10話『緩やかな坂道』
家に帰ると母親が笑顔で出迎えてくれた。
「おかえり、理子。今日はね、理子にサプライズがあるの。おいで〜」
母親の声は甘い。男だった俺には決して発さなかった猫なで声で手招きしてくる。俺はその気持ち悪い仕草に逆らうことなく、小さく「うん」と頷いて母親の膝の上に座り込む。
まるでお気に入りのおもちゃを触るような手つきで、馬鹿みたいな声で「理子はいつ見ても可愛いねぇ。誰に似たんだろう〜?」と言いながら俺の髪や頬を母親が撫でる。
ベタベタと。ひたひたと。気味の悪い感覚が縦横無尽に俺を襲う。
「じゃーん! 見て、新しい理子のお洋服! 理子はお母さんに似てるから地味な色よりこういう華やかな色が似合うよね! ふふっ。ピンク色のワンピース、どう?」
目の前に腕の部分だけが白くて他はピンク色のフリフリがついたワンピースが現れた。首の下に該当する場所には紺色のリボンが結ばれた状態でつけられている。
まるでおとぎ話のお姫様がつけるような、正しく女の子らしさを体現したような服だった。
「…………。可愛いね、すっごく可愛い。私に似合うかなぁ?」
「似合うよ〜! 理子じゃなきゃ着こなせないよこんなの! 理子はクラスで一番可愛い女の子なんだよ? こういう服を着ないと逆に浮いちゃうって!」
……授業参観にも来たことない癖に、よくクラスで一番可愛いだなんて言えるもんだ。でも喜ばないとまた酷いことをされちゃうから俺は「えへへっ」と照れ笑いのような声を出して喜んだフリをする。
着替えるように言われたからその場で服を脱いで、母親の目の前でワンピースを着る。途中、頼んでもないのに母親が俺の着替えを手伝ってきて、恩着せがましく「もう〜、お母さんがいないと駄目なんだから」と言って俺に「ありがとう、お母さん」と言わせてくる。
「やっぱり似合ってる! か〜わいいっ! ねねっ、理子ちゃん。お母さんの前でクルッと回ってみて」
「こう?」
「ちょっと早いな〜。もっとゆっくり、お母さんの子なんだからどんな風に回ればよく見えるのか分かるでしょ?」
分かるかそんなもん。でも何回も違うって言わせたら母親の機嫌を損ねてしまうから、俺は考えうる限りの可愛らしい仕草でわざとらしくスカートの裾をふらっと広げながら回ってみる。
キャーと楽しそうな声を出しながら母親がパチパチと拍手する。決めポーズを求められたので、受けが良かった手でハートを作って口の前に持ってくるポーズを取る。
(……)
鏡に映る自分の姿が目に入った。最悪な気分だ。
「うん、うん! リボンも似合ってるしフリルもいい感じ! 理子はお人形みたいに綺麗な顔してるからこういう服の方が見た目の良さを引き出せててかなり好相性! ふふっ、さっすが私! 愛娘の魅せ方を完璧に理解してる! 理子がお母さん似の子で本当に良かった〜!」
「……」
病気で変わってしまった顔なのに、これは嘘の顔なのに。何が母親似だ。確かに母親の顔そっくりだけどそれは後付けの顔に過ぎないだろ。
俺の顔はもっと男らしかったし、本当は父親似だった。こんなの俺じゃない。こんなの、俺じゃ……。
……。
母親の指が俺の髪を梳き、頰を軽くつまむ。
ファッションショーが終わると、新しい服を着たままの俺を再び座らせて髪や顔を触ってくる。
胸の奥がじわじわと冷えていく。気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い。
実の母親から「息子」ではなく、「愛らしい人形」として可愛がられる。
気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い。
苦しい。今にも吐きたくなるのを必死に我慢しながら、母親の猫なで声に「うん、うん」と返事する。
「……もう、いい?」
限界が近付いて、小さな声でそう言う。
ここまで俺を弄り回した母親は上機嫌になるからこれくらいの事じゃ怒ったりしない。散々好き放題されてきてようやく終わり際が分かってきた。ここらで今日のお人形さん役を降りたい、じゃないと俺の心が保たない。
「うーん。今日はとびっきり可愛いからもうちょっとだけ!」
「……」
「ふふっ。良いでしょ理子ちゃん? お母さんのこと、大好きだもんね〜? お母さんのお願い、聞いてくれるでしょ?」
「……っ、うん! 大好きだよお母さん! ちょっと恥ずかしいけど、モデルさん頑張る〜」
ギューッと絞められていた心が、グチャっと潰れるような感覚がした。
*
「ゆけ! ランドセルミサーイル!!!」
