23話『安らかな休日』
土曜日の昼。
普段なら学校が休みである土日こそ部活動が活発化するのだが、今はテスト週間で部活動も一時的にお休みに入っている。
つまりフリーの休日! 朝から夕方までみっっっちりしごかれるあの地獄のような一日を過ごさなくてもいい、真の意味での休日なのだ!!
とは言っても、あんまりリラックスは出来ていない。
ソファの端っこに座って、スマホを手に取っていたけれど、画面を見ても全然集中できなかった。
頭の中はまだ学校のこと、部活のこと、人間関係のことで渦巻いている。
重くて、色褪せていて、息苦しい。
ソファの端に座ってぼんやりとしていたら、新聞を持ったお父さんがやってきてソファにドカッと座った。
自然と体が動く。
スマホを机に置いて、お父さんの隣へ寄り添うように移動する。
「おはよ、お父さん」
「おはよう。今日部活は?」
「ないよ。テスト週間」
「そうか」
軽いやり取りを交わし、お父さんが新聞を広げつつコーヒーを飲む。
よいしょ。
肩を軽く預けて、膝をそっとくっつける。
落ち着くなぁ。こうしているだけで、頭に渦巻いていた諸々が溶けていくような気がする。
「お父さん」
「ん?」
呼びかけてみただけで用事は特にないのだが。でも用はない割にスルッと口から出たんだよな。なんでだろ、不思議だ。
お父さんは昔のように冷たい声で俺に話しかけなくなった。何を言うにしてもどこか暖かいというか、お母さんが死んだ日から突き放されてる感じがなくなった気がする。
新聞をめくる音が隣からする。新聞って、そんな夢中になって読むほど面白いのかな? 意外と何が書かれてるのか知らないや。気になるな。
「暇だねー」
「暇やなぁ。っておぉいおいおい」
お父さんの落ち着いた声に蕩かされるように、俺は今よりもう少しだけ体を預ける。お父さんの腕に体重を支えてもらうような、ぐでーっとしたゆったり姿勢を取った。
距離が近いからか、お父さんの体温がじんわりこちらに伝わってくる。更にリラックスして、なんだか勝手にお父さんの方に体を沈めるように感じになる。
「重い言うたらキレるか?」
「キレるよ」
「なら言わんでおくけど。邪魔やで」
「へぇ」
「へぇちゃうわ」
ちゃうわ、と言うけどお父さんは俺を引き剥がそうとはしなかった。
そのまま、時間が溶けるように過ぎていく。
お父さんが新聞のページをめくるたび、俺の体も小さく揺れる。
「……」
俺はお父さんの腕に自分の腕を軽く絡めて、指をそっと重ねる。相変わらず大きな手。温かい。
お父さんからのリアクションはなし。俺からのだる絡みにはもう慣れたのか。俺は指先でその感触を確かめるように、ゆっくりと手を動かす。
お父さんは何も言わず、ただ新聞を読み続けている。
時々、ページをめくる手が止まって、何を思ったのか俺の指に軽く触れてくる。
胸がじんわりする。何だこの感覚。心地良い。
俺は少しだけ目を閉じて、その感覚に浸っていた。
お父さんが新聞のページをめくる動きに合わせて、俺の指も小さく動く。
……指、退かしたくない。なんとなくそう思った。
どれくらい時間が経っただろう。すっかり夕方になっていた。
ぼんやりと天井を見つめながら、最近のことを考える。
鶴舞の「恋愛対象は男の子」という言葉。あれは随分と俺の心に痛手を負わせた一撃だった。まだその時の声を鼓膜が記憶しているほどだ。
その言葉を盗み聞いて以来、部活に行くのも、学校に行くのも、なんだか義務みたいに感じていた。
女子の輪の中で笑うのも、慎也が話しかけてくるのも、全部が全部、つまらない映画を観させられている様なものだった。
でも、お父さんにひっついてこうしていると、そういう感覚が一気にどうでもよくなる。
お父さんとこうしている時間が、俺にとって唯一の"苦痛を忘れられる逃げ場"みたいになっているのかもしれない。
折角の休みなので、二人で遅めの昼ごはんを準備することになった。
俺はキッチンでお父さんの後ろにくっつき、時々前に出て野菜を洗ったり、皿を並べたりする。それ以外はずっとお父さんの影みたいに動く。お父さんが動くたび、俺も一緒に動く。
