第5話 光を遮る者
キズノと話すようになって、二日目の夜のこと。
今日は帰る直前に「また明日ね」と声をかけてもらい、嬉しくてたまりませんでした。
布団の中で余韻に浸りながら、SPは幸せな心地で眠りにつきました。
しかし、安らかな寝息を立てて眠っていたSPは、不意に肩を強く揺さぶられて目を覚ましました。
「エス、起きろ。お前の耳に入れておきたい話がある」
「……ん、あ……あれ、きゅ、キュラド……?」
重い瞼を擦り、体を起こしたSPは、薄暗い部屋の中に立つ声の主の姿を捉えて何度も瞬きを繰り返しました。
「な、なんで……こんな、時間に……?」
「あの女……キズノを信用するな。あれは友達などではない、浅ましい偽物だ」
「え……?」
寝起きの頭に衝撃的な言葉が響きます。
SPは自分の体温がみるみる冷えていくのがわかりました。
やがてSPの表情は悲しげに歪み、溢れ出る感情を抑えきれなくなっていきました。
「なんで、そんな……そんなこと、言うの……?」
「それが真実だからだ」
キュラドの瞳は普段の冷静さとは違う、焦ったような色を滲ませていました。
「きゅ、キュラドに、何がわかるの……。やっと、できた、のに……っ」
「エス……頼むから落ち着いて聞いてくれ。奴はお前を――」
「キズノさんのこと……わ、わるく、言わないで……!」
胸の奥から絞り出した声と共に、部屋の空気が爆ぜました。パニックを起こしたSPの体から無意識に放たれたサイコキネシスの衝撃が、まっすぐにキュラドの胸元を叩きます。壁に背を打ちつけたキュラドの苦しげな声を聞いても、SPの混乱とショックは収まりません。
「…………そうか。よく分かった。余計なことをしたな」
届いたのは、冷たく突き放すような声でした。見上げると、そこには氷のように冷たい眼差しをしたキュラドが立っていました。彼はSPを一度も見ようとせず、開け放たれた窓へと歩いていきます。
「……勝手にするがいい。その女に裏切られ、すべてを失ってから泣きつくがいい。その時、俺がここにいると思うなよ」
夜風に溶けるようにキュラドの黒い影が消え去り、暗闇の中に一人取り残されたSPは、ただ泣きじゃくることしかできませんでした。
*
翌朝、学校へ向かうSPの足取りはひどく重く、昨夜のキュラドとの衝突が尾を引いていました。
昇降口に足を踏み入れた瞬間、ねっとりとした不快な視線の渦がSPを包み込みます。
いつもなら自分の存在など誰も気にしていないはずなのに、今日はすれ違う生徒たちがひそひそと囁き合い、彼女の姿を認めると弾かれたように道を開けていくのです。
「……な、なに……?」
胸のざわつきを抑えながら、人だかりができている掲示板を覗き込みました。
そこには、悪意を煮詰めて形にしたような、醜悪なコラージュが貼り出されていました。
数枚の隠し撮り写真。そして、週刊誌のゴシップ記事を模したような、汚い言葉の羅列。
『深夜の密会・寮に男を引き込む不謹慎な女子生徒』
写真はどれも画質が悪く、夜の闇に紛れて判然としません。けれど、映っている制服の特徴、小柄な背格好、そして独特の猫背……。それは紛れもなく自分の姿でした。
何より異様だったのは、SPの隣に映り込んでいる影です。
キュラドの姿は、魔術の干渉か、あるいはカメラの限界か、黒いもやのような、禍々しい輪郭の塊として定着していました。撮影者の意図にそぐわなかったのでしょう、黒いもやの上に全く知らない男の写真がコラージュされて、無理やりでっち上げられていました。
「……な、なに……これ…………っ」
指先が氷のように冷たくなります。
喉の奥が引き攣れ、息がうまく吸い込めません。
その時、掲示板の影から、ひときわ冷たく、鋭い圧がSPを捉えました。
反射的に顔を上げると、そこにはカイレイが立っていました。
普段通りに頭部に巻かれた包帯、無表情な鉄仮面のような顔。
彼は一言も発しません。ただ、獲物をじっくりと追い詰める蛇のような瞳で、震えるSPを凝視しています。
