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25話『pupa』

 慎也と付き合い始め、俺が見る世界は明確に二つに分かれた。


 学校での俺は『鰐淵慎也の彼女』という立ち位置を獲得したことで、ただ周りに合わせていただけのモブからそれなりに注目を集めるポジションに変化した。

 最初こそ好きじゃない相手との交際という意識からぎこちない感じで過ごしていたが、今はある程度慣れて"彼氏持ちの普通の女の子"を演じられている。


 まあ、その分家での素は今まで以上におかしな事になっているのだが。その話は今は一旦置いておこう。



 朝の登校中、慎也が当然のように隣に並んでくる。



「おはよ、理子」



 朝から嬉しそうな笑顔で挨拶してくる慎也。幼馴染の頃とは明らかに違う、好意を寄せる女子に対する表情だ。


 俺は朝から貼りつけていた表情を笑顔に変え、柔らかく「おはよっ」と返す。そしてジッと慎也の様子を伺い、楽しそうにしているのを確認してすぐに前を向く。


 手は繋がない。求められた時だけ最小限、隙間を作るような形で繋ぐ。

 肩は触れ合わない。何かしらの要因で距離が近くならざるを得ない時に限り、一瞬だけ当たる程度の接触しかしない。


 距離を取っているように見えるかもしれないが、本人が何か言うまではずっとこの感覚を保ち続ける。気にならないってことはそれで満足しているって事だろ? なら、必要以上にベタベタする事も無いしこれで十分。


 教室に入ると、すぐにクラス中がニヤニヤした声でざわつきはじめる。

 身の回りの恋愛事情は中学生にとっての一大トピックだ。

 話を聞く以上に、自分も何かしらの形で付き合っている連中のサブキャラというか、登場人物的なポジションに収まって話にいっちょ噛みしたいって思ってるんだろうな。



「ラブラブカップルの登場だー。おはよー理子、ついでに鰐淵ー!」


「なんで俺がついでなんだよふざけんな」



 普段絡む女子グループの内、その中でも比較的話す頻度の多い女子が俺達に挨拶しつつ悪態をつく慎也に肘打ちをする。


 なんとな〜く経験則で語るんだけど、この女子は多分『友達や身内の彼氏にときめくタイプ』なんだろうな。

 もっと正確に言うと、取りたくなるとか興味を抱いてしまう的な。世間が言う所の"彼氏の近くにいてほしくない女"というジャンルの一種なのだろう。



「てかまだ手ぇ繋がないのー? 鰐淵って意外と奥手ー」


「うっせ。お前には関係ないだろ」


「ひど! 感じ悪っ! えーん理子ー、理子の彼氏にいじめられたー!」


「あはは。まあ手は、まだ恥ずかしいから……」


「照れ屋だなぁ〜」



 笑って誤魔化しながら慎也に目線を送って荷物を置きに行く。この目線に何かしらの意図を含ませてるわけではないんだけど、ジッと目を見たら慎也が勝手に都合良く解釈してくれるので多用させてもらってる術だ。


