第4話 小さな望み
研究が始まってから10日ほどが経ちました。
SPは毎晩のようにキュラドの城へと通い、彼の熱心な実験に協力し続けていました。
最初は異空間にあるという城や、キュラドの圧倒的な存在感に緊張して震えていたSPでしたが、最近では心身ともに少しずつその環境に慣れ始めています。
それに伴い、キュラドも研究にますます熱が入り、どこか楽しそうに指示を出すようになっていました。
ある夜、キュラドは机の上に、細い針を何本も並べて広げました。
「今日は精密操作を試す。この針を一本ずつ、俺が指定した順に動かせ」
「う、うん……」
SPは深呼吸をして、自身の内側にある力へと集中します。
金属の針が重力に逆らうようにふわりと浮き上がり、キュラドの指示通りに動き始めました。これまでの研究の成果もあり、SPは以前よりもずっと安定してその不思議な力を使えるようになっていました。
「……悪くない。反応速度も精度も向上している」
キュラドからの真っ当な評価を受け、SPは嬉しさと少しの誇らしさをにじませて微笑みました。
「よ、よかった……」
その充実感のまま次の針を動かそうとした、その瞬間のことでした。
突然、SPの視界がぐにゃりと不自然に歪んだのです。
「……っ……!」
頭を鈍器で殴られたかのような、激しいズキンとする痛みが襲いかかります。
それまで綺麗に宙に浮いていた針がガタガタと不規則に震えだし、明確に制御が乱れていきました。
「エス、止めろ。集中が乱れている」
キュラドの鋭い声に弾かれ、SPは慌てて力を止めようと試みますが、制御を失ったエネルギーに反発されるように、逆に針が一斉に全方向へと跳ね上がってしまいました。
「だ、だめ……っ……!」
鋭利な針が四方八方へと激しく飛び散り、キィンと高い音を立てて壁に深く突き刺さります。
同時に、SPは激痛と目眩に耐えかね、その場に力なく崩れ落ちて強く頭を押さえました。
「い、た……いっ……!」
異変を察したキュラドはすぐさまSPの側へと駆け寄り、床に膝をついて彼女の肩をしっかりと支えました。
「無理をしたな。脳への負荷が限界を超えた」
いつもより一段と低い彼の声に、SPは痛みに耐えて涙目になりながらも小さく首を振ります。
「ち、違……っ……まだ……でき……」
「黙れ。今のお前は力に引きずられている。危険だ」
紡がれる言葉そのものは厳しいものでしたが、SPの背を支える彼の大きな手は驚くほどに優しいものでした。
キュラドはSPの額に自身の冷たい手をそっと当てると、自身の魔力を微細に流し込み、彼女の脳内の状態を探り始めます。
「……神経の興奮が異常だ。サイコキネシスの使い過ぎで、脳が過負荷を起こしている」
額から伝わる心地よい冷たさに、SPは荒い息を繰り返しながらも、かすかに頷くことしかできません。
「ご、ごめ……なさい……」
「謝る必要はない。これは俺の観察不足が招いたことだ」
意外な彼の言葉に、SPは驚いて痛む目を丸くしながら顔を上げました。
「きゅ、キュラドの……?」
「お前の力は魔術とは違う。魔力の流れではなく、神経の電気信号に近い。だからこそ、疲労の蓄積が読みにくい」
キュラドの真摯な分析を聞きながら、SPはまだ微かに脈打つ自分の胸へとそっと手を当てました。
「わ、我……どう、なるの……?」
未知の症状への恐怖から、SPの口から弱音が漏れ出します。しかし、キュラドの眼差しには微塵の揺らぎもありませんでした。
「なに、少し休めば問題ないだろう。……お前は俺の研究対象だ。壊れてしまっては困る」
突き放すような冷たい言葉のはずなのに、その声色にはどこか深い優しさが滲んでいます。SPはその不思議な矛盾に触れ、痛む頭とは裏腹に、胸の奥がじんわりと熱くなっていくのを感じていました。
その時、看病のためにキュラドがSPの手首に優しく触れた、その瞬間でした──。
バチッと空気が爆ぜるような感覚と共に、部屋の周囲にあった本やペンといった小物が、一斉にふわりと宙へ浮かび上がったのです。
「え……わ、我……使って、ない……! こんなこと……は、初めて……」
「……勝手に発動した、か。共鳴とはまた違う現象だな」
キュラドはすぐに状況を察知し、自身の魔術を展開して浮き上がった小物を静かに床へと着地させました。
「エス。お前の力は制御を外れ始めている。これは……良くない兆候だ」