いじめっ子に奪われた俺のランドセルが弧を描いて飛んでいく。行き先は女子トイレの中。男子は決して入れない空間に向かって投げ込まれたランドセルが鈍い音を立てて個室の中へと消えていった。
「便器に入ったかなー? ホールインワンしたかなー?」
「そんな上手いこといくわけねーでしょ」
「女子トイレに入るのは勝手だけど、そしたらお前明日から変態の称号をつけられるからなー? 慎重に行動しろよな! う、ら、べ!」
いじめっ子達が掠れたような声で笑い合いながら去っていく。残された俺は唇を噛んだまま俯き、女子トイレの壁に背を預ける。
「くそっ……なんなんだよ……くそ、死ね……っ!」
辺りに誰も居なくなったのを確認して、一人で愚痴る。何度も何度も壁を蹴る。
「なにしてんの?」
「っ! る、瑠璃川……?」
壁を蹴っている最中、ランドセルを背負った瑠璃川が冷めた目で話しかけてきた。
誰か近付いてきたら分かるよう周りの音を聞いていたはずなのに全く気付かなかった。足音がまったくしなかった、幽霊かよ……。
「あいつらにランドセル投げられたんだよ。女子トイレん中」
「あいつらって? 慎也とか?」
「いや、鰐淵は居なかったけど」
「ふーん」
話を聞くと瑠璃川は女子トイレに入り中を彷徨い歩いたあと、奥の個室から俺のランドセルを取ってきてくれた。
俺の目の前まで来ると瑠璃川はランドセルについたゴミを手で払ってから「ん」とこちらにランドセルを差し出してきた。
学校じゃ、人の目を気にして俺と関わろうとしてこないから意外だった。
近くに誰もいないとはいえ、遠くから誰かに見られたりしてたら困るのは瑠璃川自身じゃないのか? 助けてくれた事には感謝するけれど、どちらかというと心配の気持ちが大きくなる。
「? なんだよ。受け取れよ、お前のだろ」
「あ、ありがとう。……ありがとうだけどさ。俺なんかを助けたらやばいんじゃないの?」
「何の話? トイレに邪魔なもん落ちてたから拾っただけじゃん」
本心からそう思ってそうな口調で瑠璃川が言う。
「トイレに邪魔なもんって。別にトイレに用なかっただろお前」
「用もないのに寄るわけないだろ。おしっこしに来たらお前が居てびっくりしたの」
「そ、そうなんだ」
うんと頷いた後、瑠璃川が右足を少し後ろに引いたまま動きを止める。俯いたままの姿勢で。
「どうした? なんのポーズだそれ」
「…………今日、お前ん家行ってもいい?」
「もちろん良いけど。ていうか最近全然俺ん家来てなかったくない? どうしたの」
「慎也とまた仲良くなったから。行きづらいだろ、俺アイツと一緒になってお前の事いじめてたし」
「入院する前もうちに来てたけどな」
「……お前と遊んでることバレたら慎也からハブられるし」
「……じゃあ来ない方がよくね? なんの意味があって俺ん家来るんだよそれ。意味わかんねー」
「わかんない」
「は?」
「わかんない。でもなんか、慎也と遊ぶのはなんか……なんかなんだよ」
何が言いたいのか全く伝わってこない。瑠璃川は俯いたままでどんな顔してるのかも見えない。
瑠璃川が自分ちに帰りたくない理由はわかる。瑠璃川は親のことを嫌ってる、だから帰りたくない。親と話したくないから帰宅時間を延ばしたくて俺の家に遊びに行こうとしてるっていうのも分かる。
でもそれ、わざわざ俺の家に来なくたって別の誰か、それこそ鰐淵の家に行くのが一番瑠璃川にとって都合がいいと思うんだけど。
「俺が遊びに行ったら、お前怒るか?」
「怒らないよ別に。楽しくもないのになんで来るんだろうとは思うけど」
「……別に、楽しくないなんて言ったことないだろ」
「散々言ってただろ。入院する前とか。俺は遊び相手ができるからって何も言わないでおいてたけどさ」
「……」
「おーい。瑠璃川ー? なんか今日、お前黙ってる時間多くね。体調悪いのか?」
「……悪くない。てかさ」
「うん?」
「きっ…………嫌いなら嫌いって、嫌なら嫌って素直に言った方がいいと思うぞ。お前、そういうの人に言えないタイプだろ」
「瑠璃川の事は別に嫌いでもないし、家に来て嫌ってこともないけど」
「なんのつもりか知らないけど嘘吐かなくてもいいよ」
「嘘じゃないだろ。確かにお前はいじめっ子ではあったけど、なんか俺の事助けてくれたし。今回だって助けられたし」
「そんなつもりない」
「あっそ。でも俺は助かってるし、だからお前のことは嫌いじゃない。なんだかんだ話してみたら悪い奴でもないって分かったしね」
「どこがだよ」
一層小さな声で瑠璃川が言う。なんか今日の瑠璃川はいつにもまして弱々しい、女子に無視されてるのは知ってるけどそれ以外にもなにか酷いことをされたんだろうか?
