26話『暗蛹』
部活が終わって更衣室に向かう途中、体育館の裏手から男子たちの声が聞こえてきた。聞き覚えのある声、クラスメートの男子達だ。
「最近瑠璃川さ、マジでエロくなってね? なんだあの乳、絶対Fカップあるよな」
「胸元パッツンパッツンだもんなー。走ると交互に揺れるのやべえよな」
「まじ揉みてぇ〜。乳首弱そうだよな〜あいつ。抓りてぇ〜」
「普段静かな分喘ぎ声デカそうだよな。ああいう女が一番セックスする時うるさいんだってよ。性欲強いらしい」
「どこ情報だよそれ。どうせネットの聞きかじりだろ」
「あと脚もやっばいよな! 太ももエグいわ、スカート短くなってるし」
「脚フェチだもんな〜お前。短くなってるってか足が長くなっただけじゃね。彼氏が居るからってそんな急に体見せつけるようなことするか?」
「するんじゃね? あいつらいっつもイチャイチャしてるし」
「一緒に行動してはいるけどあんま触り合ったりはしてないよな。慎也かわいそー、あんなエロい女が彼女なのに触れないとか生殺しじゃん!」
「裏ではヤりまくってんだろ」
「いーなー。瑠璃川の体を毎日味わってるとかAVじゃん。パイズリとかしてくれそ〜」
「表では大人しいけど案外裏ではドSだったりしてな! 胸吸わせながら手コキとかしてんじゃねえの?」
「エッロ!!! やっばいなそれ、堪んね〜!!!」
……堪らないのはこっちだが。なんて話をしてるんだよ、クラスの女子相手にする妄想じゃないだろマジで。それをこんな、人が通るような場所で堂々と。気い狂ってんのかコイツら。
男子達はねちゃついた声で俺と慎也の裏事情を勝手に妄想し、下品な声で笑い合う。
聞きたくもない下賎な話。俺は足を止めて、壁に背中を強く押しつけながら窓の反射越しに喋ってる奴らが誰なのか確認する。
……慎也と仲良い奴や、真面目そうな奴、俺とも比較的に話してくれる奴まで居る。
人の前なのに勃起した事も隠さずに、むしろ周りに"俺への妄想"で立った事をわざわざアピールしながら笑ってる。なんだあれ、グロッ。キモッ。エグい。
背中を冷気が撫でるような、ゾワゾワとした感覚を覚える。嫌悪感と吐き気に襲われて気分が悪くなり、その場を後にする。
「……どいつもこいつも」
どいつもこいつも。男ってのはみんなそうだ。他人の体を見世物のようにジロジロと観察して、下卑た笑みを浮かべて身内で評価し合ったり、頭の中で汚してるのを楽しんでたり。中にはそういう欲を隠そうともせず、スカートの中を覗こうとしたり事故に見せかけて胸や尻に触ろうとしてくる奴さえいる。
女子は男子に厳しいって言葉を教室内で耳にした事があるが、何がそんなに疑問なんだろう。
こんな事が日常的に起こってるんだからさ、仲良くない男には理不尽なくらい冷たくしたり距離を取ったりキモがったりしても別にいいだろ。トントンだろ、そんなもん。
終わってる。あんな気持ち悪い生物、同じ人間として認めたくない。不快感が胃の底で熱を帯びて、食道をかけ登ろうと内壁を引っ掻いてくる。
「あいつら全員死ねばいいのに」
うっすらと思い浮かべたことを口にする。あんな楽しそうに語り合うってことは、普段から俺にそういう目を向けてるってことだもんな。
死なないかな〜、人生で一番嫌だと感じる不幸が立て続けに起きた末に自殺とかしてほしい。
……。
なんだそれ。今の一瞬で随分なことを思い浮かべたな俺。不幸が続いて自殺しろって、言いすぎでしょ。どんだけ性格悪いんだよ。
「めんどくせ。まじ、もう嫌だ」
今日は家の用事があるっていうので慎也が先に帰っていたので、一人で帰り道をボソボソ呟きながら歩く。