(……カイレイ)
直感でした。
自分の部屋の場所を知り、深夜の不自然な気配を嗅ぎ取り、そしてそれを社会的な死という形で突きつけてくる。これほどまでの執念と悪意を持てるのは、この学園で彼しかいない。
「……な……んで…………」
SPの声にならない叫びが、虚しく空気に溶けます。
制御を失いかけたサイコキネシスが、掲示板の画鋲をミシミシと軋ませ始めていました。
視界がぐにゃりと歪み、肺の空気がすべて凍りついたような錯覚に陥ります。
「……あ……あ……」
SPは必死に胸を押さえ、何度も、何度も深呼吸を繰り返します。冷笑、囁き声、そして掲示板に晒された無惨な虚構。
その時、人だかりの向こう側に、見慣れた柔らかな色彩が横切りました。
「き、キズ、ノさ……ん……!」
掠れた、けれど魂を振り絞るような叫び。
SPは縋り付くように、その背中へ手を伸ばしました。
自分の涙を拭ってくれた優しい手。ペアを組んでくれた唯一の友達。彼女さえいればこの悪意の渦から抜け出せる。そう信じて疑いません。
キズノは、その声に足を止めました。
ゆっくりと、首だけをこちらへ向けます。
「…………」
その瞳に宿っていたのは、昨日までの慈愛など微塵も感じさせない、底冷えのするような無関心でした。道端に転がる石ころを避けるような、冷徹な拒絶。
キズノはふいと前を向くと、一言も発さず、他人のふりをして雑踏の中へと消えていきました。
──パキン。
SPの中で、何かが決定的に壊れる音がしました。
(……ああ……そっか。全部、嘘、だったんだ……)
キュラドが言っていたことが正しかった。自分の浅ましさが、この絶望を招いた。
悲しみは一瞬で、制御不能な拒絶の力へと変質しました。
「う、うああ……あああああぁああぁああ……!」
SPのか細い悲鳴と共に、昇降口の空気が爆ぜました。
凄まじい衝撃波が円状に広がり、掲示板を固定していたボルトが弾け飛びます。巨大な木の板が、逃げ惑う生徒たちの方へとスローモーションのように倒れ込み、周囲の窓ガラスが一斉に内側から粉砕されました。
天井の蛍光灯が狂ったように点滅し、火花を散らしながら次々と破裂していきます。
降り注ぐガラスの破片と火花の中、SPは力なく膝をつきました。彼女の周囲だけが、真空地帯のように静まり返っています。
「……ひっ、あ、ああ……」
血の気の引いた顔で、自分の手を見つめるSP。
たまらず、その場から逃げ出すしかありませんでした。
*
光の射さない、死んだような静寂。
SPは、どうやって寮まで辿り着いたのかさえ覚えていませんでした。
荒い呼吸と、耳鳴りのように鳴り止まない生徒たちの悲鳴。ガシャガシャと鍵をかけ、カーテンを隙間なく閉め切りました。昼間の明るい太陽が、今は自分を焼き殺そうとする凶器のように思えてなりませんでした。
「……う……うぅ……っ……」
喉の奥から、行き場のない嗚咽が漏れ出しました。
キズノのあの冷たい目。道端の石ころを避けるような、一欠片の情も感じさせない拒絶。
昨日まで確かにそこにあると信じていた温もりは、偽物でした。
(……キュラドの、言う通り……だった……)
傲慢で、勝手で、自分を研究対象としか見ていないと思っていた吸血鬼。
けれど彼は昨夜も、嫌われることを承知で、自分の平穏を守るために忠告しに来てくれた。
(なのに、わたしは……)
自分を陥れようとする偽りの光を信じ、自分を救おうとした本物の闇を、その力で突き飛ばした。
「……ごめ、んなさ、い……ごめんなさい……っ」
暴走したサイコキネシスの感触が、まだ手のひらに痺れるように残っています。
掲示板の下敷きになった誰かがいるかもしれない。割れたガラスを浴びた誰かがいたかもしれない。
あんな風に力を振るってしまえば、もう普通には戻れない。
せっかく手に入れかけた居場所は、自分自身の手で、粉々に砕いてしまったのです。
(……もう、誰もいない。……わたしには、なにも、ない……)
