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24話『ドロドロ病』

 最近、家の中と外で世界がガラッと変わってしまったかのように感じる。


 家の外で起きる出来事は全てが退屈に思えて、無駄な事に思えて、何かに対して感動したり感情を揺れ動かすことはなくなって、ただ鏡を見ながら作った笑顔でその場をやり過ごすだけの日々。


 でも家に帰るとお父さんが居て、お父さんと話したり触れ合っている時は何度同じやり取りをしても新鮮に思えて、胸が温かくなって、いつまでもこの時間が続くようにと願う事が増えてきた気がする。


 流石にお父さんに甘えすぎてないか、俺。


 度々お父さんが疑問を口にしていたが、確かに俺のお父さんに対するスキンシップは同年代と比べると過剰なのかもしれない。



「負担、だよな」



 夕陽が差し込みオレンジ色に染まった教室で、回収したプリントをトントンと揃えながら呟く。


 外で起きる出来事は身に入らず、ただただお父さんや、家族の事を考え時間が流れていく。


 もう何日も、こんな感じだ。学校生活が仮想空間での出来事に感じるようになった。


 ボーッと考え事をする日々の中で、ひとつだけ、胸の奥にこびりついた思いが俺の頭にまた現れる。



(普通の女の子にならなきゃ)



 普通の女の子。それは人間社会で俺が生きていくための、必要不可欠なレッテル。


 元は男だったとか、心が男のままとか、そんなの関係無しにこの容姿で生きていくため符合するべき称号。


 俺はお母さんを不幸にした。


 俺がお母さんを殺した。


 俺が生まれてきたから。俺が我慢出来なかったから。俺が女の子をやりきれなかったから。


 ……俺が普通じゃなかったから、お母さんにあんな末路を迎えさせてしまった。


 お父さんの不幸も、今尚抱えているお母さんを失った疵も、俺が普通じゃなかった事に起因している。


 俺が最初から普通の女の子だったのなら、誰も不幸にならずに済んだんだ。


 卜部が虐められたのも。慎也が嫌な奴になったのも。鶴舞が最近、寂しそうにしてるのも。みんなみんな、俺のせい。俺が普通の女の子になれていないから、迷惑をかけないように気を付けていても周りを傷つけてしまう。



 いい加減、もっと我慢しなくちゃならない。


 望まなくても、応じなきゃ。演じなきゃならない。


 普通の女の子として、誰にも迷惑をかけないようにしなきゃ。じゃないと、



「理子」



 後ろから声がした。でもそれは予想していた声と違った。


 慎也の声だった。


 俺は教室の窓ガラスをチラッと見て、愛想の良い表情を作ってから慎也の方へ振り返る。



「どうした?」


「ちょっと、話したいんだけど。……いいか?」



 慎也は少し緊張した顔で、何かを決心したような顔でそう言った。



「……いい、けど」



 言葉に詰まる。

 慎也が俺を見る目。最近それと全く同じ目を見た覚えがある。

 勇気を出して真剣に、目の前の女の子に胸の内を伝えようとする男子の目。


 息苦しい。

 俺の視界が慎也の足元を映す。




 慎也に連れられ、校舎裏の誰も来ない場所に来た。


 夕陽が木々の間から差し込んで、地面に長い影を落としていた。その影をボーッと眺めながら、相手の言葉を待つ。


 前から深呼吸をする音がした。少しだけ視線を上げると、俺の正面に慎也が立っているのがわかった。



「理子」


「うん」


「あのさ」



 一度言葉が途切れる。


 ……何度目だろう、この空気感。気が重い。というかなんで慎也と俺の間にこの空気が流れるんだよ。意味、わかんねえよ。



「……俺と付き合わね?」



 予想、当たってるんかい。

 身構えてはいたはずなのに、胸の奥が更に重くなる。気分が深く沈む。



「なにそれ。どういう意味」


「どういうって、そんなの決まってんだろ。……信じられない気持ちはわかるけどさ」


「好きなの。私の事」


「……まあ」


「へぇ」



 ちゃんと言われてしまった。"好き"という言葉。俺の心は男なんだぞ? そんなこと言われても重荷でしかない。


 慎也に恋愛感情なんて欠片もない。当たり前だ、男同士の幼馴染としてずっと一緒にやってきたんだから。



「……」



 でも断ったら、また傷つけることになるんだよな。


 俺のせいで慎也は傷付くんだよな。


 お母さんみたいに。


 ここで告白を断ったら、慎也との関係も全部終わりになるのは分かりきっていた。幼馴染としての関係性も、友達としての関係性も、俺が育んできた数少ない大切な関係を、修復不可能なまで壊してしまう。