視線を落とし、間抜けな揺れ方をしながら足元を遮る馬鹿みたいな胸肉をボーッと眺めながら、先程言われたのが脳裏に蘇る。
『エロくなった』『揉みたい』『毎日味わいたい』
怖気の立つ言葉の数々。俺の体を性的なものとして形容する言葉たち。
朝起きた後や風呂に入る前、鏡の前に立つ度に"女"であることを自覚させられるのを思い出す。
胸の膨らみ、細くなった腰、柔らかくなった太もも、丸みを帯びた体つき。
男としての感性がそういった部位に視線を置く度、他の男子からの下品な視線と同様の感覚が肌に直接張り付いているような感覚に囚われる。
「まあ、エロいもんな」
理解は出来る。心が男だから、見た目だけで言うなら確かに興奮を助長する形しているなとは自分でも思うけどさ。
指が自然と自分の胸に触れる。膨らんだ乳房の柔らかみを指先で感じる。
慎也も、恋人である以上はこういう風に揉んでみたいと思っているのだろうか。思いっきり握ったり、顔を埋めたり、そういう事をしたいのを我慢して、俺の我儘に付き合ってるのかな。
我慢、してくれてるのかな。俺が嫌がるって分かってるから。
(……何考えてんだろ、俺)
おかしな事に、自分の体温が少し上昇してる事に気付く。
不快だったはずの言葉や自分に視線を向けられていた記憶が、なぜか今、体の中で熱を帯び始める。
嫌悪感が主であるはずの心に僅かな燻りを感じつつ、その感覚を引きずるようにしながら家を目指す。
男の視線すべてが汚らしい。なのに熱い。
慎也に対して何も抱いてなかったはずなのに、慎也の為に彼女"ごっこ"する度に似たような燻りを覚えていたのがうっすら記憶に浮かんでくる。
きっかけがなかったせいで無自覚だったけど、そうだ。慎也と付き合い出してから、俺は少し変になった。
味が甘いだけの猛毒を口にして、苦しみの中で甘さを享受してるような、どちらとも言えない感じ。それが静かに俺の常識を狂わせてくる。
「甘えるのも大概にしぃとき。もう14歳なんやから、親離れ出来ひんくなんで」
今日一日の不快感を全部押しつけるように強く、お父さんを抱きしめ、頭を撫でてもらっていたらそんな事を言われた。
「そんな事分かってるし。でもこれは、幼少期の経験が」
「はいはい、いつものそれな。ごめんごめん」
「……なにその言い方。嫌なんだけど」
テキトーな言い回しにムッとなって足と腕に力を込める。
胴体に回した腕を絞めるのはまだしも、絡ませている足に力を入れられたらお父さんとて骨折の危機を感じ反省するだろう。そう考えて取った行動なのだが、お父さんは焦った様子など微塵もなくただ優しく頭をポンポン叩いて力を緩めるよう無言で意思表示するだけに留まっていた。
「いつまでこんな事続けるつもりなん」
「え。なに、どういう意味」
「しがみついてきたり、くっついてきたり、体を触ったり匂いを嗅いだりすんの。頭撫でるとかもやで。自分で分かってんねやろ、これは行き過ぎやって」
「行き過ぎじゃないって。普通だって」
「ほんまに心からそう言うてる?」
「言ってる」
「……やったらよ。大人になってもこれを続けるんか? 想像してみい」
「知らない。お父さんの事嫌いになったらしないし、嫌いじゃないならするんじゃない。私がしてる事って変な事じゃないから。一般的な親子のスキンシップでしょ。大人のになったらなんて、その時になんないと分からないし」
「真面目に想像せぇ」
「したよ」
「答えは?」
「だから。その時になんないとわかんないって。嫌いなら離れる、嫌いじゃないなら変わらないんじゃない」