布団を頭まで被り、震え続けるSP。
暗闇は、彼女の絶望を飲み込むように深く、重く沈殿していきました。
かつて地元で孤立していたあの日よりも、もっと深い孤独。
自分の異能を、自分の存在を、これほどまでに呪ったことはありませんでした。
*
あれから何分経ったか、時間の感覚も曖昧になっていました。
SPは相変わらず暗闇の中、布団に包まりながらすすり泣いています。
絶望の底で、自分の吐息すら呪わしく感じていたその時です。
「……ふむ、カーテンの隙間から漏れる光が不快だが、この際どうでも良い。我慢してやる」
聞き間違えるはずのない、傲慢で冷徹な、けれど耳に心地よい低音。
SPはビクリと肩を跳ねさせ、震える手でゆっくりと布団を押し下げました。
「……えっ……あ……」
涙で霞んだ視界の先。
光を遮るように、漆黒のローブを纏ったキュラドがそこに立っていました。
本来、太陽が昇っている間にいるはずのない彼が、魔術の影を濃く編み上げて降臨している。その事実に、SPの心臓が激しく脈打ちました。
「無様だな。俺の忠告を素直に受け入れていればこのようなことにはならなかった。違うか?」
キュラドは部屋の隅にある椅子の背もたれに指をかけ、深く被ったフードの隙間から冷ややかに見下ろしました。
「言ったはずだ。あれは浅ましい偽物だと。結果はどうだ? 聞かなくても大方分かる。全く、研究対象としての評価は地に落ちたな」
容赦のない嫌味。突き放すような言葉の数々。
昨夜、自分が彼に向けた拒絶を考えれば、嘲笑われても文句は言えません。
けれど、今のSPにとってその毒舌はどんな慰めよりも温かく感じました。
「自業自得だ」「お前が悪い」──そうやって、自分の醜さを真っ直ぐに指摘し、この孤独な闇の中にまで踏み込んできてくれた。
見捨てられていなかった。
世界中の誰からも拒絶され、自分自身でさえ自分を嫌いになったこの瞬間に、彼はまだ自分を「研究対象」として認め、ここに居てくれているのです。
「……ごめ、んなさい……キュラド……っ、……ごめんなさい……!」
SPは布団から這い出し、縋り付くように彼の足元へ崩れ落ちました。
キュラドは縋る少女の細い肩を、決して振り払うことなく見つめていました。
「……フン、謝罪など必要ない。お前が壊れてしまっては、俺の研究が途中で打ち切りになるからな」
彼はわざとらしくため息をつき、長い指先をSPの顎に添え、クイと持ち上げました。
「立て、エス。城へ帰るぞ。まずは報告、話はそれからだ」
その瞳には、SPへの嘲笑とは裏腹に、彼女を傷つけた者たちへの静かで苛烈な怒りが宿っていました。
*
キュラドは泣きじゃくるSPを抱え上げるようにして、自身の城へと連れ戻しました。
今日の城は、主の心情を映したのか、深い森の奥にある隠れ家のような、温かな暖炉の火が爆ぜる内装に変わっていました。
「……ひ、っ……う、ぇ……っ……」
ソファに沈み込み、子供のように肩を震わせるSP。キュラドはその傍らに腰を下ろすと、何も言わずに彼女の頭を大きな手で包み込みました。
乱れた呼吸を整えるようにゆっくりと背中をさすり、溢れて止まらない涙を自らの指先で丁寧に、何度も拭ってやります。
毒舌とは裏腹に、その手つきは慈しみに満ち溢れていました。
「…………きゅ、キュラド……」
縋り付くSPの体温を感じながら、キュラドは彼女を腕の中に収めます。
傲慢な吸血鬼とは思えないほど甘やかな、恋人を慈しむような距離感。SPにとって、彼の胸の中から香る古い紙と冷たい夜の匂いだけが、唯一信じられる世界のすべてになっていました。
やがて、火の粉が跳ねる音だけが響く中、SPの呼吸が静まっていきます。
絶望に焼き尽くされた心に、キュラドの無言の執着が、静かな安らぎを注ぎ込んでいました。
「……落ち着いたか、エス」
耳元で囁かれる低い声。SPが小さく頷くのを確認すると、キュラドは彼女をソファに預け直しました。
