20話『琥珀は重い』
「でさー、そいつあたしの彼氏に」
「うーわお前も彼女持ちかよー!?」
「今日で1ヶ月なんだよねー」
……なんなん?
噂には聞いていたが、中学二年の夏休み前と言うのは驚くくらい急速にカップルとやらが乱立するらしい。
俺が今つるんでいる女子グループの一員であるデータちゃん(俺が勝手に付けたあだ名)曰く、中学校三年間のうち最もカップルが増えるシーズンは中学二年の7月中旬から9月上旬。つまり中二の夏休み付近はやたらと色めき立つ男女が増え、校内で聞く話題もほとんどそういう色恋関係の話題が占めるとの事。
その情報のソース元はどこなんだ、ただの偏見なんじゃないかってのが正直な感想だったのだが、こう目の当たりにしてみるとデータちゃんの情報は正しかったんだなあと認めざるを得ない。なんなんだ、どこもかしこも。一年と三年の教室が固まってるエリアを歩く分には全くそんなことないのに、中二エリアに入った瞬間からピンク色の空気が漂ってるような錯覚を覚えるぞ。
色恋に狂うか、厨二の病に狂うか。どちらかに転ぶ生徒が溢れた結果、なんだかよく分からない空気が学年に漂う。
勘弁してくれ、なんでこんなジャンルごちゃ混ぜな中で学校生活を送らなきゃならないんだ。聞こえてくる会話のどれもが共感性羞恥っていうの? それを抱かせてくるから苦しい。平時とは別の意味で苦しい。
なんかこう、耳栓しながら過ごしたいです。毎日。
「はあ……」
ようやく体育館に到着したら今日はいつもよりいっそう熱気に満ちていた。真夏の差し掛かりを感じる、部員同士の掛け声が暑苦しいのなんのってね。でも中二エリアで耳にする話題と比較したらこの暑苦しい声の方がまだマシなんだよなぁ。
「あ、ごめーん! ボール取ってー!」
体育館の奥の方から鶴舞の声が聞こえてきた。よく通るなぁー、年中マスクしてても問題なくコミュニケーションを取れるのはあの恵まれた声質のおかげなんだろうか。それか声量か。
……。
やっべぇー。鶴舞と二人で話した日から、ずっと鶴舞の熱が胸に残ってる。声聞いただけでドキドキするとか相当だな。俺も周りの空気に充てられて、変に色めきたってるのかもしれない。
「あ、ロリ子ちゃーん! おはよー!」
「お、おはよっ! ございます……!」
鶴舞が笑顔で挨拶してくれたので俺も挨拶を返す。上手く笑顔を作れたかな、変な顔してなかったらいいんだけど……。
練習の合間の休憩中。俺はベンチの端っこに座って水を飲んでいた。
少し離れたところで、俺の同級や後輩たちが鶴舞を囲んでなにやら騒いでいるのが聞こえてくる。なんだろ?
「鶴舞先輩、ピアスしてるんですかー! おっしゃれー!」
「あははっ、バレちゃったかー。うん、左耳だけね〜」
ふっ。遅いな、情報が。俺は君達より前にその事実に気付いていたよ。トレンドの最先端はこの俺が掴んでいる、着眼点がまだ養えていないようだね。
と、一人で優越感に浸りつつなんとなしに騒ぎに聞き耳を立て続ける。
「でもさー、左耳だけってレズの証なんじゃなかったっけ?」
「そうなの?」
「そうだよ確か。鶴舞先輩ってレズなんですかー?」
どーーーんな話題??? ピアスをつける位置に意味なんてあるの? あるとしてそんな事面と向かって普通に聞くの? 先輩相手に? 言った側の神経の図太さにびっくりする。
「……」
あれ。なんか、無意識の内にボトルを握る力が強くなってる。
後輩のからかい声が、ぞわーっと広がる笑い声に若干の不快感を抱く。
なんでこんな反応を……? よく分からないまま、耳を澄ませて鶴舞の反応を待つ。
鶴舞の声が明るく返ってくる。
「レズじゃなーいやい! 同性に興味なんてありませーん! 私の恋愛対象は男の子ですので! ちゃんとイケメン狙ってるからねー!」
……。
「いやまあ、そりゃそう」
意識的にそう口にし、俯く。
鶴舞の言葉が胸の奥に落ちていく。
何か、俺の中にあった小さい何かが、静かに、でもはっきりと音を立てて崩れる感覚がする。
鶴舞は笑顔で周りのいじりに抵抗を示し、「あるわけないでしょー」などと当然のような反応で手を振って後輩の弄りを否定している。
鶴舞の笑顔が、急に遠く感じた。
当たり前の価値観。常識的な趣向。一般的な感情。そう分かっているはずなのに。
鶴舞の優しい手触り、温かさ、頭をくしゃくしゃにしてくれた思い出、その全部が。一瞬にして色褪せていくみたいだった。
女同士。
俺の体は女だ。今朝だって見た自分の顔、それはどっからどう見ても女だった。中身がどうだろうと関係ない、今の俺は女なんだ。
ずっと分かってはいるつもりだったけど、こうハッキリ口にされると。覚悟とか自覚とか、関係ないんだなって思った。
伝えるつもりは、まだなかった。でもいつかは伝えようと思った。部活が終わって、本格的に受験勉強に乗り出す前の僅かな期間とか。そういう時期に、軽く、自分の想いを伝えようと思っていた。
伝えられなくなっちゃった。
伝えたら絶対に困らせる。あそこまでキッパリ断るってことは、同性愛って思われる事に強い拒否感があるって事だもんね。
じゃあこの想いは伝えちゃ駄目だ。相手が乗り気じゃない以上、俺のエゴで相手に負担をかけるわけにはいかない。
