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21話『繭越しの世界』

 ごぉ……ごぉ……と音がする。


 水道の蛇口から流れ出る水が洗面器に落ち、排水管へと吸い込まれて消えていく。その光景をただぼんやりと眺める。


 全身から泥が滲み出て粘ついているような感覚がする。

 胸の奥のドロドロとした、煮えたぎった不快感が今にも喉を通って口から出てこようとする。



 目の前で揺れる俺と同じ顔をした死人の笑顔。


 手を伸ばしても触れることが出来なかった少年の背中。


 誰よりも近くに居たはずなのに今は少し不快な幼馴染の声。


 直視したら目が焼けそうになる鶴舞の笑顔。



 俺の内側に溜まった黒い澱が少しずつ、少しずつ目の前の渦に巻き込まれてどこかへ流れていく。でもどれだけ流したって俺の胸の奥は一向に軽くはならない。


 どれくらいこうしていたんだろう。ゆっくりと蛇口を閉め、水を止める。


 静寂の中で顔を上げる。


 鏡の中にはいつものように、嘘で塗り固められた少女の姿があった。





 前髪を直して、頰をパチパチ叩く。でもいつもの「よし、いい感じ」って気持ちにならない。今日はちょっと笑顔を作るのが下手だ。


『恋愛対象は男の子ですので!』


 鶴舞の明るい声が頭の中でリピートされる。



「……はあ」



 小さく息を吐いて制服に着替える。なんか、思った以上に引きずってるなぁ〜失恋。スカートの裾を直す手がなんだかぎこちない。自覚はしていたのに、まさかここまで根深く心に影響を及ぼすとは。