暖炉の火が爆ぜる音だけが響く静寂の中、SPは膝を抱え、ぽつりぽつりと先ほどの地獄を言葉にし始めました。
掲示板のこと、キズノに無視されたこと、パニックになって力を暴走させてしまったこと。時々言葉を詰まらせながらもひとつひとつ話しました。
キュラドは何も言わず、ただ赤い瞳でじっと彼女を見つめています。その眼差しは冷徹な観測者のようでもあり、すべてを受け入れる深い湖のようでもありました。
話し終えたSPは、まるで全ての力を使い果たしたように項垂れました。
キュラドは静かに立ち上がり、先ほどまでの甘い空気は霧散します。
彼の背中に宿ったのは、研究対象を傷つけられた魔術師としての、冷徹で苛烈なまでの殺気でした。
「さて、どうしたものか……」
キュラドは指先で顎をなぞり、パチパチと燃える炎を凝視しながら思案を始めます。
「お前を玩具にしたあの女、そして裏で糸を引くあの男……。ただ殺すのでは芸がないな。俺の研究を邪魔した報いは、骨の髄まで味わわせてやらねばならん」
彼の脳内には、すでに幾通りもの報復の数式が浮かんでいるようでした。
「エス……お前を追い詰めた奴らに、今度は『本当の絶望』を教えてやりたいとは思わないか?」
キュラドは振り返り、薄く、鋭い笑みを浮かべました。
その誘いは、救いであると同時に、戻ることのできない非日常への招待状。
しかし、SPの返答は彼の予想を外れていました。
「お、思わないよ……。や、やり返したい、なんて……わ、我は、ただ……平和に、過ごしたいだけ……」
キュラドは目を見開きました。
復讐、蹂躙、あるいは徹底的な報復。
魔術師であり、誇り高き吸血鬼である彼にとって、己を侮辱した者に相応の絶望を与えるのは、呼吸をするのと同じくらい当然の摂理でした。
SPは顔を上げ、潤んだ瞳で彼を見つめました。そこには憎悪の炎など一欠片もなく、ただ静かな、祈るような願いだけが揺らめいています。
「欲がないな。お前、侮辱されて悔しいと思わないのか?」
キュラドは呆れたように鼻で笑いましたが、その声音には隠しきれない驚きが混じっていました。自分を裏切り、晒し者にし、最も残酷な形で心をへし折った者たちに対して、なお平和を願う。その精神構造は、彼にとって未知の術式を解読するよりも不可解で、そして奇妙に眩しいものでした。
「思わない……」
力強く首を振るSP。彼女にとっての勝利は、誰かを傷つけることではなく、ただ自分を認めてくれる誰かの隣で、静かに息をすること。
キュラドは数秒の間、沈黙を守りました。
やがて、彼はふっと肩の力を抜き、椅子に体を預けました。その表情からは鋭い殺気が消え、代わりに深い探究心を湛えた穏やかな笑みが浮かびます。
「なるほど。お前の望みは分かった。……お前の好きにすると良い。俺はただ、お前という存在を観察するだけだ」
彼は再び、SPの頭に手を置きました。
今度は先ほどのような甘やかす手つきではなく、彼女の意志を尊重するような、どこか厳格で、確かな信頼の籠もった重みでした。
「お前が復讐を望まないなら、俺も無粋な手出しはしない。だが、エス。お前が望む『平和』を邪魔する者が現れた時……その時は、俺がその盾となろう。それもまた、研究の一環だ」
キュラドは、暖炉の炎を静かに見つめました。
ドロドロとした執着の渦中で、なお濁ることのないこの少女の魂。それがこれから、あの学園という場所でどう羽ばたき、あるいは折れていくのか。
「……ありがとう、キュラド」
SPが小さく笑みを浮かべます。
キュラドはその横顔を眺めながら、自分の中に芽生えた守護という名の新しい研究テーマを、密かに噛み締めていました。
「……まあ、復讐云々は一旦抜きにするとしても、だ」
キュラドは立ち上がり、本棚から一冊の古びた魔術書を取り出しました。