彼の表情を見て、SPは形のない不安に身体を細かく震わせます。
「ど、どうしたら……」
「やむを得ない。しばらく研究は中止だ。お前の体を優先する」
あっさりとした診断に、SPは困惑して言葉を返しました。
「え……で、でも……」
「研究の道具が壊れては意味がない」
不器用で、けれどこれ以上ないほどストレートに自分の身を案じてくれているそのセリフに、SPは目をぱちくりとさせました。
(……ひどい言い方……でも……優しい……)
これはきっとキュラドなりの最大限の優しさなのだろうと、SPは胸の内でその温もりをゆっくりと噛み締めました。
*
サイコキネシスの研究が一時中止になってから、三日目の夜を迎えました。
SPは久しぶりに夜の時間を全て自分のために使うことができ、机に向かって授業の課題を片付けたり、ベッドの上でのんびりと漫画を読んだりしてプライベートな時間を過ごしていました。
(……今日も来ないよね)
静まり返った部屋の中でふとそんな思考が過り、自分がキュラドのいない夜に少しだけ寂しさを感じていることに気づいてしまいます。SPは慌ててブンブンと頭を振って、その気恥ずかしい考えを打ち消そうとしました。
そんな時。
コツ、コツ……
静かな部屋に、ガラスを軽く叩く規則正しい音が響きました。
まさかの出来事に、SPは心臓が跳ね上がるほど驚いてベッドから飛び上がります。
「えっ……!」
おそるおそる窓辺へと近づき、カーテンを少しだけ開けると、そこにはベランダに佇むキュラドの姿がありました。夜風に外套を大きく揺らし、いつも通りの無表情で静かに佇んでいます。
「エス。迎えに来た」
突飛な夜の訪問者に、SPは思わず大声を上げそうになるのを必死に堪えました。
「し、しばらくは……研究、中止って……!」
「ああ。だが、お前を連れて行く理由は他にもある。上がるぞ」
SPが控えめに頷くと、キュラドはまるで当然の権利として窓から入り込んできました。
「な、なにを……するの……?」
部屋着姿のまま警戒するSPをよそに、キュラドは彼女のプライベートな空間を興味深そうに観察しながら、ゆっくりと周囲を見渡していました。
少しだけ沈黙が流れた後、キュラドはなぜかSPと直接目線を合わせようとはせず、ぶっきらぼうに答えました。
「お前の話を聞く」
「……は、話……?」
「そうだ。学校の話でも、家族の話でもいい。お前の話を聞かせてもらう」
予想外すぎる目的を告げられ、SPの口は驚きで開いて、閉じて、また少しだけ開きました。
「え……えええ……?」
部屋に漏れていたのは、純粋な困惑の声だけです。
「何を驚いている。研究対象の生活を知る、これもまたひとつの研究だ」
理屈っぽい冷たい言い方を選んではいるものの、SPを見つめる彼の赤い瞳は、いつもよりずっと柔らかい光を宿していました。
キュラドはSPの手を取り、城への移動を試みました。
眩い光の後にSPがゆっくりと目を開くと、そこはいつもの冷徹な研究室ではありません。
今日連れてこられたのは、美しいアンティーク調の家具で統一された応接室のような空間でした。
暖炉の中では火が静かに揺らめいており、その前には座り心地の良さそうな椅子が二つ、向かい合うようにして置かれています。
キュラドはそのうちの一つの椅子に深く腰掛け、まだ戸惑っているSPにも、向かいの席に座るよう視線で促しました。
「では、聞かせてもらおうか」
促されるまま、SPはちょこんと控えめに椅子に腰掛けました。自分の指先を所在なげにいじりながら、覚悟を決めるようにぽつりと重い口を開きます。
「う、うん……ええと、が、学校は……あんまり……楽しくない、かな……」
「ほう、理由は」
「え、えっと……わ、我は……友達……いなくて……みんな……内部進学の子ばかりで……は、話しかけるの……こ、こ、怖くて……」
吃音の癖も相まって、SPの説明は少し回りくどく分かりづらいものでした。しかし、キュラドは退屈そうな素振りも見せず、顎を引いて黙ってその声に耳を傾けています。決して途中で否定することも、からかって茶化すこともしませんでした。
「内部進学とは?」
「あ、えっと……うち、私立で。しょ、初等部から、高等部まであって……」
「なるほど、お前は外部進学なのだな?」
「う、うん……そう……」
言葉の意味を理解し、キュラドは静かに頷きました。
彼の寛容な態度に安心したのか、SPは少しずつ言葉を増やしていきます。
