第8話 広がっていく世界
SPが校門をくぐると、コイカミが現れました。
「SPちゃんおはよ~!」
「あ……お、お、おはよう、コイカミちゃん」
「んー……今日は顔色も悪くないね。猫背の角度も多少マシだし」
「そ、そ、そんなとこ、見なくていいよぉ……」
SPは恥ずかしそうに背中を丸め、視線をそらしました。
「あはは、これもキュラド様の愛のおかげだね!」
「ど……どう、かな……」
SPは気になっていたことを聞いてみることにしました。
「コイカミちゃん。あの……こ、恋をしてるひとにしか、見えないって……ほ、本当なの……?」
「うん、本当だよ。試してあげよっか」
コイカミは楽しそうに笑うと、登校してくる生徒たちの進行方向へと回り込みました。
「みんなおはよ~! 今日も張り切っていこー!」
明るい声で手を振るコイカミ。
「コイカミ朝から元気だなー」と気軽にあいさつを返す生徒もいれば、まるで何もない場所を通るかのように、彼女を避けることなく歩いていく生徒もいました。中には、そこに何かがいると知っているかのように、わざとらしく目をそらして通り過ぎる生徒もいます。
反応は様々でしたが、コイカミの姿が見えている生徒と、そうでない生徒がいることは、SPにもはっきりと分かりました。
「ね? わかったでしょ?」
「ほ、本当なんだったら……じゃあ、キュラドは……」
「うん、あの吸血鬼も恋してるんだよ」
コイカミは迷いなく答えました。
「…………い、い、いったい……誰に……」
SPは俯きかけていた顔を、そろそろと上げました。聞きたいことは決まっているはずなのに、いざ口にすると、声がうまく出てきません。
「……はぁ!?」
コイカミは目を丸くし、思わず声を上げました。
「何言ってんの?誰にって、逆にSPちゃん以外誰がいるのさ!」
「で、でも……コイカミちゃんとか……あ、あとは……本当に、し、知らない、誰かとか……っ」
SPは慌てて言葉を重ねました。自分で口にしておきながら、その可能性を考えるのは落ち着きません。けれど、そうではないと確かめることもできず、ほかの可能性を挙げずにはいられませんでした。
「……バカなの?」
コイカミは大きなため息をついたあと、めんどくさそうに説明を始めます。
「あのねえ、他の誰かはともかく、わたしに恋してるわけないでしょ。誰かに恋したことで初めてわたしに会えるんだからさ……」
「……あ、そ……そっか……」
SPは小さく頷きました。
「まあ、いいや……好きに思っておいたら? わたしは、ただ特等席から見守るだけだよ」
コイカミは空中でくるりと回り、ウインクしてみせました。
「……じゃあ、あの、き、キズノさんのこと、なんだけど……」
「ああ……アレね」
「キュラドに、な、なんて言ったの……?」
「詳しくは話せないよ。プライバシーの問題とかもあるしね。気になるなら、キュラド様の口を割るか、それか……」
コイカミはそこで言葉を切ると、ふと視線を横へ向けました。
彼女の視線を追うと、そこにはキズノの姿がありました。
「……本人に直接聞くか、だね」
「直接……」
その言葉が、思いのほか重く胸に落ちました。
「どうするかはSPちゃん次第。ま、頑張りなよ!」
コイカミは、SPの迷いを見透かしたように笑います。最後にSPの背中をポンと叩くと、その姿はふっと消えてしまいました。
SPはしばらくの間立ちすくんでいましたが、やがて両手をぎゅっと握り締めると、足早にキズノの元に向かいました。
「……お、お、おはよう」
キズノは驚いたようにSPの顔を見つめました。目を見開いたまま、少し間を置いてから「……おはよう」と返事をしました。
「あの、ね……き、昨日の……英語の、か、課題、む、むずかしかったよね」
「あ……そうだね。終わらせるの結構苦労した」
意外にも、キズノは相槌を返すだけでなく、自分の話もしてくれました。
そのまましばらく沈黙が続きました。SPは次に何を話せばいいのか分からず、視線をさまよわせながら言葉を探していました。やがて、キズノが沈黙を破りました。
「……あのさ、怒ってないの?」
「へ……? な、なにが?」
「こないだ、無視したこと?」
「あ……あれ、って……や、やっぱり、無視、だったの……?」
「いや、無視じゃなかったら何なの……」
SPは困ったように視線を落としました。
「……我は、ずっと、と、友達いなかったから、あの、距離感とか、わ……わかってなかったなって、思ってて……」