酷いことをされて、傷ついてこんな風になってるんだとしたら。うーん、放っとけない。でもいじめられっ子の俺に励まされてもなんの意味もないよな……。
こっちから『家に来いよ』って誘ってみるか。
「瑠璃川」
「なんだよ」
「今日のお前へなちょこで面倒くさいから、とりあえずうち来れば?」
「喧嘩売ってんの?」
「売ってない。お前が何を言いたいのかわからなくしてるのが悪い」
「……うざ」
瑠璃川の声に少しだけ元気が戻った。言った内容が俺に対する攻撃だったからあまり嬉しくはないけど、とりあえず調子が戻りかけてるみたいだし一旦はこれで良しとしよう。
トイレから瑠璃川が出てくるのを待った後、なんとなく一緒に廊下を歩き、学校を出て下校する。
俺と校内で肩を並べて歩くとか今までの瑠璃川なら死んでもやらなさそうだったのに、今日は特に文句を言ったり離れたりすることなくピッタリ横を歩いていた。
しばらく歩いたところで、突然声が飛んできた。
「あ! ロリ子ちゃんだー! ロリ子ちゃーーーーん!!!」
振り返ると、瑠璃川より少し背が高い女子がランドセルの肩紐を握りしめながらこちらに走ってきているのが見えた。
「鶴舞……?」
隣の瑠璃川が彼女を見て名字らしき単語を呟く。
「瑠璃川の友達? 良かった、女子全員から無視されてるわけじゃなかったんだ」
「いや。えっと……なんて説明したらいいか分からない」
「?」
はっきりしない言い方をした後、鶴舞と呼ばれた女子が瑠璃川の前で立ち止まり瑠璃川の手を取って「わーい!」とぴょんぴょん跳ね始める。
「こんな所で会うなんて偶然だね! ロリ子ちゃんっ!」
「ロリ子ちゃん……?」
「ちがっ、それやめてって言ったじゃん!」
「えー? ロリ子ちゃんって可愛いじゃん! ね!」
「えっ」
急に女子が俺の方を見てニコッと笑いかけてくる。ロリ子ちゃんって瑠璃川の事? ロリ……? 瑠璃川って、結構成長早い方だと思うんだけど……?