「エス、その力の暴走は今後のことを考えても放置してはおけんな。お前が望む『平和』は、お前自身がその力を制御できねば、砂の城のように脆く崩れ去る。……今日、お前が壊したのは物だけだったかもしれんが、次はどうだ? 無関係な者を傷つけ、昔と同じ道を辿ることになる」
SPはビクリと肩を揺らしました。それは彼女が最も恐れている未来でした。
「俺とお前が今やれること。それは、サイコキネシスを暴走させないための研究だ」
キュラドはSPの前に膝をつき、視線の高さを合わせました。
「お前のその力の仕組み、この俺が解き明かしてやる。それでいいな?」
「……う、うん……。お願い……キュラド……」
絶望の淵で、SPはようやく自分を救うための道を見出しました。キュラドの冷たくて大きな手が、再び彼女の頭に置かれます。
キュラドは頷くと、手にしていた魔術書をそっと脇のテーブルに置きました。いつもなら不遜に、あるいは冷徹に言葉を紡ぐはずの彼が、今はどこか言い淀むように視線を彷徨わせています。
「……エス、俺はな」
重い口を開いたその声は、吸血鬼としての威厳よりも、一人の男としての、ひどく剥き出しな響きを帯びていました。彼は一度、深く息を吐き出すと、意を決したようにSPの瞳を真っ直ぐに見つめました。
「俺はお前の力、サイコキネシスを……美しい力だと思っている」
「あ……」
SPは涙の乾ききっていない目を見開きました。
「忘れたか? 俺とお前が初めて出会った時……この俺を救ったのは、他でもないお前のその力だ」
キュラドは自嘲気味に、けれどどこか懐かしむように目を細めました。
「……美しく、興味深い。もっと近くで見ていたい。そう思ったからこそ、俺はお前を近くに置いている。研究対象だと言ったのは嘘ではないが……それ以上に、俺はお前という存在そのものに、目を奪われたのだ」
普段の彼からは想像もつかない、あまりにも素直な告白。
SPの胸の奥で、冷え切っていた何かが、じわりと熱を帯びて溶け出していくのがわかりました。
キズノの「友達」という言葉は偽物だった。けれど、目の前で不器用そうに語るこの吸血鬼の言葉には、血の通った嘘偽りのない真実が宿っています。
「だから、エス。お前のその力を、ただの呪いで終わらせるな。……お前が望む『平和』を守るための、美しい力のままにしておけ。そのために、俺の知識と時間を使え」
キュラドはそう言って、照れ隠しのようにふいと顔を背けました。
SPは、初めて自分の中に灯った小さな自信のようなものを抱きしめ、小さく、けれど確かな声で返しました。
「……うん。我……がんばる、ね……キュラド……」
暗闇の中で、二人の絆がより深く、より密やかなものへと変わっていきました。
*
城の静寂の中に、シュウシュウと空気が摩擦するような、独特の音が響いていました。
キュラドの鋭い視線が、宙に浮く数個の鉄球と、それを操るSPの指先、そして彼女の眉間に刻まれた微かな緊張を冷徹に、かつ情熱的に追い続けています。
「……右の三つを、さらに三センチ高く。……左の一つは、時計回りに。……そうだ、そのままだ」
SPは必死にキュラドの指示に応えようと、意識を集中させます。かつてはただ怒りや恐怖で爆発させていた力が、彼の導きによって、繊細な糸のように空間を編み上げていきます。
その時でした。キュラドが不意に、観察を打ち切るように言葉を発しました。
「……エス、手を握れ。両手共だ。指を一本も残さず、強く」
「え……あ……は、はい……!」
SPが反射的に、両手をギュッと握りしめた瞬間でした。
今まで完璧なバランスで滞空していた鉄球たちが床に落ち、重い金属音を立てて転がりました。
「……やはり」
キュラドの唇が、満足げに吊り上がりました。 彼は立ち上がり、混乱して自分の手元を見つめるSPの元へ、優雅な足取りで歩み寄ります。
「な、なに、が……? わ、我……失敗……しちゃった……?」
不安げに見上げるSPに対し、キュラドはその固く握られた拳を、自分の大きな手で包み込むようにして持ち上げました。