言葉を探しながら、何度も指先を握ったり開いたりします。キズノの反応をうかがうように顔を上げかけましたが、すぐに視線を落としました。
「何それ」
キズノは眉をひそめました。
「あ、あの……急に、ぐいぐい、距離……詰めちゃって、ご、ごめんね」
SPは俯きながら、途切れ途切れに言葉を続けました。謝罪の言葉を口にしても、胸の奥に残っていた気まずさは消えませんでした。
けれど、キズノはそんなSPの言葉を聞き終えると、重く息を吐きました。
「……呆れた。どう考えても私のこと責める流れでしょ。そうやって自分ばっかり責めて生きてきたんだ」
SPは思わず顔を上げました。キズノは、驚いたように黙り込むSPをまっすぐ見つめていました。
「気を付けたほうがいいよ。カイレイに目付けられてるみたいだから。結局、理由はよく分からなかったけど……」
「え……あ、う……うん」
SPは戸惑いながらも頷きました。カイレイの名前を聞いて、聞きたいことが浮かびかけましたが、うまく言葉にできません。
「あの男、何考えてるか分からないし、倫理観とか……おかしいから」
「……わ、わかった」
また、沈黙が落ちました。SPは何か話そうと口を開きかけましたが、結局、言葉は出てきませんでした。
「……じゃ。もう行くね」
「ま、待って」
呼び止める声は、思っていたよりも小さくなりました。それでもキズノには届いたらしく、数歩進みかけていた足が止まります。
「……何?」
キズノは振り返りました。表情からは、急いでいるのか、ただ返事を待っているだけなのか、SPには読み取れませんでした。
「ま、また……は、話しかけても、いい……?」
ようやく口にした言葉は、途中で何度もつかえました。そこまで言って、SPは俯きました。キズノの顔を見ることができず、返事を待ちます。周囲では、登校してきた生徒たちの話し声や足音が行き交っています。けれど、SPの意識は目の前の沈黙にばかり向いていました。
とても長い時間、沈黙が続いたように思えました。やがて、キズノが口を開きました。
「好きにしたら。クラスメイトなんだし」
素っ気ない言い方でした。
SPはゆっくりと顔を上げました。キズノはすでに視線を逸らして、歩き始めていました。
「うん……」
小さく頷くと、胸の奥に張りつめていたものが、ほんの少しだけ緩みました。
*
深夜、学園の屋上にキュラドは姿を現していました。
昼間の喧騒が嘘のように、校舎は静まり返っています。屋上を囲むフェンスの向こうには、眠りについた街の明かりが広がっています。遠くを走る車の音や、風に揺れた木々の葉擦れが、途切れ途切れに聞こえてきました。
「……」
彼の横顔を見ながら、コイカミは少し離れた場所に浮かんでいました。いつものように軽い調子で声をかけようと、キュラドの隣までふわりと近づきます。
「何か考え込んでるみたいだね。どうしたの?」
キュラドはすぐには答えませんでした。風に運ばれてきた夜の匂いを感じ取るように、わずかに顔を上げます。
「いや、少し夜風を浴びに来ただけだ」
「ふーん、あっそ」
それ以上追及することなく、キュラドの隣で夜の街を見下ろしました。
しばらくの間、二人の間に沈黙が続きます。やがて、コイカミがぽつりと口を開きました。
「……キュラド様が言ってたこと、ちょっと分かったかも」
キュラドは視線を夜の景色から外さないまま、問い返しました。
「何の話だ」
「魂の美しさってやつ? わたし感心しちゃったよ」
「フン、あの娘は少々お人好しが過ぎる」
キュラドはそう言いながら、眼下に広がる学園へ視線を向けました。
「そうだね。わたしだったら絶対『おまえなんか嫌いだー!』って言ってビンタのひとつでもかましてやるのに」
コイカミは両手を腰に当て、頬を膨らませるようにして言いました。
「気性の荒い女だ。だが……同感だな」
コイカミは一瞬きょとんとしたあと、けらけらと笑いました。
「でもさ、それが人間なんだよね。いろんな顔があって、いろんな事情があって……って感じ?」
「……」
キュラドは答えず、夜の街並みへと視線をやりました。
「ねえ、キュラド様」
「何だ」
「もっと人間を見てみたいと思わない?」
コイカミは、いつもの軽い調子を少しだけ抑えて尋ねました。キュラドは答えませんでした。遠くの街明かりを見つめたまま、コイカミの問いを静かに噛み締めていました。
*
翌日のお昼休み。SPとハナヒメは二人で昼食を摂っていました。
「ヒメ!」
教室の入り口から、男子生徒がハナヒメを呼びました。