 ……本当に受け取ってほしい本音は受け取ってもらえないんだけどな。

 慎也目線での俺は、多分当初の予定通りそれなりに"普通の彼女"をやれているのだろう。俺の一挙手一投足全てを好意的に捉えてくる。それはそれで楽だからいいんだけどさ。




 休み時間になると、俺は自分から慎也の席に行って話しかけるようにしている。用はない、ただそれが恋人としての自然行動だと思ってるからそうしているだけ。


 周りの視線が常に俺に刺さっている。恋する女の子として観察され、監視されている。だからそうせざるを得ない、息苦しい休み時間。


 近くに行くけど話したい欲求とかは特にない。だから俺は決まって、出しっぱなしになっている慎也のノートにシャーペンで絵を描いて時間を潰す。



「ん、今回は何の絵描いてんの? それなに、見たことない生物だけど」


「タコライオン。上半身がタコのライオン、可愛くない?」


「逆だろ。組み合わせるとしても絶対下半身をタコにするだろ普通。なんでタテガミの内側からタコ足生えてんの、キモくないか?」


「慎也を動物に例えたらこれかなって」


「俺ってこんなにキモいかな!?」


「キモくないよ。可愛いよ」


「本気でそれ言ってます? なあ、あぁすっごい笑顔。本心っぽい」


「へへっ。翼もつけちゃおー」


「キメラすぎる」



 テキトーな絵を描いて、テキトーな理由をペラペラ言い放って、思い入れがあるように見せかけながらシャッシャッとシャーペンを滑らせる。


 絵を描いていたら慎也が男子と話しながら俺の手元に視線を固定しているのに気付く。そして、慎也はおもむろに俺の手の小指あたりをつまんで少し持ち上げてきた。


 無意識に少し手を引こうとしてピクっと震える。



「なに。どうしたの?」


「そんな風に色塗り潰してたら手に付くだろ」


「あぁ、ありがと。でも、あんまり急に手を触ったりしないでよ。まだ緊張してるからさ」


「まだ緊張してるのか。他の奴も言ってるけど意外と緊張しいだよね、理子って。俺相手にも緊張するもんなの?」


「……慎也だから緊張してるんだよ。幼馴染だし、色々な意味で。察して」


「そっか。分かった、察したよ。まあゆっくり慣れていこう、な? 急がないからさ」


「うん」



 慎也は優しく笑うけど、相変わらず目だけは本心を隠し切れていない。傷付いてるというか、モヤモヤしているのが丸わかりだ。


 察した、か。一番大事な所を察せれてない時点でそんな事言われて理解してる風な態度取られても、心の距離は縮まらないんだけどな。


 はあ。

 表向きは自然に振る舞えてはいるものの、こういう素振りや表情を見せられるとやっぱり胸が痛くなる。



(最初から普通の女の子として生まれてきていたら、喜んで手を繋いだり出来たのにな)



 自分の手を擦りながら思う。



(時間が経てば何もかも平気になる、そう思ってるのに。一向に心が揺れ動かない。告白を受け入れたのに)



 自分の気持ちの強情さに嫌気が差す。傷付けたくないからって思ったくせに、これじゃ何の意味もないじゃないか。慎也に申し訳なくなる。


 でも、今までの関係値とか全部無視していきなり告白してきたのは慎也の方だしな。

 自分の欲求を抑え込まず、相手の迷惑を考えずに先に手を出してきたのは慎也なんだから、こっちだってある程度の我儘は許されて然るべきだ。


 ……醜いな、今の思考。フラットな状態で浮かんできた自己正当の言葉に驚く。

 俺って、他人に対してここまで思いやりのない事を思えるんだ。

 お父さんに言われていた『冷たい子』という言葉を思い出す。あれ、単に感情表現が希薄って意味で言われてると思っていたけどちゃんと俺自身の人格を評価した上での言葉だったんだ。



 こんな醜さを見抜いておきながら、それでも俺を守ってくれたり優しくしてくれたりしてるんだ。やっぱりお父さんって俺の味方なんだなぁ……。



 部活中に感じる息苦しさや胸の痛みは、慎也と付き合い始めてから軽くなった気がする。

 同時に、鶴舞自体に何か思ったり親しく話したりするようなことも減った。それどころか鶴舞がこっちに話しかけようとしてきたらそれとなく避けたり、当たり障りのない言葉を吐き出すようになった。


 今では鶴舞との関係はただの先輩後輩レベルにまで薄くなり、それに俺は満足していた。


 苦痛な時間が、退屈な時間にまで好転したんだ。慎也のおかげなのかどうかは分からないが、部活を心穏やかに過ごせるようになった事に関して一応慎也を紐付けて感謝を抱くようにしている。それが今後、慎也への想いを発露させるきっかけになればいいと願って。