「逆だ、エス。お前は今、最高の成果を見せた。……いいか、よく聞け。お前のサイコキネシスのトリガー、つまり回路の入り口は、その指先にあるのだ」
キュラドは彼女の拳を一本ずつ、丁寧に解くように開かせ、再び握らせました。
「お前が力を使う姿を見て気がついた。この鉄球を操る際、指先を繊細に動かして力を制御していた。そして感情が高ぶった時、呼吸を鎮めようと胸に手を置いたり、痛む頭を押さえている姿……。お前の異能の波動は、指先から放出される。手を握ってしまえば力は放出されることはない。それが俺の仮説だ」
SPは目を見開きました。 言われてみれば、暴走する時はいつも両手を開いていました。逆に、今こうしてキュラドに手を握られている間は、どれほど心が揺れても、力が外へ漏れ出す気配がありません。
「暴走しそうになったら、ただ強く拳を握れ。それだけで、お前の意思はお前の内に留まる。……単純だが、それがこの力を制御する、最も根源的な術式だ」
キュラドは満足げに、けれどその眼差しには慈しみを湛えて、SPの手をそっと撫でました。
「制御さえできれば、この力は更に美しさを増すだろう。その握り拳一つで、世界を壊さないことを選べるのだ。……どうだ、少しは安心したか?」
SPはじっと自分の手を見つめました。
「そんな、ことで……? ほんとに……?」
「俺の言葉が信じられんか?」
「ううん……う、嬉しいの……」
涙が一筋溢れ落ちました。
先ほどまで流していた絶望の涙とは違う、安堵の涙。
「さあ、少し休んだらまた再開だ。今日中に制御を物にする。何かあれば反射的に手を握るよう、身体に染み付くまで練習だ」
「う……うん!」
*
城の空気は、戦場のような張り詰め方から一転して、まどろみを誘うような穏やかな重みに包まれていました。
激しい感情の爆発、制御のための集中、サイコキネシスの解き明かし。SPにとって、今日一日の出来事はあまりにも過酷で、かつ濃密すぎたのでしょう。
「……ん……ぁ……」
ソファに沈み込んでいたSPの頭がカクンと揺れました。重い瞼がゆっくりと閉じられ、規則正しい、けれど深い寝息が漏れ始めます。
「……エス、ここで寝るな。風邪を引く」
キュラドは無機質な声をかけましたが、返ってきたのは「……すう……」という無垢な寝息だけでした。彼はやれやれと肩をすくめ、その細い体を軽々と腕の中に収めます。
「……仕方ない、帰してやるか」
キュラドは魔術を展開し、影に溶けるようにして寮の部屋へと戻りました。 昼間、絶望のままに閉め切られたカーテン。彼はSPの靴を脱がせ、ベッドに横たえ、重い毛布を胸元まで引き上げました。
「…………」
そのまま立ち去れば良いものを、キュラドは暗闇の中、じっと彼女の寝顔を見つめ続けました。
日中の騒動で赤く腫れていた瞼は、今は静かに閉じられています。 その両手は教えられた通り、無意識のうちにシーツをぎゅっと握りしめていました。
キュラドは、かつて彼女の力に救われたあの日を思い出していました。 人々に恐れられるその力が、自分にとっては至高の芸術に見えた。それは、彼女の中に眠る「誰かを想う純粋な意志」が、力の色を塗り替えていたからに他なりません。
「……安らかに眠れ、エス」
キュラドは最後に、SPの布団をそっと整えました。 それは忠実な研究対象に贈る、最も深い親愛の証でした。
*
朝の眩しい光が、かえって残酷に思えるほど清々しい登校時間。 SPはいつもよりずっと遅い、一限目の授業が始まろうとする頃にようやく昇降口の重い扉を開けました。
昨夜、キュラドに教えてもらった力の制御方法。ギュッと拳を握りしめれば、いくら取り乱しても力は外に漏れ出さない。その確信は、彼女にとって唯一の命綱でした。
けれど、物理的な力が抑えられたとしても、心に刻まれた傷跡や、周囲を取り巻く絶望的な状況までが消え去ったわけではありません。
(……みんな……わたしのこと、こわいって……きらい、だって……おもってる……)