「か、家族は……お父さんと、お母さん……だけ。や、優しいんだけど、その……わ、我の力のことで……ずっと……困ってて……だから……あんまり……」
そこまで話すと、SPは苦い記憶に触れたのか、少しだけ言い淀んでしまいました。
パチパチと暖炉の薪が爆ぜる音だけが、二人の間に流れます。
「お前の力を恐れていたのか」
キュラドが核心を突くように問いかけると、SPは諦めたようにこくこくと頷きました。
「……うん……我も……怖かった……ずっと、隠してて……だ、誰にも……言えなくて……」
「だから一人暮らしを?」
「あ、あの、そういうわけじゃ、ないんだけど……でも、わ、我が……決めたの……」
過去の孤独感が蘇り、紡ぐ声が震えます。
キュラドはそんな彼女の震えを静かに見つめ、しばらくの沈黙ののち、小さくため息をつきました。
「……愚かだな、人間は」
自分の過去を否定されたような気がして、SPは驚いて顔を上げました。しかし、キュラドの言葉は、SPの予想とは全く異なる方向へと向けられていたのです。
「力を恐れ、理解しようともしない。お前の力は美しいのに」
あまりにも自然に告げられた「美しい」という賛辞。
心臓が跳ね上がり、自分の頬がみるみるうちに紅潮していくのが、自分自身でもはっきりと分かりました。
「……きゅ、キュラド……」
「続けろ。お前の話は、興味深い」
SPは真っ赤になった頬を両手で隠したい衝動に駆られながらも、胸の奥に灯った温かさに支えられ、これまで世界の誰にも言えなかった小さな秘密や想いを、ひとつひとつ丁寧に話し始めました。
キュラドはその間、一度も彼女の言葉を遮ることなく、ただ静かに、真剣な眼差しでその声を受け止め続けていました。
*
SPが、これまで抱え込んできた自分の話を全て終えた頃。
暖炉の火が静かに揺らめき、部屋には先ほどまでの緊張感が嘘のような、柔らかな心地よい沈黙が落ちていきました。
キュラドは椅子の背もたれに深く腰掛け、正面に座るSPの姿をじっと見つめていました。
「……エス。お前は、どうなりたい」
不意に投げかけられた壮大な問いに、SPは何度も瞬きを繰り返します。
「ど、どう……って……」
「未来の話だ。友を作りたいのか。家族と関係を修復したいのか。力を極めたいのか。それとも──捨てたいのか」
核心に触れる選択肢の数々に、SPは思わず息を呑みました。
キュラドはそんな彼女の動揺を責めることもなく、淡々と、しかし確かな重量感を持って言葉を続けます。
「お前の力は、お前を苦しめてきた。だが同時に、お前を守ってもきた。……どう扱うかは、お前が決めることだ」
「わ、我は……」
SPは膝の上で、自分の服の布地をぎゅっと強く握りしめました。
すぐには適切な答えが浮かんできません。
彼女の頭の中で、これまで目を背けてきた様々な願望や恐れが、濁流のように渦を巻いていました。
本当は、みんなのように友達がほしい。
大好きな家族にこれ以上迷惑をかけたくない。
自分の力を怖がらずに、普通に進んで行きたい。
でも、この力のせいでたくさん傷ついてきたのも事実でした。
いっそこの力を完全に捨て去ることができたら、どんなに楽になれるだろうか──。
けれど、先ほどキュラドは、この力を「美しい」と言ってくれたのです。
その事実が、何よりも堪らなく嬉しかった。
必死に考えを巡らせた末に、SPの頭は完全にキャパシティオーバーを起こしてしまいました。
「……わ、我は……」
震える声で、必死に自分の本心を絞り出そうとします。
「どう……なりたいのか……わ、わからなくて……」
結局、答えを出せなかった情けなさに俯くSPでしたが、キュラドはすぐに返事を急かすようなことはしませんでした。ただ、その迷いそのものを肯定するように、静かな眼差しで彼女を見つめ続けます。
「今は、それでいい」
その穏やかな許しに、SPは弾かれたように顔を上げました。
「すぐに答えを出す必要はない。迷うのは弱さではなく、選択の余地があるということだ」
「……でも……わ、我は……ずっと、ま、ま、迷ってばかりで……なにも……で、できなくて……」
「なら、迷いながら進めばいい。お前にはその力がある。そして──」
キュラドはそこで、少しだけ照れ隠しをするように視線を斜め下へと逸らし、ほんのわずかに声音を落としました。
「……この俺がついている」
