13話『一方通行一本道』
土曜日の陽射しがカーテンの隙間から差し込んでくる。
目に優しくない鬱陶しい明るさに包まれた部屋。化粧品と服とコンビニのゴミ。乱暴に叩かれた後に投げ捨てられた吸殻の詰まった電子タバコ。よく分からない雑談系の配信動画を垂れ流すタブレット。
家族が思い思いの小物をきちんと指定された場所に置いている卜部の家とは違う、誰の目も気にせずテキトーにものを散乱させた空間。その中で唯一足の踏み場がある姿見の前に俺は立たされている。
鏡に俺が映っている。母親の鼻歌が聴こえてくる。俺の心とは裏腹に、鏡の中の俺が無理に口の端を引き上げた笑顔を作った。
「じゃーん! 理子ちゃん、見て見て! 昨日買ったのはこれ! かわいいでしょー!」
廊下から現れた母親の手には淡いピンクのフリルワンピースがつままれていた。
何着目か分からない、センスが良いかも分からないフリフリの服。袖口と裾に薄っぺらい布が張り付いた変な服。
「わっ、可愛い〜!」
「モデルが良いからね〜どんな服でも似合っちゃうからどんどん買っちゃう! お母さんが太っちゃった分、沢山オシャレしないとね!」
「……」
「あれぇ? 理子ちゃん、お返事は?」
「はーい! オシャレするする〜!」
無邪気に元気よく、馬鹿な子どものように返事する。ニコニコ笑顔を浮かべながら。
頬が引き攣って痛い、喉の奥がグルグル鳴る、自分の口から出た甲高い声に吐き気を催しそうになる。
もう小学五年生にもなったのに、母親に服を脱がされる。抵抗されると殴られるから抵抗しない。
鏡に映った自分の気持ち悪い下着姿から目を逸らすのと同時に、素肌に冷たい布地が触れた。嫌いな肌触りの布に全身を包まれて、後ろからファスナーを上げられる。金具のヒンヤリとした感触が背中を撫でるように感じて鳥肌が立つ。
「可愛いっ! かわいいかわいいかわいいっ!! お人形さんみたいだね〜理子ちゃんっ!」
母親が俺の頬を両手で挟んで、むにむに動かした後に唇を尖らせて鳥のような音を出してキスするフリをしてくる。
母親が退いて鏡に映った自分の姿が目に入る。
軽く巻かれた髪が揺れる。ガラス玉みたいな目と、ほんのりピンク色の頬と、不自然な微笑み方をする口。
気持ち悪い。
なんで母親は、こんな薄っぺらい笑顔を浮かべたくらいで喜んでくれるんだろう。どうしてこっちの気持ちを理解してくれようとしないんだろう。
……薄っぺらいと感じるのは自分自身だからか。もう自分の顔の形も見慣れてしまったから不自然だと感じるだけで、他の人にとったらこんな顔でも心から喜んでるって思えてしまうんだ。
冷めた心とは反対に、鏡の中の俺は微笑み続ける。嘘を写す鏡なんかいらない、こんなの今すぐ割ってしまいたい。
服を脱がしてもらっている最中、ふと母親が口を開いた。
「そういえばねー理子。実はもう一つサプライズあるんだ」
「サプライズ? なになにー!」
「お母さんとお父さん、また一緒に暮らせる事になったの!」
「……えっ?」
母親の言った言葉が頭の中で止まる。
「また家族三人で暮らせるのよ。嬉しいでしょ? あ、でも理子が女の子になっちゃった事はまだお父さんに言ってないよ。どう説明したらいいか分からなかったからさ〜」
明るい声で母親が話し続ける。それに上手く相槌を打つことが出来なかった。
父親が家に戻ってくる。それ自体は、嬉しい。父親の事は好きだ、母親に比べたら。いつだって俺の事を否定してこないし暴力を振るってくる事もない。他の家のお父さんとはちょっと違う感じもあるけど、それでも実の父親なのは間違いないし一緒に居て安心できる。だから最近話しかけに行っているんだし。
でも同時に、今の日常が壊れてしまうのではないかっていう不安もある。
今が幸せだとは思わない。
母親は俺の事を『理仁』ではなく、完全に『理子』という別の存在として見ている。息子は死んで娘が新しく出来たって言う風な可愛がりされ方をされていて、どこが幸せなんだって感じ。
