながらも女子連中には返信。それ以外の連絡には未読無視を決め込む。


 前までは、俺の方からトークを切ると次に会った日とかに「あの日何してたの?」とか「寝るの早くない?」みたいな意味分からない質問を観察するような目でぶつけられる事が多かった。でも今は会話を雑に切ってもしつこく質問責めされないし、なんなら謎に優しくなったりする。

 なので必要な返信だけしたらトークをぶった切り、アプリを閉じて短い動画を連続で流す。


 中二の夏。

 色んな欲や情緒が育って、新しい事に挑戦したり恋人を作って時間を共有したりする時期。

 青春と呼ばれる期間の王道的ド真ん中。そんな時期なのに、何もやる気が起きない。


 数日前。コンビニに行こうとしたら以前よりも世界が色褪せて見えて、不快感とか感じる前に家に舞い戻ってしまったというエピソードを得てしまった。

 中二の夏に獲得するエピソードだとは思えなさすぎる。着々と引きこもりへのスキルツリーを伸ばしてる感じするなあ、俺。



「理不尽極まりない世界だ、な!」



 ゲーム内で俺のテリトリーに入り込んだ化け物を松明で燃やしながら呟く。



「ゲームや漫画の中で見る男の裸体には何の感情も抱かないのにな〜」



 少しずつ火傷が進行し、炭化していく人型化け物のまろびだしっぱなしの股間を眺める。

 ちんこって、フィクションの中じゃ割と気軽に描写されるものなんだよな。なのに、それと同じものが付いてる現実の男から長時間視線を向けられたりすると無視できないほどの不快感を抱くのは何故なんだろう。


 ……別に、その部位自体にどうこう悪印象があって不快感を抱いてるわけじゃないのか。こっちの体のパーツを性的な物に置き換えられてるように感じるのが嫌なのかな。

 エロ系ジャンルでの女体の扱いって、対等な人として見られてるというよりかは欲求を解消するための道具として扱われてるように見えるし。胸とか腰とか下半身とか、顔とか? そこだけを切り取って商品価値的に評価されてるように感じるから不満が募るんだろうな。偶然耳にした男子のエロ妄想も、相手の意志とか無視してそうな妄想ばっかりだし。



「ふーむ」



 慎也にされた出来事が未だ頭から離れない。慎也に関しては他の男子と分けて考えているはずなのに、俺のことを"性欲を解消するための消耗品"として扱ってるようには感じなかったのに、なんでここまで負の感情が長続きしてるんだろう。


 負の感情、なのかな。これ。


 もし仮に嫌悪感や不快感を抱いているのなら、ここまで鮮明に慎也の顔を思い出したり、された行為について思い返したりしないんじゃないか?


 負の感情というよりかは、無の感情に近いのかもしれない。

 慎也に対しての印象が無に近いのに無理矢理キスされたから、その時の衝撃が記憶として脳にこびりついてるだけなのかもしれない。


 それ自体は俺自身認識出来ているんだけど、それとは別になんだかその世界への関心が極限まで薄れてしまっている気がする。



「んー……」



 まあ、なんでもいいや。

 家に居れば必ずお父さんは帰ってくるし、日によっては一日お父さんが家に居る。

 こっちは夏休みで家から出る必要もないし、だから無駄にストレスをためることもない。完全なる安全圏、はっぴっぴーだ。わざわざ気が滅入るようなこと考える必要もないし、この考え事はやめにしよう。





 お父さんが帰ってきてしばらくやり取りを交わし、夜になる。もう時刻は深夜の二時を回り、リビングから響いていたテレビの音や光も消えている。


 お父さんはきっともう寝ている。万が一にも部屋のドアを開けられる可能性はない。


 スマホを置いて、体の向きを変えて、ベッドの上で自分の体に手を這わせる。



「お父さん……」



 単語を呟き、胸を揉み、太ももを擦りながら。目を閉じてお父さんのことを考える。


 男にジロジロ見られるのは嫌いだ。その視線にはなんだか、下劣な感情が渦巻いてるような気がするから。

 でもお父さんは違う。お父さんは俺に対して汚い目を向けてこないし、むしろお父さんが俺のことを意識的に見てくれてると昔の冷たかった視線との対比で胸が暖かくなる。勝手に頬が綻んでしまう。


 もっと見てほしい。


 ほんのり感じていた気持ちよさが強くなると、考えつきもしなかった言葉が脳裏に浮かんだ。


 もっと撫でられたい。


 喉から音が漏れて、息が荒くなる。



 こんなことしてるって知られたら、また全部壊れてしまう。お父さんは俺に対し『普通じゃない』という認識を強めて、かつてのように冷たい目で見るようになったり、最悪、本当の親じゃないからって理由でまた俺を置いてどこかへ行ってしまうのかもしれない。


 だからこの行為は絶対にお父さんにバレるわけにはいかない。

 この行為をする姿が情けないからとか、見られたら恥ずかしいから、なんてもんじゃない。

 そういう対象に"お父さん"を据えているのだから、バレたら家族会議すっ飛ばして離縁なんて事は全然有り得てしまう。



 まだ形はハッキリしていない。それで合ってるかも分からない。けれど、夏休みに入って数日経った頃からはっきりと自覚していることがある。


 お父さんのことが好きだ。


 親子愛なんかじゃなくて。もっと深くて、歪んでで、気持ち悪い愛情を、血の繋がっていない赤の他人に向けるべき恋情をお父さんに向けている。


 この行為のきっかけは慎也にされたことへの恐怖だった。

 それがきっかけとなり、他の男に対する敵対心みたいなものが逆にお父さんへの感情を突き動かしている……みたいな感じだと思う。


 嫌な思いをすればするほど、お父さんに甘えた時の温かみや安心感、包まれる感じ、そしてこの下腹部の疼きが強くなる。



 だから、

 俺は余計にお父さんから離れられなくなった。




 ある日の夜。お父さんがテレビを見ている横で、俺はほとんど体を預けていた。


 お父さんはとっくに眠たそうに船を漕いでおり、それが分かった途端に胸が苦しくなって、頬が熱くなるのを感じて。

 つい、耳元で小さく囁いてしまった。



「……お父さん。ずっと、こうしててね」



 返事はないし反応もない。この言葉はお父さんには届いていない、独り言のようなもの。


 でもそれで十分だった。言い切った瞬間に高揚感が身を包み、俺もお父さんに倣って目を閉じた。



 日が経つごとに、父親に対する想いがどんどん純粋に、歪んでいく。


 男はもう、全員敵っていう認識でいい。どうでもいい。そう思うのが楽。

 世界も敵。主語が大きすぎるけど、でも普通に生きる分にはそれでいいと思った。そう思った方が、気が楽。


 お父さんだけでいい。俺の心の中にいるのは、お父さんだけ。それが全部。もう、それでいい。



「もう、離れない」


「んがっ。あー……? 暑苦しいから離れてほしいんやけど」


「……」



 それっぽいことを囁いて締めようとしたのにお父さんが目を覚まし、もたれかかった俺を膝でガクッと蹴り動かす。



「娘を足蹴にするとは……」


「ちゃうねん。今のはただの反射や。ミオクローヌス言うてな」


「おやすみ!」



 なんだか途端に恥ずかしくなったので、よく分からない説明を始めようとするお父さんを無視して部屋に入る。

 はあ……。胸がバクバク言ってうるさくて眠れない。絶対お父さんのせいで昼夜逆転してるなあ……。

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