ドクン、と胸が大きく高鳴り、一瞬だけ息が止まるような感覚に陥りました。
SPはキュラドが紡いでくれたその言葉を頭の中で何度も繰り返し、その絶対的な安心感の意味を、深く深く噛み締めます。
「キュ、キュラド……」
気恥ずかしさを察したのか、キュラドはすぐにいつもの傲然とした表情へと戻りました。
「答えは急がなくていい。だが、いつか必ず聞く。お前がどう生きたいかを」
SPは胸の奥のざわめきを落ち着かせるように、ゆっくりと頷きました。
暖炉の火が二人の影を壁に優しく映し出し、応接室には、昨日までとは明らかに違う、特別で温かい温度の沈黙が静かに落ちていきました。
*
翌日の朝、学校へ向かう道すがら、SPの頭からは昨夜キュラドと交わした会話がどうしても離れませんでした。
「友を作りたいのか。家族と関係を修復したいのか。力を極めたいのか。それとも──捨てたいのか」
耳の奥に残るキュラドの低く重厚な声が、何度も何度も胸の奥底でリフレインします。
いくら自問自答を繰り返しても、まだ明確な答えは見つかりません。それでも、今までのようにただ現実から逃げるのではなく、自分の未来について「きちんと考えたい」と思えていることに、小さな心境の変化を感じていました。
やがて、いつも通りに賑やかな喧騒に包まれた教室へと入ります。
教室内を見渡せば、男子も女子もすっかり固定されたグループが出来上がっており、それぞれのメンバーで楽しそうに朝の時間を過ごしていました。当然、SPはその輪のどこにも入ることができません。
いつもであれば「それでいい」と自分に言い聞かせ、とっくに諦めて壁の花に徹していました。
しかし、今日はいつもと違います。
SPは自分の席に着くと、ふと胸の奥底からひとつの言葉がぽつりと浮かび上がってきたのです。
(……やっぱり……友達……ほしいな……)
その心の声は、自分でも驚くほどに素直で、瑞々しい欲求でした。
昨日、キュラドが遮らずに最後まで自分の話を聞いてくれた。ただそれだけのことで、SPの心に長年こびりついていた他者への怖さが、ほんの少しだけ薄れていたのです。
……その時、ふと強い視線を感じて、SPは無意識にそちらを向きました。
隣の席の男子生徒が、こちらをじっと見つめています。
予想外の出来事に跳ね上がる心臓を抑え、SPは慌てて目をそらしました。
(え……なに……? わたし……見られてる……?)
気のせいだと思いたくて、確認するようにもう一度だけちらりと横目を向けます。すると、彼はふいっと不自然に視線を逸らしました。
そのあからさまな仕草は、決して偶然の産物ではなく、明確にこちらを意識しているように思えました。
突然のことに戸惑いながらも、SPの胸の奥はざわざわと騒がしく波立ち始めます。
(……何か、わたしに……用事、あるのかな……)
ほんのわずかな期待と、それを上回る不安が入り混じります。しかしその後は特に何が起こるわけでもなく、無情に響いた始業のチャイムによって現実に引き戻され、教室の騒がしさは徐々に静まり返っていきました。
*
授業の合間の休み時間。
SPは授業のノートを見返しながらも、先ほど感じた隣からの視線が頭から離れずにいました。
(……やっぱり、気のせい……かな……わたしなんか、見られるわけ……)
自虐的な思考に陥りかけた、その瞬間でした。
コン、とSPの机が叩かれます。
SPが恐る恐る顔を上げると、そこには隣の席の男子、カイレイが立っていました。
感情の機微を一切読ませない黒い瞳と、頭の包帯。いつも通りの人を寄せ付けない威圧的な雰囲気を纏っています。
「……あ、あの……な、なに……?」
怯えるSPに対し、カイレイは不快そうに眉間に深い皺を寄せると、一言、低く吐き捨てるように言い放ちました。
「……臭い」
唐突で理不尽な言葉に、SPは何の意味か分からず、頭が真っ白になって固まります。
「え……?」
カイレイは自身の苛立ちを隠そうともせず、チッと激しく舌打ちをしました。
「……気持ち悪い」
ダイレクトにぶつけられた悪意に、SPの心臓がドキンと大きく跳ね上がります。
「そ、それ、それって……ど、どういう……」
「まともじゃない何かの気配がする……」
その指摘に、SPは思わず息を呑みました。
まともじゃない何かの気配。その言葉の響きに、全く思い当たらないわけではなかったからです。
(キュラド……?)