一歩踏み出すごとに、昨日の光景がフラッシュバックします。
掲示板に晒された醜悪な写真。倒れ込む掲示板に逃げ惑う生徒の声。割れた蛍光灯の鋭い破片。
そして何より、冷たく自分を切り捨てたキズノの横顔。
「……っ……」
下駄箱の前で立ち止まり、震える手で自分の上履きを掴みました。 けれど、そこから先、足がすくんで一歩も動けなくなってしまいました。
靴を履き替えて、地獄のような廊下を歩き、冷ややかな視線が突き刺さる教室へ入る。想像しただけで、喉の奥がヒュッと鳴り、心臓が痛いほど脈打ちます。
「……む……むり、だ…………」
手に持った上履きが、カタカタと音を立てて震えています。
逃げ出したい。でも、逃げ帰ったところで、昨日の自分と同じ。
せっかくキュラドが「美しい力だ」と言ってくれたのに。自分を信じてくれた彼の期待を裏切りたくない。
しかし、現実はあまりにも重く、孤独でした。誰もいない静かな昇降口。遠くから聞こえるのはチャイムの音。
SPは上履きを握りしめたまま、その場に釘付けになったように立ち尽くしました。
そのとき、静まり返った昇降口にゆったりとした足音が響きました。
遅刻を告げるチャイムが鳴り響いた後だというのに、足音の主には焦る様子が微塵もありません。
カツ、カツ、と一定のリズムを刻んで近づいてきた足音は、動けずに立ち尽くすSPの真後ろで止まりました。
「おはようございます。こんなところで何をなさっておりますの?」
鈴を転がすような、濁りのないお嬢様言葉。 SPが強張った体をぎこちなく振り向かせると、そこには大きな瞳で真っすぐこちらを見つめ、上品な仕草で小首を傾げる少女が立っていました。クラスメイトのハナヒメです。
「あ……あの…………わ、我……」
SPは言葉を詰まらせました。昨日、掲示板近くであれほどの醜態を晒し、バケモノのような力を暴走させた自分。誰もが自分を蔑み、避けるものだと思い込んでいた世界で、ハナヒメの向ける眼差しには悪意も恐怖も含まれていませんでした。
ただ純粋に、道端に咲く花が萎れているのを案じるような、真っ直ぐな双眸。
そのあまりの毒気のなさに、張り詰めていたSPの心の堤防が決壊しました。
「……っ……う、ぅ……」
ボロボロと、大粒の涙が頬を伝い、床に落ちていきます。
「あなた、泣いているの……? 何かありましたの……?」
ハナヒメは驚いたように目を瞬かせると、すぐに困ったような、けれど優しい微笑みを浮かべました。彼女はバッグから刺繍の施された清潔なハンカチを取り出し、おずおずと、壊れ物を扱うような手つきでSPの涙を拭います。
ハナヒメ自身、毎日カイレイに意地悪を言われては泣かされ、教室を飛び出していくような「泣き虫」として知られていました。
けれど、今この瞬間のハナヒメにとって、SPは噂の女子生徒ではなく、ただ自分と同じように、誰にも言えない悲しみを抱えて震えている一人の少女でした。
「大丈夫ですわ。……私も、よくここでこうして立ち止まってしまいますのよ。教室へ行くのが、少しだけ……勇気がいりますわよね」
ハナヒメはSPの震える手を優しく包み込み、教室とは反対の方向へ歩き出しました。
「そんなお顔では教室に入れませんわ。少し落ち着いてから行きましょ」
「う、ど、どこ、いくの……」
困惑するSPを振り返り、ハナヒメは少しだけ寂しげで、けれど慈愛に満ちた微笑みを浮かべます。
「私の秘密の場所ですわ。よく1人で泣いている場所ですのよ」
二人は静まり返った廊下を抜け、人目のつかない校舎の裏へと向かいます。嘲笑も悪意も届かない、静かな避難所へ。
平日21時は「エスパー少女と吸血鬼」
土日は「VAMPIRE ON AIR !!」を更新していきます!
「このキャラのここが好き!」「ここが可愛い!」などありましたらぜひ教えてください!
「VAMPIRE ON AIR !!」はこちらから↓
https://ncode.syosetu.com/n1221mx/