「ロリ子ちゃんのお友達? 初めまして、私鶴舞美玖って言います。六年生なので年上です。先輩って呼んでね」
「は、はあ。初めまして。俺は卜部って言います」
「下の名前は?」
「えっ」
初対面の女子から下の名前を呼ばれた。低学年とか幼稚園時代ならそういう事もあったけど、高学年になってからは初めてだ。
「……颯馬です」
「えーつまんない名前ー」
「だからそれはなんでなんだ。鶴舞先輩も瑠璃川も。俺の名前の何がつまらないんだよ」
「おーっ、ちゃんと先輩って付けてくれてる! やったー後輩できた!」
俺の切実な疑問はスルーされた。隣の瑠璃川が「ぷっ」と笑う。今の会話のどこに笑い所があったんだ。
「颯ちゃんとロリ子ちゃんは家近いの?」
「颯ちゃん!?」
「颯馬だから颯ちゃん。ロリ子ちゃんはロリ子ちゃん。あだ名で呼んだ方が可愛いでしょ?」
「可愛い……確かにそうかも」
「だから俺はロリ子じゃないって! 名前ずっと間違えてる!」
「そういうあだ名ってだけだよ〜。ちゃんと名前は覚えてるよ。理子ちゃんでしょ?」
「普通に呼んでよ普通に!」
「ロリ子ちゃんっ!」
「ねえ卜部どう思うこの人。ずっとこの調子で俺のこと馬鹿にしてくるの。許せないよね」
うぉっ!? なんか初めて瑠璃川の方から俺に体をくっつけてきた。
ていうか今までずっと暗かったのに鶴舞先輩と鉢合わせた時ぐらいから明らかに元気になってる。鰐淵以外にも同じくらい友達が居たのか。なんか良かった、安心したわ。
「許せないって〜? 年下の小娘が生意気なこと言ってくれるね〜!」
「一個しか違わないだろ!」
「一個も違えば全てが違うよ。私は君たちガキンチョより一年も大人なのだ、敬われるべき立場なのです」
「数ヶ月生まれるのが早かったら俺だって学年一つ上がってたし! 大した差ないですー俺と鶴舞には!」
「その差を埋められなかったから私とロリちゃんには年の差があるんですー。おばかちゃんにこの違いは分からないかなー?」
「ロリちゃんになった! 最早ただのロリになっちゃったじゃん!!! ふざけるなー!!!」
「ふっはっは。私から見ればロリ以外のなにものでもないからね! 名は体を表すのだよ」
そう言って鶴舞先輩が瑠璃川の頭に手をポンポンと置く。
おぉ、こうして見ると確かに上級生の大人の余裕のようなものが全身から滲み出しているような気がする。あの瑠璃川が手玉に取られるだなんて、このお姉さん中々の強者だな……!
「く〜〜〜っ!!! 卜部!!!」
「わわっ!?」
体をくっつけていた瑠璃川が更に俺の腕に腕を絡め、超絶至近距離から俺を見てくる。顔が近い! あとこれ、胸が当たってる!
「お前ん家にあった対戦ゲーム、あれ4人までプレイ可能だよな!」
「そ、そうだな」
「鶴舞! この後時間ある!?」
「あるある超ある! 今日は暇だよー、だから話しかけた!!!」
「よし。卜部んちで尋常に勝負だ鶴舞!!! 散々俺をコケにしたお返しをしてやる!! 着いてこい!!!」
「ちょちょちょっ、瑠璃川!」
「む。なんだよ卜部?」
なんだよじゃなくて。何こいつ人の腕を抱きしめながら歩こうとしてるの。すごいよ、両方の胸を押し付けてきてるじゃん。女子ってそういう胸系のやつ、男子に触れさせないようにするもんなんじゃないのかよ……。
「……? 卜部?」
「手、離せっ!」
バッと腕を引いて瑠璃川から離れる。はーびっくりした! 心臓止まるかと思った!
「なんだよお前、俺のことバイ菌かなんかだと思ってんのか?」
「えー? 颯ちゃんそれは無いよー、女の子に失礼じゃない?」
「ちがっ!? そういうんじゃないから!!!」
「じゃあなんだよ今の。まるで汚いものから離れるような動きしてたよな」
「お、お前が何も考えずに俺の腕を抱き込んで胸に押し付けるからだろ!!! 女子が男子に胸触らせていいのかよ!?」
「は?」
あっ。つい口が滑って起きていたことをそのまま言い放ってしまった。瑠璃川が固まっている、これはとんでもないことをしてしまった予感。
「あ、あはは。あらー、これはやってしまいましたな颯ちゃん。いや、この場合はロリ子ちゃんかな?」
鶴舞先輩がこの微妙な空気を察して何とか場を和ませようとしてくれるが瑠璃川はフリーズしたまま動かない。
「る、瑠璃川……?」
「……。えーと、だからなに?」
「へっ?」「ありゃ?」