昨夜、キュラドの城の応接室で過ごした、あの穏やかな時間。自分の醜い過去を真剣に聞いてくれた彼の姿が、今でも鮮明に目に浮かびます。
(キュラド、やっぱり……まともじゃない、何か……?)
まともな返事もできず、ただ視線を激しく泳がせるSP。その態度が、カイレイの苛立ちにさらに火を注ぐ結果となってしまいました。
カイレイはSPを鋭い目付きで見下ろし、低く怒りを押し殺した声で続けます。
「さっきから吐きそうだ」
彼はSPの机に両手を突くと、威嚇するように彼女の顔のすぐ近くまで強引に身を寄せてきました。
間近に迫る威圧感に、SPはただガタガタと震えることしかできません。
「ご、ごめ……なさい……でも、わ、わた、我は……ほ、ほんとに……」
必死に紡いだSPの謝罪を遮るように、カイレイは冷酷に鼻で笑いました。
「……キモい話し方」
それだけを言い残し、カイレイは教室から出ていきました。
一人残されたSPは、極度の緊張とショックから、視界が涙でぼやけていくのを感じていました。
(……いま……わたしのこと、バカにした……?)
胸の奥が、嫌な音を立ててざわつきます。
カイレイが選んだ言葉の数々は、わざとSPが最も傷付く部分を狙って放たれたようでした。
自分がこの隣人にひどく嫌われているという結論に至るには、容易すぎる出来事でした。
*
その夜。
SPは昼間のショックを引きずったまま、自室の時間を過ごしていました。
すると今日も、いつものように窓ガラスをコツコツと叩く微かな音が聞こえてきます。視線をやれば、やはり夜風に外套を靡かせたキュラドの姿がありました。
そのまま手を引かれ、転移魔術の光に誘われるがまま、暖炉の火が揺れる落ち着いた応接室へと通されます。
キュラドは椅子に座るなりSPの顔を怪訝そうに覗き込み、その端正な眉をひそめました。
「……エス。今日は顔色が悪いな」
鋭い指摘にSPはびくっとして、逃げるように視線を床へと落とします。
「な、なんでもない……だ、だいじょうぶ……」
「嘘をつくな。何があった」
彼の声は威圧的ではありましたが、決してSPを責め立てているわけではありません。そこにあるのは、純粋に彼女に起きた異変を知りたいという真っ直ぐな響きでした。
SPはしばらく躊躇いましたが、胸に溜まった苦しさに耐えかねて、昼間に学校で起きた出来事をぽつりぽつりと話し始めました。
「……きょ、今日……隣の席の男の子に……く……『臭い』とか……き……『気持ち悪い』って……言われて……」
「そうか? いつもと変わらないが……」
言葉の意図を測りかねたキュラドは、真偽を確かめるようにSPの身体へとぐっと身を寄せます。
「や、やめて……は、恥ずかしいから……」
「……ふむ、やはりいつもと変わらない。他にも何か言われたか?」
至近距離でのやり取りに縮こまりながら、SPは記憶を辿って少しずつ言葉を紡ぎます。
「……ま、まともじゃない気配が……って」
その言葉を聞いた瞬間、キュラドは一瞬だけ深く沈黙し、次の瞬間、その端正な口元をゆっくりと吊り上げました。
「……ほう」
悲しむどころか、嬉々とした彼の反応にSPは驚きを隠せません。
「え、え……わ、我は……すごく……怖かったのに……」
キュラドは椅子に深く腰掛け、自身の指先で顎を軽く撫でながら、酷く愉快そうに喉を鳴らして笑いました。
「面白いな。俺の気配を感じ取る人間がいるとは」
想定外の言葉に、SPはパチクリと目を丸くします。