「あ、エスさん少々行ってきますわね」
「あ、うん……」
ハナヒメは席を立ち、男子生徒のもとへ駆け寄っていきました。二人は教室の入り口でしばらく話をしています。
SPは手元のパンを食べながら、少し離れたところにいる二人の様子を眺めていました。
やがて、ハナヒメが男子生徒を連れて戻ってきます。自分のカバンを漁ると、中から英語の教科書を取り出し、彼に差し出しました。
「もう、リョク様ったら。そんなに忘れ物が多いようなら、誰かに持ち物チェックをしてもらうべきですわ」
「僕が悪いんじゃないぞ。今日だって、時間割変更が知らされたのは昨日のことだったんだ。休んでた僕には知りようがない」
ハナヒメはため息をひとつつくと、SPに向き直りました。
「エスさん、紹介しますわね。こちら、私の婚約者のリョク様ですわ」
「えっ……こ、こん、婚約者!?」
思いがけない紹介に、SPは目を丸くしました。
「リョク様、こちらは私のお友達の、エスさんですわ」
SPは呆気に取られながらも立ち上がってリョクに目を向けました。そのまま挨拶しようと口を開いた瞬間。
「気に入らないな」
「えっ……?」
「ヒメ、いつの間に友人なんか作ったんだ」
「いつって……最近ですわ」
リョクはハナヒメの返事を聞くと、SPの全身を検分するように見つめました。
「フン……僕は認めないからな」
「な、何をおっしゃっておりますの!?エスさんに失礼ですわよ!」
「ヒメ、彼女は君の友人として相応しくない。そもそもこの学園には君に相応しい人間などいない。君には友人など不要だ」
「リョク様……どうしてそんなことをおっしゃるの……」
ハナヒメの瞳に、みるみるうちに涙が溜まっていきます。しかし、リョクは動じるどころか、優しく彼女の手を取りました。
「悲しむな、ヒメ。君には僕がいればそれでいいだろう?」
しかし、ハナヒメはリョクの手を力強く振り払いました。
「…………そんな意地悪なことを言うリョク様なんて、嫌いですわ」
「な、なに!」
ハナヒメの言葉に、リョクは目を見開きました。
「用が済んだなら、早くご自分のクラスに帰ってくださいまし。私はエスさんとランチの続きといたしますわ」
ハナヒメは涙を浮かべたまま、毅然と言い放ちました。その姿に、リョクは顔を真っ赤にして絶句しました。しばらくハナヒメを見つめたあと、今度はSPへと鋭い視線を向けます。
「…………お前のせいだからな」
(え、わたしのせい……?)
リョクはそれだけを吐き捨てると、教室を出ていきました。
ハナヒメはハンカチで涙を拭い、SPに視線をやります。
「ごめんなさい、エスさん。リョク様が失礼なことを……」
「い、いや……あの……て、いうか……い、いいの……?あんなこと、言っちゃって……」
「よろしいですわよ。リョク様ったら、いつまで経っても子供なんですもの」
ハナヒメは何事もなかったかのように、いつもの調子で答えました。
「そ……そっ、か……」
SPは曖昧に頷きます。つい先ほどまで涙を浮かべていたハナヒメが、あっさりとそう言ってのけることに、まだ戸惑いが残っていました。
「わ、我……ヒメちゃんと、お友達で……いて、いいの……?」
SPは膝の上で手を握りしめ、恐る恐るハナヒメを見つめます。
「何をおっしゃいますの。エスさんがお友達でいてくれなければ、私は今日も学校なんかお休みしておりましたわ」
ハナヒメは、まるで当たり前のことを言うように答えました。
「ヒメちゃん……」
思いがけない言葉に、SPの胸がじんと温かくなります。張りつめていた肩から、少しだけ力が抜けました。
しかし、ハナヒメはすぐに小さく息を吐きました。先ほどまで毅然としていた表情に、疲れの色が浮かびます。
「はぁ。私の周りってあんな人ばかりなんですの。少し……疲れますわ……」
ハナヒメは手にしていたハンカチを膝の上に置き、窓の外へ視線を向けました。
「ま、周りって……?」
「例えば、うちの執事なんかはかなり口うるさいですわ。小言を言うのが趣味なのかと思うくらいですのよ」
ハナヒメは頬を少し膨らませながら言いました。
「し……執事……」
SPは思わず言葉を繰り返しました。
ハナヒメと友達になれたことが嬉しいと思う一方で、二人の間には、自分には簡単には越えられない境界があるようにも感じられます。住んでいる世界が違うのだと、改めて思い知らされたのでした。
「ヒメちゃんちってホント規格外だよねー!」
「あらコイカミちゃん。ごきげんよう」
突然現れたコイカミに、ハナヒメは驚く様子もなく自然に挨拶を返しました。