でも、幸せだとは一切思わないけど、それでも昔と違って毎日痛みや悲しさに耐える必要が無くなったのは良い事だと思う。
男だった頃は何をしていても母親に苛つかれ、暴力を振るわれた。家に入ってきた害虫のように扱われてきた。包丁で脅されたことだってある。電子レンジを投げられた時は流石に死ぬと思った。
そういうのが無くなった今は、幸せではないけど平和だ。嫌な思いをするだけで、俺一人が我慢すれば母親は幸せ気分になれる。それで十分なんだ。
母親は父親のことが好きだ。父親が家に居たら、また昔と逆戻りになる気がする。
昔の自分にそっくりだから可愛がってるだけで、それは好きとか愛って感情ではないから父親への気持ちには勝てない。
父親がここに居たら、きっと俺は邪魔者になる。自分とそっくりな若い女、その特徴だけ見て敵だと思われるかもしれない。母親はそういう性格をしてる。俺が実の子どもだとか、そんな事は関係ないんだ。
俺が居たからアイドルを辞める羽目になった。つまり俺が悪い。そんな理屈でずっと嫌ってきたような人間が、アイドルを辞めてでも好きで居続けた相手がそばに居て俺を受け入れてくれるはずがない。
それに、もし昔のような生活に戻らなかったとしても、結局俺の感情は変わらない。幸せにはなれない、むしろ家族全員揃うことで余計に虚しい気持ちになるだけだ。
卜部と遊ぶようになって、普通の家族を知ってしまった。
卜部のお父さんやお母さんは卜部に優しい。卜部の妹は生意気な事を言うけどお兄ちゃんにべったりで、家族全員で冗談を言い合ったり、俺が遊びに来ていることをいじって卜部を怒らせたりしていた。……何を怒ってるのかはあんまり分からなかったけど。
卜部のお母さんは、何かと卜部や遊びに来ている俺にガミガミと小言を吐いてくる。けど嫌いだからそうしてるわけじゃないってのは言い方や表情から伝わってくる。俺の母親とは違う、卜部のお母さんは暖かい人だった。お母さんだけじゃない、全員暖かかった。
あんな自然に誰もが笑えて、気兼ねなく怒ったり意地悪したり何気ない話をダラダラし始めるのはうちじゃ見ない光景だ。
みんながみんな、お互いを大切にしてるのがわかる。
母親は最初から俺を嫌っていて、父親は最初から俺の事を居ても居なくても変わらない存在のように思っていて、俺は家族に心を閉ざしていた。
毎日何かに耐えていた。気兼ねなく、なんて喋れなかった。
母親の事を好きになりたい。心からそんな風に思ってただなんて、今にして思えば異常だ。小さい子どもが母親に対して『一度でもいいから好きになってみたい』だなんて思うわけがない。
『大好きだよ、お母さん』
そんな言葉、特に何も考えずに吐き出すことはできる。でもやっぱりそれは嘘で、言い終えた日の夜には卜部の家族と比較してひっそり息が苦しくなる時だってある。
苦しい。
この苦しみが、もっと強くなる。
父親と、母親と、三人で暮らしたいんじゃない。父親と二人がいい。母親はいらない。……なんて、昔みたいな事を言い出したら今度こそ殺されそうだから絶対に言わないけど。
鏡の嘘が少しだけ剥がれる。それと同時に、鏡越しに母親と目が合う。
「理子。理子もまた三人で一緒に暮らしたいわよね?」
「うん。勿論だよお母さん」
「本当?」
「ほんとだよ」
「……理子。私の事好き?」
「うん。大好きだよ、お母さん」
「じゃあ、私を困らせないでね」
「うん」
少しだけ冷たくなった瞳が俺の顔をジッと見つめる。母親に頭を撫でられる。嘘の笑みをもう一度浮かべて白々しく首を傾げる。
いつまでこんな生活が続くんだろう。母親さえ居なければ、それだけでいいのにな。
*
ベッドの上で仰向けになり天井をぼんやりと眺める。
「でしゃばり、か〜……」
瑠璃川が女子の集団と言い合いをしている時、居ても立ってもいられず庇うような事をしてしまった。
別にありがとうの言葉がほしくてやったわけじゃない。体が勝手に動いた。だからなんて言われようと気にしないでおこうと思っていたんだけど、瑠璃川は俺に対し「でしゃばるなよ」と言ってきた。