「や、やっぱり……きゅ、キュラド……の……?」
「そうだ。お前の周囲に残ったこの俺の気配を、そいつは感じ取ったのだろう」
「で、でも……その人……すごく怒ってて……」
怯えるSPを他所に、キュラドは楽しそうに笑みを深めます。
「当然だ。この俺という存在は、この世界にとってはあり得ない存在だ。感じ取ることができたのなら『異常』としか思えまい」
キュラドが遠い世界の存在であることを突きつけられ、SPは不安そうに眉を寄せました。
「わ、我……迷惑……かけてる……?」
「迷惑かどうかは知らん。だが──」
キュラドはその真紅の瞳を獣のように鋭く光らせました。
「興味深い」
彼の瞳に宿る未知の熱量に、SPの背筋にぞくりとした冷たい感触が走ります。
「きょ、興味深い……?」
「そうだ。お前の力に続いて、今度は俺を察知できる人間か。面白い。実に面白い」
SPがこれほど不安で胸をいっぱいにしているというのに、今のキュラドはすっかり冷徹な研究者の顔になっていました。
「で、でも……その人……わ、我のこと……き、き、嫌っ、てて……」
キュラドは関心がないとばかりに、大袈裟に肩をすくめてみせます。
「お前がそいつに嫌われていようがどうでもいい」
「で、でも……っ!」
思わず声を荒らげるSPの胸が、ぎゅっと痛みます。
「……わ、わざと、我を……傷つけるようなこと……」
「ほう、何と?」
悲しむSPを見つめるキュラドの目は、相変わらず純粋な好奇心に満ち溢れていました。
「わ、我の、我の……この、話し方…………き、き、きも、い……って……」
「……なるほど」
その言葉を聞いても、キュラドの表情に大きな変化はありませんでした。ただひとつ、その赤い瞳の奥の色が、僅かに冷たく沈んだように見えました。
キュラドはSPの頼りない頭の上に、ぽんと軽く手を置きます。
「心配するな、エス。お前が望むなら、俺が排除してやる」
どこまでも極端で、けれど絶対的なその言葉に、SPは少しだけ安心してそっと目を閉じました。
しかし、キュラドの口元は未だに隠しきれない不敵な笑みを浮かべたままでした。
「……その男、少し観察したくなった」
「か、観察……?」
物騒な単語に、SPは再び目を見開きます。
「当然だろう。その男、何かある。お前の力のような、何か異質な力を持っている可能性が高い」
異質なもの──。
その不穏な言葉の響きは、SPの小さな胸へと鉛のように重くのしかかっていくのでした。
*
翌日の学校。
SPは自分の席に着くと、昨日の恐怖を頭の隅に追いやりながら、必死に授業の予習に集中しようとしていました。
──バンッ!
教室の後ろ扉が大きな音を立てて乱暴に開け放たれました。
SPは驚きのあまり肩を跳ねさせ、持っていたシャーペンを床へと落としてしまいます。
音の主を確かめるまでもありません。やがて隣の席に、ガタンとこれまた大きな音を立てて彼が座りました。
(カイレイ……)
SPは恐怖に駆られながらも、目だけで恐る恐る彼の様子を窺いました。
カイレイは机にだらしなく肘をつき、相変わらずの無表情のまま横目でじっとSPを睨みつけていました。
これ以上彼を刺激しないよう、SPは慌てて視線を教科書へと戻し、身体を縮こまらせて気配を消そうと必死になります。
だが、その努力も虚しく、SPの背後にべっとりとまとわりつく異質な存在の気配が、カイレイの神経を容赦なく逆撫でしていました。
SPが緊張に震える手でシャーペンを持ち替えた、その時。
ガンッ!!