 俺、他人と恋愛しちゃいけないタイプなんだろうな。恋心を抱いても、どうせ叶わぬ片思いにしかならない。今回の件で痛感した。

 まあ、人生恋愛が全てじゃないし。しっかり切り替えていくかぁ。



 胸を苛む失意の重みは、学校に行っても少しも変わらず重いままだ。


 女子の輪の中で、友達に囲まれながら雑談する。周りのみんなは楽しそうに話すし、俺も一応は楽しそうなフリをして相槌を打つ。



「ねえ、昨日のドラマ見た?」「あの先生また厳しかったよねー」



 くだらない話。なんの面白みもない話題。それに適当に相槌を打って、笑う。それだけの簡単な作業。

 話に没入出来ない。

 なんだか今日は、身の回りで起きる全てが遠く感じる。

 体はここにあるのに、俺の心は輪に内側には入れず外から雑談する風景を眺めているような、そんな実感しか得られなかった。


 部活も同じだった。


 体育館に入ると鶴舞がいつもの笑顔で「ロリ子ちゃんおーはよー!」って手を振ってくれる。


 鶴舞の笑顔を見た瞬間、胸がチクッと痛んで表情が崩れそうになる。


 昨日まで感じていた温かさを一切感じない。鶴舞側の問題じゃない、俺の内面の問題だ。

 鶴舞に対しても、なんか、他の人間と同じような冷気を発して応対することしか出来なかった。



「…………おはようございます、先輩」



 声が少し小さくなる。それに、鶴舞に対し敬語で、先輩呼びしてしまう。

 声が小さくてよく聞こえなかった為か、鶴舞は特に気にも留めることなく俺に「うんおはよっ!」と言って走って行ってしまった。


 他の部員が話しかけてきても、ボールを抱えたまま頷く事しか出来ない。


 ボールを打つたびに気持ちが空回りする。


 鶴舞の声が聞こえるたび、ただただ痛みが胸の中を駆け巡って、呼吸がしづらくなって動きを止めてしまう。


 ドロドロに腐った鍋の中身に全身を浸しているような気分だった。



 気持ちの良い汗は流せず、無言で不快感に塗れながら拷問を終える。


 学校の帰り、更衣室に向かっていたら慎也がまたいつも通りの声で俺に話しかけてきた。


 背中を丸めて歩いていた為だろう。背中に軽い平手打ちを食らう。幼馴染らしい明るいスキンシップだ。その明るさに照らされて、俺の目の前の影がいっそう暗く、黒く濁る。



「よお理子、今日も部活お疲れ! 毎日毎日よくやってんなー、案外お前真面目だよな。一緒に帰らね?」


「……ちょっと待ってて。今、荷物まとめてくるから」



 無意識に声が少し尖る。不快感が喉から漏れ出してしまう。でも慎也は能天気な声で「おー。早くしろよー」と笑っていた。


 ……なんで急がなくちゃならないんだろう。チラッと背後を見たら慎也と目が合った。

 視線的に、尻とか腰周りとか見てたんだと思う。


 不快だ。気持ち悪い。慎也の視線が、言いようの知れぬ熱を孕んでいる気がする。



 夏休みを目前に控えているからか、何かを企んでいるのか、男子に話しかけられる事が多くなった。好意的な言葉とか、褒められとか、軽いいじりとか、そういうのを受けるようになった。


 ……話しかけてほしくない。体を見ないでほしい。男子からの視線とか、好意的な言葉とか、そんなの全然嬉しくないし今は受け止めたくも受け入れたくもない。


 目に映る光景全部が色褪せて見えている。

 空も、道も、帰宅ラッシュの人たちも。

 変わらない退屈な日常が、急に味気ないどころか、不快な物でしかなくなっていた。



 玄関のドアを開けて、お父さんがまだ帰ってきていないのを確認した瞬間に体が勝手に動く。


 今日一日の不快感を全て取り払うように鏡の前で容姿を正し、女らしい愛らしい笑顔を作る練習を何回も何回も何回もして、またお父さんのクッションを叩いてふかふかにして、ソファに腰を下ろし三角座りになる。


 膝に口元を埋めて自分の匂いを嗅ぎながらお父さんの帰りを待つ。玄関の扉が開く音がすると、俺は飛び跳ねるようにソファから立ち上がり勝手に逸る心に従って玄関へと向かう。



「おかえりー!!」

「早いわ。まずこっちがただいま言うてからやろ」



 仕事帰りで今日もクタクタなお父さんの上着を預かり、鞄も持ち、背後をピタッとくっついて鼻に飛び込んでくるお父さんの匂いを嗅ぎながら歩く。



「ぶぎゅっ」



 急にお父さんが立ち止まったせいで俺の顔がお父さんの背中に埋まる。シャツ越しに感じていたお父さんの匂いがいっそう強くなり、腹の奥がじんわりと熱くなった。



「すまん。大丈夫か? 鼻折れてへん?」


「大丈夫。無理して動かなくていいよ。そこで休憩したら」


「休憩?? 立ちっぱでどう休憩になんねん」


「動くなと言っている」


「意味分からへん。アホな事言うてないで座り。飯作ったる」



 深呼吸している最中だってのにお父さんは俺の行動に構わずそのままネクタイを緩めて台所へ向かった。


 お父さんの視線が切れたのを確認し、上着をかける前にそれに顔を埋めてまた深呼吸する。

 落ち着く匂い。安心できる匂いだ。

 日常の退屈も、学校での不快感も、鶴舞と居る時の痛みも、全部がマシになる匂い。



「そういえばお前まだ元気ないなぁ。学校しんどいんか? なんかあったんなら話くらいはぁー……なーにしてるん???」


「……っ。なにが?」


「なにがて。今、俺の上着に顔埋めてたやろ」


「匂いチェック。父親がワキガだったら嫌なので」


「その場合以前から既に分かってるはずやろ、ワキガって相当臭いんちゃうっけ。お前やたら距離近いやんけ、今更匂いチェックて意味あるか?」


「ワキガじゃなくても臭いかどうかは確認しなきゃでしょ。エチケットだからね。家族が身内の匂いチェックをすることは不自然ではない」


「逆やろ立場。それスポーツやってる息子に対して母親が取る行動ちゃうの」


「女が男に対して取る行動だってんなら娘が父親の匂いチェックをするのも一般的かと思うけど」


「パパ臭ーい下着一緒に洗わないでーが一般的なんとちゃうかな。安心しぃや、下着は分けて洗っとる」


「別に一緒でいいよ。回数増えるの大変でしょ」


「気にしぃそこは。今後も分けるわ。どうせ休みの日に一気に選択するで変わらん変わらん」


「負担を減らしたいという私の気遣いなのに」


「そんなもん子供が気にしんでもええの。余計な気ぃ回しとらんと自分の事だけ集中し。学校生活大変なんやろ? 勉強なんか部活なんか、それとも人間関係なんか。何に対してストレス貯めてんのか分からへんけど、そっちの改善に気ぃ回しとき」