「ねえ、ロリ子ちゃ」


「理子ー」

「慎也! 一緒に帰ろっ!」



 今日も鶴舞が話しかけに来た。愛想笑いの準備をしたら、タイミング良く慎也がやってきたので荷物を纏めてそちらにトテトテと駆けていく。


 チラッと見えた鶴舞の表情には寂しそうな感情の色が滲んでいた。


 見なかった事にして慎也に珍しくこちらから「どーん!」と言いながらわざとぶつかる。



「いってぇ!? お前部活真面目にやってた!? 体力有り余りすぎだろ!」



 驚きつつも嬉しそうに慎也が言う。勿論もう部活なんて真面目にはやってない。やる理由もなくなったし、別に手抜きでもスタメンに入れてもらえそうなくらい動けるしね。



「当然大真面目にやってたよ〜、来年のエースの座を狙っているのでな! 試合で出ること決定したら見に来てね! 応援してよ!!」


「そりゃ勿論行くけどさ。でも女バレの応援来る人って男子あんま居ないんじゃねーの? 気まずそう」


「いいじゃん。周り女子に囲まれて最前列で彼女の私に愛を叫んでよ。それがやる気の原動力になるってもんでしょ」


「拷問かな?」


「なんだよー、嫌なの? 彼氏のくせにー? 彼女への愛を叫べないのー?」


「嫌じゃないけどさ。てかそれ言ったらお前だって全然触らせてくれないじゃんかよ。お前に言われる筋合いねえよ」


「え、変態みたいな事言ってる」


「手繋いだりって意味だよ! 変な意味では言ってないから!!」


「嘘つけ。胸ばっか見てるくせに」


「み、見てねえよ!?」



 見てるだろ。なんで誤魔化せると思ってるんだよ、気付くよ。特に胸元への視線は分かりやすいんだよ男連中。まったく、他の気持ち悪い男子共と同じような目つきで胸を凝視しやがって。


 ていうか、今の慎也の言葉には少し刺々しいニュアンスが混ざっていた気がした。やっぱり手を繋ぐのを拒否ったり、接触を拒んだりするのって不満が溜まるものなのかな。



「じゃあ、分かった。今日はちょっと勇気出して手、繋いでみる」


「え? まじか!」


「まじ。けど、本当に恥ずかしいから今日が特別ね。次はまた、恥ずかしくなくなってからにして。じゃないと心臓もたないから」


「わ、分かった。よし、よーし……っ」



 慎也は自分の手の汗をズボンで拭うようにして、手の平どうしをスリスリしたあとこちらに手を差し出してきた。


 その手を掴もうとして、でも子供の頃みたいにガシッと掴むことはできず。俺は人差し指と中指と親指だけを慎也の指に絡め、出来るだけ体温を感じないようにしながら一緒に歩いた。


 頭の中がモヤモヤして、心の中がぐちゃぐちゃしてくる。決して明るくない感情が体の内側で渦を巻き、笑顔を維持しづらくなって俯き相槌の声もしだいに小さくなっていった。





 いつも通り、なんべんもなんべんも繰り返してきた日課のように。俺は家に着くなり鞄を床に叩きつけるように投げ捨てて靴をテキトーに脱ぎ散らかして廊下を走る。


 お父さんはリビングのソファには居なかった。音がしたのは洗面所の方。本能のままに方向転換し、ノックもせずに洗面所のドアを開いて驚いてるお父さんの胸にしがみつく。



「危ない危ない!! 髭剃ってる人の体にしがみつくのはやめような理子!! 危うく皮膚切るとこやったで俺!!?」


「ごめん。ただいま、お父さん」


「おかえりそして離れなさい」


「やだ」


「やだちゃうて……」


「ていうかなんでこのタイミングで髭剃り? そういうのって朝するものじゃないの?」


「朝やと時間ないから前日にやっておくんよ。そっちのが賢いやろ?」


「寝てる間に伸びた分は? にょきにょき伸びるもんでしょ、男の髭って」


「俺はそんな活発に髭伸びるタイプとちゃうからな。男性ホルモンが少ないんかもしらん」


「へー。あんまりオナニーとかしないんだ」


「おっと急に下品だぞ。どうした理子???」


「クラスの男子が言ってた。毎日オナニーしてると髭ボーボーになって髪の毛禿げるんでしょ? お父さんと正反対だ」


「思春期特有の都市伝説やなぁ……個人差やろそんなもん」


「でもニキビ潰したら大人になって顔面ボコボコの月の裏みたいになるってのは真実でしょ?」


「嘘と真実があんねんその手の話は。体毛剃ったら濃くなる言うのも単に切断面が毛の先端になるから濃く見えるってだけやろうしな。そういうのは真実として受け取ればええわ。ホルモン云々は信ぴょう性あらへんやろ、ツムジ押したら下痢になるとかと同じで噂止まりやろそれ」