激しい衝撃音と共に、SPの机が横から思い切り蹴られ、大きく揺れました。
「ひっ……!」
SPは短い悲鳴を喉の奥で飲み込み、肩を大きく跳ねさせます。
カイレイは一切の感情を排した無表情のまま、机を蹴った足をゆっくりと戻し、見下ろすようにSPを冷たく凝視しています。
「…………」
彼は何も言いません。何も言わずに、ただその刃のような鋭い目付きだけで、SPに無言の圧力をかけ続けています。
恐怖で涙が潤む中、SPは震えながら小さく首を振りました。
「や……やめ、て……」
するとカイレイは、自身の拳をSPの机にドカッと置き、脅すように彼女の顔のすぐ近くまで身を寄せてきました。
「それは俺のセリフだ」
冷酷な低音に、SPの目からいよいよ涙が溢れそうになります。
「あ、う……ぅ……」
カイレイはそんな彼女の哀れな姿にひどく不快そうに舌打ちをすると、腹いせのようにもう一度机を強く蹴り飛ばしました。
激しい衝撃によって机の上の教科書や筆箱が、派手な音を立てて床へと散らばっていきます。SPの涙は今にも決壊寸前でした。
「迷惑だ」
それだけを冷酷に吐き捨てると、カイレイは再び自分の世界へと戻るように席に着きました。SPは震えたまま、これ以上惨めになりたくなくて、涙を必死に堪えて俯くことしかできません。
堪えた涙が今にも零れ落ちそうになった、まさにその時でした。
そっと、誰かの影がSPの机の上に落ちました。
SPが驚いて顔を上げると、そこにはこれまで殆ど話したことのない女子生徒──キズノが、心配そうにSPを覗き込んでいました。
「……大丈夫?」
その声は驚くほど優しく、カイレイによってズタズタに引き裂かれていたSPの震えた心に、すっと心地よく染み込んでいくようでした。
予想だにしない救いの手に、SPは驚きで目を見開きます。
「え……あ……」
キズノはSPの瞳に溜まった涙を見て、自身のポケットからそっと綺麗なハンカチを差し出してくれました。
「あいつ、いつもあんなだから。気にしないでいいよ」
突然の優しさに、SPはそれを受け取ることもできず、ただただ驚きで固まってしまいます。
「……怖かったよね」
キズノの温かい言葉に触れ、冷え切っていたSPの心が、内側から少しずつ温まっていくのが分かりました。
あんなに孤独で怖かった瞬間に、自分を助けてくれた。ハンカチを差し出してくれた。声をかけてくれた。
世界に一人きりだったSPにとって、彼女の存在はこれ以上ない救いそのものでした。
その後の移動教室のタイミングで、SPはこれまでの人生で一番の勇気を振り絞り、彼女の後ろ姿に声をかけました。
「あ、あの……き、キズノさん……い、一緒に……行っても……いい……?」
キズノは不意に話しかけられたことに少しだけ驚いた様子で立ち止まりましたが、すぐに表情を和らげました。
「……うん、いいよ」
優しく微笑むキズノの姿を見て、SPはぱっと顔を明るく輝かせます。
SPはまだ心臓を緊張でバクバクさせながらも、嬉しさを隠せない様子で必死に話題を探して話しかけます。
「さ、さっきの……その……授業……む、難しかったね……」
「そうだね」
キズノが短く返事をしてくれるたび、SPは嬉しさのあまりどうしても顔が緩んでしまいます。ニヤけそうになる締まりのない口元を、持っていた教科書で必死に隠すのに必死でした。
また、別の教科の授業では、こんな嬉しい出来事もありました。
「じゃあ二人組を作ってくださーい」
教壇の先生から放たれた、孤独な人間にとって最も残酷なその一言。
いつもであれば周囲が瞬時にペアを作り、自分だけが最後まで惨めに余ってしまい、最終的に先生の温情でどこかのグループに無理やり混ぜてもらうのが常でした。
しかし、今日のSPは少し違いました。
SPは激しい葛藤に迷いながらも、勇気を出して少し離れた席にいるキズノの方を見つめました。
「き、キズノさん……い、一緒に……やらない……?」
「うん、いいよ」
キズノは嫌な顔一つせず、快く頷いてくれました。
その一言が嬉しくて、SPは弾むような気持ちで自分の席を彼女の元へと寄せました。
(キズノさん、優しい……。もう、友達……って思って、いい、かな?)