 慎也は、告白なんてしてもし断られたらって考えなかったのかな。


 告白した時点で今まで通りの関係になれなくなるって分からないのかな。


 ……自分の想いを伝えずに我慢する、それってそんなに難しいことかよ。自分の気持ちを優先するために、相手との距離感が壊れてしまう可能性とか考慮してくれないのか。


 なんなんだそれ。意味分からない。



「まじで言ってんの」


「えっ。……マジだよ。大マジだけど」


「そうなんだ」



 唇を噛んで俯く。

 指先が震える。


 でも、そう言い切ってしまうんだったら、もう仕方ない。


 俺は無理矢理笑顔を作り、震える指同士を絡ませていかにもな姿勢を取る。


 普通の女の子らしい、告白されて照れてるような笑顔を慎也に向ける。



「……うん。いいよ」



 声が震えた、少し掠れてしまった。でも慎也には言葉しか伝わらなかったようで、彼は一瞬にしてぱっと表情を明るくして見せた。



「ま、まじか!? マジなんだよな!?」


「大まじ。一応」


「っしゃ! はあっ、勇気出して良かったー……!」



 勝手な事を言う。勇気出してよかった? いい迷惑でしかない。


 彼は嬉しそうに笑いながら、俺の手を握ろうとした。


 無意識に指を引く。触れられるのが怖かった。



「っ、ご、ごめん。その……付き合うってなったら急に緊張が、みたいな」


「こっちこそごめんな、舞い上がってた! そっか。まあ、付き合うっつっても今までと大きく関係性が変わることなんてないしさ。少しずつ慣れていこうぜ。意識したらちょっと照れくさいなっ」


「あ、はは。そうだね」



 笑顔で喋る慎也に合わせて俺も笑って返答する。


 痛い、辛い、しんどい、気持ち悪い。慎也の、大切な幼馴染の勇気とやらを無駄にしないために嘘の笑顔を向ける自分自身の醜さに吐き気を催しそうになる。


 慎也の笑顔が、悪い意味で胸を締め付けてくる。まるで心臓に杭を打ち込まれたような気分。



 人生初めての彼氏が出来た。それは『普通の女の子』だったのなら心から喜んで、感極まって泣いてしまったり衝動で相手に抱き着いたり、そういう反応を示すべき事柄なんだと思う。

 俺の体は動かない。抱き着くとか、嬉し泣きするとか、そういう反応を示すことができない。これっぽっちも慎也に対してアクションを取ろうという気にはならなかった。


 当たり前だ。異性としての興味なんて皆無なのだから。

 恋心なんて1%も抱いていないのに、それらしい反応を取るなんて出来るはずもない。


 慎也に何か言われれば笑い返しはする。言葉の内容によっては照れたり、誤魔化したり、嬉しそうな態度はしっかりとわざとらしく取る。けど俺の心は、今までよりもずっと遠くにあった。




 慎也と別れ、家に帰る道中。俺の頭の中は今まで以上にぐちゃぐちゃな混沌状態に陥っていた。



(自分のせいで周りがみんな不幸になってしまう)


(我慢が必要だ。俺一人だけ我慢すれば、みんなが不幸にならずに済む)


(それなら応じなきゃ。望まれた事は全部、応じなくちゃ。普通の女の子として、普通の彼女、として)


(例えそれが嘘なんだとしても、本心ごと曲げて、歪めて、捻じ曲げて。告白を受け入れたのだから、心から好きにならないと駄目だ)


(お母さんの時のようになってはいけない。完全に騙しきらなきゃダメだ。自分の心ごと、嘘で塗り固めないと)