他の連中も言っていた。言われすぎて一日で聞き飽きた言葉だった。でも帰り際に瑠璃川の口から聞かされた時だけ、ズッシリと胸が重くなるような感覚がしたのを覚えている。
瑠璃川は、俺があいつの事を友達だと思っているのが意味分からないと言う。
瑠璃川は多分、本当は優しい人間なんだ。俺の時もそうだったけど、困っている人がいれば迷いなく手を差し伸べるし、誰かを差別したり区別したりするような奴じゃない。
素のあいつは俺が小さい頃に憧れていたヒーローとそっくりで、だから俺はあいつともっと仲良くなりたいと思った。ランドセルを拾ってもらったあの日から、俺はあいつに憧れを抱いてきた。
「なにが幼馴染だよ」
瑠璃川と鰐淵は幼馴染で、その関係性を瑠璃川は特別視してる。だから鰐淵に言われた事には従うし、瑠璃川はずっと鰐淵の味方で居続けた。
あいつがクラスのいじめっ子ポジションになったのは近くに鰐淵が居たからだ。鰐淵はいつだって男の頃の瑠璃川をついて来させていた。授業中でもそれ以外でもいつだって瑠璃川に付き纏い、誰かの悪口を言って共感を求めたり殴る蹴るの暴行を一緒にやろうと唆していた。
特別な幼馴染という関係性を利用して、本当は優しい人間に酷い事をさせる。そんな事ばかりさせといて、瑠璃川が女子になって孤立したくらいであいつは瑠璃川を切り捨てて別の人間とつるみだした。
手を差し伸べるべきなのに、あいつは瑠璃川に何もしない。時々喋ってる所を見るけど前に比べたらその時間はかなり減ったし、一緒に帰ることもなくなった。
「勝手すぎるだろ。なんなんだ、あいつ」
鰐淵と瑠璃川の関係性を考えていたらなんか腹が立ってきた。
特別に思っていたのは自分だけで、見捨てられたというのにまだ瑠璃川は鰐淵の事を気にかけている。俺にまで鰐淵の話を振ってくるんだぞ? それなのに鰐淵はなんでピンチの時にすら何もしなかったんだよ。不公平だろ、こんなの。
そんなことを考えていたら家のチャイムが鳴った。
「? なんだろ」
土曜日の夕方に家に来る人間なんてまるで予想がつかない。玄関へ向かうとドアのすりガラス越しに小学生男子っぽい影が映った。
紗香の友達かな。こんな時間にどうしたんだろう? ドアを開けてみる。
「よう。卜部」
「鰐淵……」
ドアの向こうに立っていたのは、嫌そうな顔をした鰐淵だった。
「なんで俺の家知ってるんだよ」
「馬鹿かよ。理仁と家が近いってことは幼馴染の俺も近所に住んでるって分からないのかよ。バーカ」
人の家の玄関先だと言うのに鰐淵は敵意むき出しの顔で学校同様に悪口を言ってくる。返事せずにいたら鰐淵は小さく舌打ちして靴裏の泥を落としながら口を開いた。
「お前さ。最近理仁とつるむようになって調子乗ってるよな」
威圧的な低い声で鰐淵が言う。……さっきまで鰐淵と瑠璃川の事を考えていたからか、拳に力が入る。
「は? なに睨んでんのお前。怖くないんですけど」
「……」
「自分ちの中にいるから気が大きくなってる? ダサいねお前。どう考えてもお前より俺の方が強いんですけど。勝負する?」
「……何の話だよ。勝負なんかしないし」
「あっそ。だろうね、俺に負けるの怖いもんな」
負けるのが怖いってなんだよ。変だな、今日の鰐淵。いつもより余裕がないように見える。
「お前さ、あいつのこと同族かなんかだと勘違いしてる?」
「あいつって誰のことだよ」
「理仁の事に決まってんだろ。他に誰の話するんだよばーか。死ね」
強く睨みながら吐き捨てるように鰐淵が悪口を織り交ぜた言葉を吐いてくる。俺が言葉を返すより早く、一歩近づいてきた鰐淵が次の言葉を続ける。
「理仁がなんで孤立してるか分かってんのか? お前のせいだよ」
「っ、なんで俺のせいなんだよ」
「お前みたいな底辺があいつを追いかけ回すから、理仁まで底辺の仲間だと思われてるんじゃねえかよ。つまらない奴と一緒にいたら同類だって思われて当然だろ」
「はあ!?」