俺のせいで不快な思いをさせたくない。相手の事をちゃんと考えなきゃ。
「……」
足元に転がっていたボールを黙って抱え直す。
なんか、声が出ない。出せなくなった。鶴舞がこちらを認識できる位置にいるからだ。
笑顔を上手く作れない。表情筋が全く働かない、動かそうという気になれない。
部活が終わってみんなが更衣室に向かう中、俺は一人で体育館の隅に残ってボールを片付けた。
鶴舞が「お疲れー!」と手を振ってくれる時だけ、今出せる全力の嘘で精一杯の笑顔を作り、手を振って、でも声は出なかったのでそれだけで別れる。
家に帰る道中、胸が鉛のように重く感じる。
足の裏が痛くなるくらい、自分の体が重くなったような気がする。
その日はお父さんが仕事で帰ってこない日だった。
「あははっ! でさー」
「へぇ〜! あの人そんな特技あるんだー変なの〜」
「……」
翌日。女子の輪に入っても、なんだか全部が色褪せて見えた。
何を言っているのかイマイチ内容が頭に入らない。曖昧な相槌を打つだけ、意見を求められても上手く受け答えができない。
変わらない日常が、急に退屈に感じ始めた。元々感じていた退屈より、もっと、いっそ消えたくなるなって思うくらいの退屈に。
久しぶりに、小学生の頃のようにトボトボと重い足取りで家に帰る。
玄関のドアを開けた瞬間、お父さんの匂いが僅かに俺を包み込んできた。
帰ってきたんだ。一日で帰ってきてくれて良かった。心の底からそう思った。
「ただいまー……」
「おう、理子。お疲れさん。飯は待っとき、今はゆったりタイムや」
「……っ」
リビングのソファに座っていたお父さんの姿を見た瞬間、俺は鞄を床に落としてそのまま迷わず胸に飛び込んだ。
「いったぁっ!? なんや急に、強い強い力つんよい!!」
いつもより強く、もっと強く。顔をぐっと押しつけて背中に回した腕に力を入れて、ぎゅーっと体を絞めながら深く深く息を吸う。
「深呼吸すなや!? なにしてんねんお前ずっと! 今日に限った話とちゃうけども輪をかけてやな!?」
お父さんの体温が体の中に染み込んでくる。ぽっかり空いた胸の穴を埋めるように、じわじわと体中が満たされていく。
今までの全部、先輩の言葉、胸の痛み、鏡を見た時の心の冷え込み、そういったものが熱によって溶かされていく。そんな感覚。
「理子! 聞けや! どないしたん力強ない!? なんなんほんまに、どんな感情なんそれ! なあ! …………理子?」
お父さんはぶつぶつ言いながらも、なにかに気付いたのか大きな手で俺の背中をゆっくり撫でてくれた。
その手が離れそうになった時、離れるのが嫌で、俺は無意識にその手を掴んで、もっと強く身を寄せた。
顔を胸に押し付けたまま、もう一度深く息を吸う。
……暖かい。男の体にここまで密着するのはどうかと思ってたけど、暖かくて安心する。
男というか、お父さんだからなのかもしれない。親子だから、本来は無条件で心を許していい相手で、俺の唯一の裏切らない味方だから、こんな事を思うのかも。
ずっとこうしてたい。
そんな思いが頭をよぎる。
……。
親子にしても、近いか? いやでも、最近の出来事で俺はめちゃくちゃ疲れたわけで。だからこれはあくまで普通の、家族として甘えてるだけだから。別に不自然な事でもないか。
俺に腕を掴まれたお父さんは、そのまま背中を撫でながら静かに言った。
「どうした。元気ないぞ。学校で何かあったん?」
俺は顔を上げず、ただ胸に額を押しつけたまま小さく首を振る。
「……なんでもない。ただ、疲れただけ」
この温かさに包まれてる今、あった事を全て打ち明ける気にはなれなかった。
ただこうして、抱きついていたい。そうしているだけで胸の奥が勝手に落ち着いていくから、自分の回復にのみ努めたかった。
お父さんは困っている。でも何故か、優しい声で続ける。
「……思春期やしな。色々あるやろ」
「……うん」
「お前、昔から頑張ってるしな。ついに限界来たって感じなんやな」
「……うん」
「ごめんな、助けになれんで。なんというか……えらいと思うで、理子。やからまぁ、あんま無理せんとき」
お父さんからの優しい言葉。その言葉に今回は、温かみがあった。
俺はお父さんの手を離し、足を動かして、お父さんの膝の上に座り込むようにしてもっと体を密着させて抱きしめる。
背中を撫でるのが、頭を撫でるに変わる。その感覚が心地よくて、余計に離れたくなくなってしまう。
……ガチで俺の味方じゃん。
口だけ優しいとかじゃなくて、本当に受け入れてくれてたんだ。
……お父さんだけなんだ。こんな風にしてくれるの。
ここにいると、こうしていると、嫌なこと全部忘れられる。一時的なものかもしれないけど、全部とっぱらって心地良さと安心感だけが胸に満たされる。
「……お父さん」
「なんや」
「ずっとこうしててくれる?」
小さな声で呟く、明確な甘えの言葉。
気持ち悪がられるかもしれない。拒絶されるかもしれない。そんな不安で腕が震える。
お父さんは少し黙った後、やっぱり優しい声で答える。
「しばらくはな」
簡素な一言。でもその一言で、俺の胸を苛んでいた痛みも重みも、虚無感でさえも完全に取り払われ、俺の目からは今まで溜め込んでいた大粒の涙が零れていた。