「胸がなんだよ。俺はおとっ……俺が気にするようなことじゃないだろそれ」
明らかに今"男"と言いかけて止めたな。鶴舞先輩には元々男だったってことは言ってないっぽい? ……いや、にしても胸を男に触らせて『だからなに?』って反応はちょっと違うというか。
「よく分かんねーけど行こうぜ。こんな所でモタモタしてたら鶴舞のプライドを折る前に日が暮れちゃう」
「言うねぇロリ子ちゃん。果たして年下の小娘が私のプライドを折ることなんて出来るのかな? お手並み拝見だ」
「まだ舐め腐ってる! 見てろ、絶対目に物を言わせてやる!!!」
えぇー……? 俺と一緒に絶句していたはずの鶴舞先輩も直前のやり取りがなかったかのようなテンションで瑠璃川のペースに合わせてる。
俺がおかしいの? 考えすぎ? 絶対考えすぎじゃなくない? 結構ドキドキしたよ俺? 瑠璃川はそれ言われて何も感じないの? すごいな逆に。
その後。自信満々だった鶴舞先輩はその自信とは裏腹にゲームがあまり得意じゃなかったらしく、宣言通り瑠璃川は経験者として徹底的に鶴舞先輩をボコってボコってボコりまくっていた。
瑠璃川が最初に来た時もそうだったが、家に友達が来てワイワイ騒ぎながら遊ぶのってこんなに楽しいんだって気持ちを噛み締める。
鶴舞先輩と瑠璃川が喧嘩して、間に俺が挟まって、どっちかの味方をしたり二人共が俺の敵になったり。後になって考えると、この三人ってとてもバランスが良かったんだろうなあって思う。人が帰る時になって「また絶対来いよ」なんて言ったのなんて生まれて初めてだったし。
やっぱり、少し複雑だけど瑠璃川と友達になれて良かったと思う。瑠璃川と仲良くならなければこんな楽しい思い出来なかった。
俺はいじめられてるし、それがなくたって自分から友達を作るようなタイプじゃないし、きっと仲良い人が出来ないまま中学に上がって、やりたい事も見つからないまま退屈な大人になっていくんだろうなって。
だから俺は、瑠璃川がなんて言おうと瑠璃川の事を友達だと思うし、これからも仲良くしていきたいし大切にしたい。嘘偽りなく、心の底からそう思った。
*
卜部の家を出て、一人で家に向かう道。オレンジ色の夕陽が道路を照らす。
俺はゆっくり歩きながら、今日のことをぼんやり考えていた。鶴舞と、卜部と、三人で馬鹿みたいに騒ぎまくった時の事を。
楽しかった。今までの人生で一度もないくらい。
長く伸びた影は俺の心残りを形にしたかのように、真っ直ぐ卜部の家の方に伸びていた。
自分の家に運ぶ足が重い。家の扉を開けたら、また自分の心を押し殺さなくちゃならない地獄のような時間が始まる。
角を曲がったところで、ふと足が止まった。
「……あれ」
道の先にどこかで見たようなスーツ姿の男の姿があった。
「父、さん?」
煙草をくわえる横顔には見覚えがあった。それは、数年前に俺と母親を捨てて遠くへ行った父親の横顔だった。
「父さん……っ」
気付けば俺は震える声で父親を呼びながら彼の方へ歩を進めていた。
父親は俺の存在に気付く。そして、父親は見覚えのある動作で煙を吐いたあと、ゆっくりと頭を傾げて俺の目を見た。
「誰? 君。迷子なん?」
……。
別に驚くことはない、当然の反応。今の俺はかつての"瑠璃川理仁"ではなく、病気によって女体化し顔も変わった"瑠璃川理子"なのだから。相手が実の父親だからって、気付かないのは当然の事だった。
「あれ。でも君の顔、どっかの誰かさんに似てる気ぃするなあ」
そう言って父親の目がしっかりと俺の姿を収める前に、俺は体の向きを変えて全力疾走で家の方へと向かった。
目頭が熱くなって鼻水が垂れてきそうになるのを必死にすすりながら走る。
こうなる事は分かっていた。でも実際俺が誰なのか気付いてもらえなかった時、心を絞めつけられるような息苦しさを感じた。あそこで走り出さなかったら間に合わずにみっともない姿を父親に見せていたに違いない。
父親に、"見ず知らずの子ども"に目の前で泣かれるという面倒事を押し付けなくて本当に良かった。
夕陽が、今度は父親が居た分かれ道の方へと伸びる。
さっさと夕陽なんか沈んで、影なんか出来ない真っ暗な夜になればいいのに。勝手に心を代弁しようとする影を踏みつけながら、その気持ちを自分の足で踏みつけながら走る。
さっきまで人生で一番いい日だったのに、今日は人生でトップ10に入るくらい嫌な日になった。