 ふむ。一理ある。

 お父さんから預かった上着と鞄を所定の位置になおし、台所とリビングの境界に立つお父さんの方へ歩み寄り背に腕を回す。



「なんでやねーん」


「ストレス発散に努めろって言ったのはお父さんだから。ストレス解消の道具んなって」


「これがストレス解消になるん? 聞いた話やと、人間ある程度成長すると本能的に親や家族の体臭を不快に感じるようになるらしいで」


「遺伝子云々の話だろそれ。私とお父さん、遺伝の繋がり皆無じゃん」


「……せやけど。せやけどもやな、歳離れてるおっさんの動き回った後の体臭は大概くっさいやろ」


「デオドラント商品ちゃんと使ってるみたいだから全然不快じゃないよ」


「使ってへんしな。素やで今」


「じゃあ素が臭くないから気にしなくていいんじゃない。健康状態良好な証だ」


「良好なわけあるかぁ。酒タバコやってるおっさんとか体臭ぶっ濃いやろ」


「不快には感じない」


「鼻くそ詰まってんのか?」


「詰まってないわ。サイテーな事言うな。私女の子なんですけど」


「心は男の頃のままなんやろ? こんなん言われても気にしんやろ」


「……」



 気にするが。体が男のままだったとしても気にするだろ、不潔扱いされたら遺憾の意を表明するだろ普通に。



「まあええわ。満足したら離れろよ、今から飯作る言うてんのにくっつかれたらかなわんわ」


「このまま作ればよくない?」


「なんでお荷物にしがみつかれたまま作らなあかんねん。邪魔やシンプルに。座って待っとき」


「……」


「じゃーまーや。座っとき」


「はいはいはーい」



 注意されたのでお父さんから離れソファに戻る。冗談で言ったつもりだったのにちょっと語気が強かったな、こわぁ。



「ほんで近い! 飯食う時も! だからなんで隣座ってくんねん膝当たってる言うてるやろ!」


「私よりもお父さんの方が体でかいじゃん。膝当たってるのはそっち側の問題じゃない?」


「ほんなら隣以外の場所に座れや!」


「嫌だよ。私だってテレビ見たいもん」


「別に隣座らんでも見えるやろ!」


「ここがベストポジションなんだよ」



 そう言ったらお父さんが立ち上がろうとしたので、腕を掴んで「飯食ってる最中立つのはマナー違反」と注意してやった。


 お父さんが座り直したあと、もう少し身を寄せる。ピッタリ体の側面がぶつかり合うが、テレビ画面は見やすくなった。

 横顔をチラチラ見ながら、テレビに映し出された番組に対しどんなリアクションを取るのか観察しながら飯を食べ進める。


 心の傷を癒し、胸の奥の泥を洗ってくれるお父さんの熱を感じながら俺もテレビを眺める。


 自然に笑ったり、怖がったりとリアクションが取れる。なんで家と外とでここまで違うんだろう?

 ……まあ、ド素人の中学生の話題とプロの芸人さんが話す話題とじゃ実力差があるから、単純にそこで笑えるかどうかが変わってるってだけの話か。


 夜、ベッドに入ってからも、体の側面の熱やお父さんの体の感触が残っていた。人と身を寄せ合う事に慣れてなかったから、少しずつ肉体が正常な人間の感覚に近付いてきている証拠なのだろう。


 ……つい、鶴舞のことを思い出しす。せっかく暖かくなっていた胸の中が冷たく、痛くなる。けど無意識に、防衛本能的に"お父さんの匂い"を思い浮かべば、その痛みも軽くなって意識から薄まっていく。

 俺はどうやら最強の自浄能力を獲得してしまったらしい。



「これが親子愛の成せる技か……家族って、こんなに有難い存在だったんだな」



 感傷に浸りつつ目を閉じる。

 意識が暗闇に溶けた後も、お父さんから貰った熱だけは、消えずに優しく全身を包んでくれた。

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