「……えっ、ひ、ヒメちゃん……って、こ、コイカミちゃんのこと、見えるの……!?」
SPは二人を交互に見ます。
「ま、ヒメちゃんのリョクくんへの気持ちがよく分かるよねー!」
「エスさんも、最近コイカミちゃんのことが見えるようになったと……小耳に挟んでおりますわ……」
ハナヒメとコイカミは、言葉を交わすまでもなくアイコンタクトを交わし、くすくすと笑い合いました。SPは顔を真っ赤にして縮こまりました。
「ねえ、エスさん。良ければ詳しく教えてくださらない? 例の『お友達』のお話……」
ハナヒメは興味津々といった様子で、SPに身を乗り出しました。
「い、いやその! それは……そ、その……! わ、我は、ヒメちゃんの、おうちの……し、執事さんが、き、気になるなあ!」
SPは必死に話題を逸らそうとします。けれど、ハナヒメはその意図に気づいているのかいないのか、にこにこと笑ったままでした。
「あら、うちの執事なんて大したものじゃありませんわよ。エスさんの恋のお話の方がよほど面白いですわ」
「う、ううう……」
「あははは、がんばれSPちゃーん! ヒメちゃんに負けるなー!」
SPの様子をニコニコと見守っていたハナヒメでしたが、ふと、手を叩きました。
「あ、そうですわ。エスさん、今日の放課後のご予定はいかが?」
「え……」
SPは今日も城で待っているであろうキュラドの姿を思い浮かべました。
空いていると言えば空いているし、空いていないと言えば空いていない。どう答えたものかと、SPは言葉に詰まります。
「よろしければ、うちでお茶でもしながらゆっくりお話ししませんこと? 実は、使用人たちにお友達ができたとお話したら、それはもうとても興味を持ってしまって……」
「え、ヒメちゃんの、おうち……?」
「いいじゃん!行ってきなよ!執事さんにも、シェフさんにも会えるよ」
「す、すごく興味があるけど……」
迷うSPに、コイカミはハナヒメに聞こえないよう、そっと耳打ちしてきます。
「キュラド様には一言だけ伝えてから行けばいいよ」
「うん……そ、それなら……行こう、かな……」
SPは小さく頷きました。
「決まりですわね!早速家の者に連絡しますわ!」
ハナヒメは嬉しそうに声を弾ませ、さっそく連絡を取ろうとします。
「楽しんできてね、SPちゃん。明日レポート待ってるから」
コイカミの言葉に、SPは思わず顔を引きつらせました。どうやら、放課後のお茶会だけでは済みそうにありません。
*
放課後。ハナヒメに一度寮に帰ることを告げ、SPは足早に自分の部屋まで戻ってきました。鍵を使い、城の研究室の扉を開けると、キュラドの姿がありました。
「エス、帰ったか」
キュラドは研究資料から顔を上げると、わずかに表情を和らげました。
「こちらへ来い。今日は前回のデータとの比較を行うぞ」
「あ、あの……キュラド……」
「前回までの失敗の原因がようやく見えてきたんだ。さあ今すぐ検証を……」
キュラドは嬉しそうな様子を隠しきれないまま、資料に目を向け、さっそく話を進めようとします。SPは言い出す機会をうかがいながら、ためらいがちに口を開きました。
「きょ、今日は……! ヒメちゃんの、おうちに……行くから……」
「……は?」
キュラドは目を見開いたまま、固まりました。
「研究は……?」
「あ、あした……かな」
「……」
研究室に、重い沈黙が落ちました。机の上には比較を待つデータが並び、灯りだけが静かに資料を照らしています。
「キュラド……?」
SPに呼ばれ、キュラドはハッと我に返りました。眉間にシワを寄せると、深いため息をつきます。
「……好きにしろ。どこへでも行け」
「うん……い、行ってくるね」
SPは少し気まずそうに研究室を出ました。
扉が閉まると、室内は再び静まり返りました。さっきまでそこにいたSPの気配だけが、まだ残っているようでした。キュラドはしばらく動かず、誰も座らなくなった向かいの椅子へ目を向けます。研究室はいつもと変わらないはずなのに、ひどく広く、がらんとして見えました。
一方、SPは寮に戻り、遊びに行く支度を整えていました。
(なんか、ふてくされてたな……)
SPは引き出しに鍵をしまいながら、キュラドの姿を思い出していました。
(もしかして、寂しかったのかな……なんて)
そこまで考えると、自分が笑みをこぼしていることに気付きました。緩んだ頬を触りながら、明日は何があってもキュラドに付き合ってあげようと決心するのでした。