 考え事がエスカレートして、家の玄関前に着く頃に無意識下でそれらをボソボソと口に出していたことに気付く。


 ……いい事じゃないか。彼氏が出来るというのは、女として社会に溶け込むのにあまりにも適した状態だ。

 女同士の恋愛。叶わない一方通行な想いを抱くよりずっと健全で、清くて、正しい。ならこれって結果的に俺にとってはプラスでしかない出来事なんじゃないか。


 なんでこんなにも後悔が押し寄せてくる。意味分からない。頑張れよ、俺。受け入れたんだよ、慎也と恋人になったんだろ。彼氏が出来たんだぞ、今更後悔したって遅いだろ。

 即答なんてしなくても良かっただろ。なんで、その場でOKを出しちゃうんだよ。



「……うるさいな」



 自問自答から派生した自分への攻撃に悪態を吐きつつ、玄関のドアに手をかける。


 お父さんの靴がある。お父さんの香りの残りが俺の鼻腔をくすぐった。


 衝動的に靴を脱ぎ捨て、ドタドタと廊下を鳴らしながら走りリビングに居たお父さんを捕捉してその胸に飛び込む。



「どふっ!? おい、いきなりやな!?」



 いつも通りの行動。でも今日は特に強く、必死にしがみつく。


 あれ? 男から告白を受けて付き合ったばかりなのに、別の男にしがみつくって人としてどうなんだ? セーフなのかな? ……いや、大丈夫か。相手はお父さんだし。



「ただいま、お父さん」


「おかえりやけど強いて。日に日に増しとるって力」


「そんな事ないし」


「あるわ。ていうか理子、なんか顔色悪ないか?」


「え?」



 お父さんが俺の顔を見た後、心配そうな声音で話してくれた。

 心配してくれている。お父さんが俺を。それをストレートに言葉に出されて、頬がこしょばゆくなってついお父さんの胸に顔を埋めてしまう。



「吐きそうなん? 頼むからそこでは吐くなよ、トイレまで連れてったろか」


「いい。しばらくこうしてたい。動けない」


「飯食った赤ん坊抱いてる時と同じ心境やわ。いつ吐くか分からへんから怖いんよな。頼むでほんま」


「じゃあ撫でて」


「何がじゃあなん……まあ、そんくらいならええけど」



 大きな温かい手が背中を撫でてくれる。

 俺はお父さんの膝の上に腰を下ろし、向かい合うような姿勢のまま身を密着させてお父さんにしがみつき続けた。


 視界が真っ暗なまま手探りでお父さんの撫でていない方の腕を探り、見つけたら先の方まで指を滑らしてお父さんの指と絡ませる。


 離したくない。強く、強く手を握り、膝にも力を入れてキュッとお父さんとの接触面を増やしていく。



「……流石にあかんやろ」



 撫でるのをやめて俺の肩を押そうとするが、身を振って抵抗し両腕を背に回してお父さんの胴を捕まえる。



「お願いだから」



 震える声で言う。そこから先の言葉は紡げなかった。


 お父さんの中で様々な葛藤があったのだろう。悩ましそうな唸りを上げていた。しかし、時間が経つとお父さんはため息を吐いて俺を引き剥がすのを諦めてくれた。



(慎也と付き合うことになった直後、なんだよな)



 唯一俺が安心できる場所。お父さんと接している時間なのに、俺の胸に小さな罪悪感が芽生える。



(彼氏じゃなくて、お父さんに甘えてる)



 罪悪感の正体に気付きながらも、この温もりを手放す事は出来なかった。


 普通の女の子になる。

 誰かと恋をして、普通に生きる。

 それが一番健全であるはずなのに。



 お父さんに密着していたら、最期の日のお母さんの見下ろす顔がぼんやりと頭に浮かんだ。



『理子は私の鏡、同類なんだよ。普通になんか、なれるわけない』



 幻聴が聴こえてきたので、お父さんの手を強く握り手のひらで感触を確かめる。


 自分という存在が壊れていく。虚飾が本物に成り代わっていく。そんな予感と恐怖が、俺の意識を甘く溶かしていく。

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