「……ほんまにそっくりやな。すっかり親子やん、理子と埜乃愛は」
お母さんの名前を出しながらよく分からない事を言って、お父さんはいつもより強めに俺を押し退けようとする。
何を思ったのかは知らないし、興味ない。どうでもいい。俺はこの心地良さを手離したくない一心で、お父さんにより強くしがみつく。
膝に乗って、最低限腰同士は接触しない程度に距離を保ちつつも頭はお父さんの胸に押し付ける。
ふと、立て掛けてあった両親の昔の写真を視界に収める。
「……いいじゃん。私達、やっと一緒になれた家族なんだからさ。他の人達よりも強く繋がってたって問題ないでしょ」
「理子」
「もう、お母さんはいないよ。私しか居ないんだよお父さん。私がお母さんとそっくりならそれでもいいじゃん。邪魔者は消えて、やっとまともな家族をやり直せる」
「何、言うてんの。ええ加減にせんと」
「私の事、嫌いなの?」
お父さんの口が止まる。それを良いことに俺は一度相手の胴体から腕を離し、頭の位置に改めて腕を回して口を塞ぎつつお父さんを抱きしめ直す。
それ以上何も会話は広がらず、お父さんは諦めたように俺に抱きしめられたままテレビを見始めた。
お父さんの理性って、物凄い強固なんだなぁと実感した。
夜。寝る前。
家の外で向けられる下卑た目線と、学校で見聞きしてきた下品な話。俺を性的なものとして扱う男達の生暖かくねちゃついた欲求。
家の中にある俺だけの安全地帯と、お父さんの温かさ。無意識にお父さんを求めてしまう俺の気持ち。
色んな欲と落差が俺のはらわたを混ぜっ返し、心臓を握って強引にざわめかせてくる。
ベッドに入って寝るぞってなってるのに、全然寝付けない。落ち着かない。下半身が疼いて疼いて仕方ない。
触らずにはいられなくなって、布団の中でそっと自分の体に手を這わせる。
胸を軽く揉んで、指で何度も胸肉の形を変えて、太もも同士を擦り合わせ、腰をくねらせる。
「……ん……」
口から小さな、熱を伴った息が漏れた。
頭の中で、男子たちの下品な言葉とお父さんの大きな体や体温が交互に浮かぶ。
悔しい。
不快だった視線が、快感に繋がっていそうな疼きへと変わっていく。
俺は目を閉じて、お父さんの男らしい体つきや感触を思い浮かべる。
指の動きが少しだけ速くなる。
『これは行き過ぎやって』
自分に向けて言われた言葉が記憶の中から聴こえてくる。
薄々気付いていた。流石にエスカレートしすぎだったと。
これは、ただの家族愛じゃないのかもしれない。
ここにきてようやく、俺のお父さんに対する感情への疑念がはっきりとした形を持って頭をよぎる。
罪悪感を越えた罪の意識と、甘い疼きが混ざり合う。
俺は確かに、お母さんの昔の写真を見て思ったんだ。『もうこれは俺の物』と。
自分のせいで命を絶ってしまった人に対して、信じられないくらい醜い優越感を抱いてようやく、今までの俺が汚物のような黒い感情をお母さんに向けていた事に気付いた。
憎悪、後悔、嫉妬、害意、執着心、罪悪感、優越感、陶酔感。ありとあらゆる要素が溶け合い、混ざり合い、下半身に無視できない熱を宿らせる。
空いていた手を下腹部に添わせて、行き着いた先の湿った所に指を侵入させる。
息を荒げながら、布団の中で小さく体を震わせた。
最悪な快楽が全身を包む。毒由来の甘さが脳に溶け込んで、酩酊状態のような痺れた意識のまま俺は思いついた単語を口にする。
「……お父さん」
自分の声が鼓膜を震わせた途端、また胸の奥が熱く疼いた。
俺はもう、ただの娘のままではいられないのかもしれない。