テーブルに着くと、やはり当然のようにお父さんのすぐ隣に座る。
お父さんももう気にしていないのか、順応したのか、俺の所定の位置にご飯を置いてくれる。一々動かさずに済むから助かる。
距離が近いから膝が触れ合い、ふくらはぎが軽く絡まる。何度も重なる。
時々お父さんの顔を盗み見る。黙々と食べるお父さんの横顔をそれをただ観察する。
「……」
箸を持っていない方の手でお父さんの手に触れる。そしてそのまま、指を絡めてギュッとお父さんの手を握る。
「今度はなんや」
「別に」
「別にって。ほんなら離して」
「いいじゃん。手が暇なんだもん」
「手遊び用のおもちゃか俺の手は」
「そうだよ」
「ちゃうわ」
そう言って軽く振りほどこうとする。でも俺は手を離さなかった。
「なんでやねん」
「もうちょっとだけ」
「なんで?」
「いいから」
少し声が小さくなってしまった。でもそのおかげはお父さんは小さなため息を一つ吐くだけで、手を離さずにいてくれた。
その横顔に、微かな戸惑いと疲れのようなものが浮かんでいる気がした。
足をもう少し近づけて、温かさを確かめるように、ほんの少しだけ足先を動かす。
お父さんが何も言わずに足を少し引いた気がした。けれど俺の足の射程範囲内ではあったので、こちらは気づかないふりをしてただ箸をゆっくり動かし続けた。
先に食事は終わった。でもすぐ動き出す気にはならなかった。俺は立ち上がらず、そのままお父さんが食べ終わるのを待った。
「ご馳走さん」
「よろしゅうおあがり〜」
「なんでそれ理子が言うねん。どの立場や」
「ふへへっ」
お父さんが食べ終わったのを確認し、動き出す前にこっちが立ち上がって膝に乗るような格好で体を預ける。
「……なんやこれ。なんの儀式?」
「娘の甘え」
「を、越してんな。恐らく」
「だーかーら。越してないって」
「ほんまか? ほんまに越してないか?」
「越してない。父親の膝に座ってテレビを見るとかよくあるじゃん。それでしょ」
「テレビついてないねん。ほんでそれちっこい子供の話やろ。膝に乗せるにはちと育ちすぎてるなお前の場合」
「失われた幼少期の代替」
「……」
お。しめしめ、お父さんが黙ったぞ。幼い頃の話を持ち出すの最強だな。
膝に座り込んだまま肩を寄せ、手でお父さんの指の位置を探り指も重ね、足を軽く絡める。温かいなぁ〜人体。お父さんの熱に浸る。心安らぐ〜。
お父さんがテレビをつけても、俺はほとんど画面を見ていなかった。
なんか最近、こういう風にお父さんに密着している時間が、だんだん長くなってきているような気がする。
なんでなんだろう。でも、経過時間を見たらそれほどでもないというか、思ったよりも時間自体は経ってなかったりするんだよなぁ。
色んな考え、色んな考察が頭の片隅をぼんやりとよぎる。でもま、どうでもいいか。別に変な事をしているわけでもないし、お父さんに関する考え事は基本嫌な気持ちになったり直視したくない系の考え事じゃないし。止めようとは思わない。
この温かさに包まれている間だけ、この世の嫌なことを全部忘れられる。生まれた時から不幸だと感じていた人生が、女になったことで少しずつ良い方向へ向かっていっている。そんな確信がある。
夜が近づいても、俺はお父さんから離れられなかった。ほとんど体を預けたまま、ただボーッと緩やかな時間の流れに身を委ねていた。
まあ、お父さんが時々体を動かそうとするたびに反射的に袖を軽く掴んで引き止めたりした事は申し訳ないと思うが。でもお父さん、小さなため息を吐くだけで結局そのままで居てくれたんだよなぁ。
受け入れてくれてるんだよな? それなら存分に甘えよう。そうさせてくれるんだから問題なんて何一つない筈だ。
胸の奥で、じわじわと、何かが深く根を張り始めているのを感じる。でも今の俺には、どうでもいい事。気にする必要は無い、そう感じる。
休日の午後は、静かに、微睡むように過ぎていった。