つい荒い声が漏れる。でも確かに、俺と話してるせいで瑠璃川のイメージが下がったっていうのはその通りかもしれない。俺自身、庇ったことで瑠璃川までクラス全体のいじめ対象になったら嫌だなと思ってはいたし。
でも、鰐淵の口からそんな事を言われると言い返したくなってしまう。
何を偉そうに。お前が瑠璃川の事を語るなよ、なんて思いが強くなって口から言葉が溢れてしまう。
「……鰐淵はあいつの幼馴染なんだろ。なんで前みたいに話しかけないんだよ」
「うっせ」
鰐淵のビンタが頬に当たる。
「女の格好して学校来た時、瑠璃川の事避けてたよね。あんなにずっと一緒にいたのになんで」
「うーるーせーえっつってんの。耳聞こえねえのかビョーキ野郎」
「以前はずっと理仁、理仁ってあいつに付き纏ってたのはお前だろ。なのになんで今は避けてるんだよ、なんで孤立してる瑠璃川を助けないんだよ。それでも友達かよ! 自分から見捨てたくせにどの面下げて俺にそんな事言いに来てるんだよお前!!!」
「うぜえなあ!!!」
ビンタがパンチに変わる。強く握られた拳が俺の目の下の骨に当たり、バランスを崩して倒れ込む。
「なに俺に喋りかけてんだお前。立場を弁えろよ底辺。いつものヘラヘラはどうした? 笑えよ、笑ってみろよおい」
「……このっ!!」
「っ!?」
いつも通りの見下すセリフを受けながら何回も蹴られているうちに、ついに我慢できなくなって鰐淵のズボンを掴んだ。そのまま鰐淵を押し倒し、殴ろうとしたら腹を思い切り蹴られた。
鰐淵は素早く立ち上がってすぐにこっちに向かって砂利を蹴ってきた。その後後ろに下がってから、目に付いた石を持ち上げてこっちに投げる準備をしながら大声を出す。
「もうあいつに付き纏うな! 鬱陶しいんだよお前!! あいつに付き纏うのをやめたら俺もお前と関わるのを辞めてやる。やめないならもっと酷い目に遭わせるからな!!!」
「逃げるのかよ!」
「逃げねえわ俺の勝ちだばーーーか!!! あと、お前がまだ理仁に付き纏ってるのを見たら絶対あいつも酷い目に遭うからな! お前のせいでそうなるんだ! 分かったら言うこと聞け、それだけ言いに来たのに急に逆らいやがってきもいんだよ死ね!!」
一方的な言葉を吐き出すと鰐淵はテキトーな方向に石を投げて走り去っていった。勢いがすごすぎて呆然と鰐淵の後ろ姿を眺めてしまった。足音が遠ざかってしばらくしてから手の震えがおさまる。
「……勝ちって別に、ギブアップしてねーし。なんだあいつ」
ドアを閉め、自分の部屋に戻ってから背中を壁に預けて愚痴る。
『絶対あいつも酷い目に遭うからな!』
『つまらない奴と一緒にいたら同類だって思われて当然だろ』
『あいつのこと同族かなんかだと勘違いしてる?』
頭の中で、鰐淵に言われた言葉が繰り返される。
ほとんどあいつの勝手な当てつけで、俺が瑠璃川とつるんでるのが気に食わなくて言ったんだろうなってのは理解してる。だけど実際、鰐淵の言葉は完全に的外れというわけではない。俺が関わることで瑠璃川が損するってのは、今のクラスの雰囲気的にそうなんだろうなって納得出来てしまう。
俺がそばにいるだけであいつを不幸にしているなんて、そんなのは認めたくない。でも今のまま付き合いを続けたらそれが現実になるのは十分有り得る。
鰐淵は嫌な奴だ。俺に嫌がらせをするためなら幼馴染である瑠璃川を巻き込む事だって絶対ある。俺に罪悪感を抱かせるために他の男子に瑠璃川をいじめさせるとか、いかにもあいつが考えそうな事だし。
「……迷惑はかけたくないな」
鰐淵が俺へのいじめをやめるかどうかは分からないけど、少なくとも瑠璃川と離れればあいつへのいじめを扇動する理由もなくなる。
「…………ぜんっぜん意味分かんねえ。なんなんだよ鰐淵の奴、本当に」
ため息が漏れる。また拳を握りしめ、壁を殴る。
クラス替えまで半年を切ってる。来年はみんなが別のクラスになって、瑠璃川が新しい環境で友達が出来るのを願おう。
悩んだ末、俺は鰐淵の言う通り瑠璃川とは関わらない事に決めた。
胸が痛い。人生で初めて感じる痛みだった。