「へぇ〜」



 為になりそうなウンチクを聞き流しギューーッとお父さんを抱きしめる腕に力を込める。


 今日一日感じた全ての感覚。他人の手、他人の体温、他人からの視線、他人が向けてきた笑顔や優しさ。それら全てを好意的に受け取るために嘘を演じ続ける自分の負の感情。

 胸の内にわだかまっていた混沌を全て忘れられるように、今触れている相手の感触を貪るように肉体を押し付ける。



「これなぁ。お前、胸デカいんよなぁ」


「お父さんもそこ気にするんだ。他の男子と一緒だね」


「キモいやろ。女の子からしたら意識してほしくないよなそんなもん。ほれ、俺も男子と同類や。はよう離れ」


「やだね」


「なんで〜」


「同じじゃないもん、同類じゃない。だから問題なし」


「打つ手なしやんけ」


「背中撫でて。理由は察して」


「……はあ」



 こちらからの要求にお父さんは困りながらも、落ち着かせるようなやさしい手つきで背中を撫でてくれた。



 髭剃りが終わるまでお父さんの背中側にしがみつき、終わった後も背後をピタッとくっついて動き、ソファに座ったらお父さんの腕に縋るように体を預ける。

 膝の上に半分だけ座るようにして、お父さんの手をぎゅっと握る。まるで、慎也との時間を上書きするかのように。



 二つに分かれた世界。家の外と家の中。幸せがない屋外と、幸せしかない屋内。そのギャップを意識する度に、お父さんへの甘えが少しずつ強くなっていくのを感じる。



「お父さん。今日もさ、ずっとこうしてていい?」


「あかん言うても聞かへんよな」


「聞かないね」


「なんで訊いてくるん? もう好きにしたらええよ……」



 半ば諦めたような声音で言うお父さん。そんな態度を取りながらも、決定的に俺を拒絶しようとはしてこない。優しい、温かい、安心する。人生全体を通して見ても、ここまで無防備になれる瞬間はなかった。



 慎也の手とは全然違う大きさと手触りと体温。慎也と一緒に居ても微動だにしなかった心がグズグズに溶けていく。


 ……っ。少しだけ胸が疼き、とある欲求が脳裏に浮かぶ。


 お父さんの胸に顔を押し付けたまま、恥ずかしさで震える声を何とか絞り出して思い浮かんだ望みを口にする。



「お父さん」


「なんや」


「頭、撫でてくれない……?」


「おー、まじか。行く所まで行ってないか?」


「普通だから」


「声ちっさ。分かってて言うてるやろ、普通ちゃうんやろそれ。正直に言うてみ」


「……普通だし」


「強情か。なに、それも受け入れな不貞腐れる感じか? 前あったよな、そんな事」


「不貞腐れるね」


「はぁ」



 ため息を吐いたあと、お父さんがそっと俺の頭に手を置いて動かしてくれた。

 優しく、丁寧に髪を梳かれる。その感覚に頬が緩み、さらに体を預けてしまう。


 体重を預けすぎたのか、接触面が増えすぎたのか、お父さんが手を離し体を動かそうとする。その時俺は無意識に相手の袖を強く掴み引き止めていた。


 中学生の体なのに小さな子供のように甘えてしまう。



 学校では普通の彼女を演じてるつもりなのに、家ではお父さんに縋って甘えている。


 現実を見返したら急に自己嫌悪と罪悪感が渦巻く。彼氏持ちでありながら、父親に酷く甘えている自分。死なせてしまったお母さんから、お父さんを奪おうとしているようにも思える不可思議な感覚。


 でも止められない。


 というかむしろ、慎也と付き合い始めたからこそ、お父さんからの承認が欲しくてたまらなくなっている。


 外で嘘を貼りつけ演じた分だけ、家での依存のような感情が加速していく。


 夜、お風呂から上がってパジャマに着替えた後も、寝に入るのではなくリビングに戻る。

 晩酌をしようとしてるお父さんの隣に座り、また体を預けて五感でお父さんの感触を確かめようとする。

 頭を撫でてもらう。その感覚を目を閉じながら味わい、お父さんの手を取って顔に擦り付ける。



「お父さん……」



 小さく呼んで、眠気を誘うほどに深くもたれかかる。


 人と付き合っているという状態なのに、彼氏とは違う人間で体と心を満たす後ろめたさが増幅している。


 元々男だったという意識は、既にお父さんに対しては何の意味も成さなくなっている。


 普通の女の子になるという決意も、普通の恋をするという覚悟も、この瞬間だけは丸々忘れてしまったかのように思い出せなくなってしまう。


 真実と虚構。二つの要素がゆっくりと、確実に乖離し始めている。

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