キズノの浮かべる微笑みは、どこまでも優しく完璧でした。
しかしその綺麗な瞳の奥底には、SPには決して見破ることのできない、冷徹で計算高い光が静かに揺らめいていたのです。
*
「あ、あの……き、キズノさん……い、一緒に……行っても……いい……?」
「……うん、いいよ」
SPは自分の世界に光が差したかのように、ぱっと大輪の笑顔を咲かせました。
しかし、隣を歩くキズノの内心は、SPの予想とはまったく違う、極めて冷酷な方向を向いていました。
キズノは前を向いたまま、隣を歩くSPの横顔をちらりと一瞬だけ盗み見ると、静かに心の中で彼女の価値を計算し始めていたのです。
(……顔は悪くないけど、地味な印象。背も低いし、胸も……まあ、ない)
キズノの歩幅に遅れまいと、緊張で身体を強張らせながら必死に歩調を合わせようとするSPの健気な姿。それを見て、キズノはさらに冷静に、容赦のない分析を重ねていきます。
(気が弱くてすぐ吃る。トロい。自分から話しかけるのもやっと)
キズノは表面上、クラスメイトとしての完璧な微笑みを崩さないまま、内心ではゆっくりと、確実にSPのことを見下し始めていました。
(……大した子じゃない。ただの陰キャ。カイレイが苛立ってたのは、何でかな)
キズノの興味はSP自身ではなく、カイレイの動向にありました。彼女は有益な情報を得るため、観察を続けます。
「き、キズノさん……い、一緒に……やらない……?」
ペアを作る授業での、SPからの控えめな提案。
キズノにとって、ここで断る理由は特になく、笑顔を作って快く返事をしました。
「うん、いいよ」
SPは天にも昇るような嬉しそうな顔をして、ガタガタと席を寄せます。
その無防備で従順な姿を見つめながら、キズノはまた心の中で冷酷につぶやきました。
(ちょっと優しくしただけで、こんなに簡単に懐いちゃって……)
授業中、SPが必死に問題を解いている手元のノートを見て、キズノは自身の優位性をさらに確信します。
(学力も……まあ、普通。運動もできなさそう)
そうして、キズノの頭の中で、SPに対する静かな最終結論が下されました。
(……私よりずっと下)
キズノは慈悲を与える聖女のような微笑みを浮かべながら、SPのノートの数式に、そっと指先を置きました。
「ここ、間違ってるよ」
指摘されたSPは、嫌がるどころか、まるで宝物でも貰ったかのように嬉しそうに何度も頷きます。
「あ……ありがとう……!」
その純粋で、従順な笑顔を見つめながら、キズノは心の底で冷たく、嘲笑うように呟いていました。
(友達いないのもわかる。……つまんない子)
*
その夜。
SPはいつものように窓辺でキュラドに迎えられ、常闇の城へと連れて行かれました。
暖炉の穏やかな火がパチパチと揺れる、いつもの応接室。
キュラドは一人掛けの椅子に深く腰掛け、正面に座るSPの表情を、何かを値踏みするようにじっと見つめていました。
「……何かいいことでもあったか?」
彼に鋭く見抜かれ、SPは驚きつつも、隠しきれない喜びから少し照れたように小さく笑いました。
「え、えっと……きょ、今日は……うん、あ、あったよ……」
思い出すだけで、どうしても口角が緩んで上がってしまいます。SPはなんとか手でニヤけそうになる顔を抑えながら、一生懸命に言葉を紡ぎました。
「……友達……できたかも……しれなくて……」
それを聞いたキュラドは、一瞬だけ意外そうにその赤い瞳を細めましたが、次の瞬間、フッと満足そうに口元を緩めて笑いました。
「そうか。良かったではないか」
彼の予想外の祝福に、SPの顔はぱっと明るくなります。
その安心感から、彼女は今日学校で起きた嬉しかった出来事を、堰を切ったように次から次へと話し始めました。
「あ、あのね、嫌なことあったんだけど、で、でも、大丈夫? って言ってくれて……でね! それで、あ、えと、い、移動教室とか、あとペアの授業! あ、あま、余らなかったの、は、はじめて……」
普段の無口さが嘘のように、珍しく大興奮で身を乗り出して話すSP。
そのあまりにも必死で、子供のように純粋な様子に、普段は冷徹なキュラドも思わず、ふっと優しい笑みをこぼしてしまいました。
「ふ、エス、もう少し落ち着いて話せ」
「あ、え? あ、ご、ごめん……」
「いや、気にするな。これも大きな変化だな」
「へ、変化……?」
キュラドが口にした「変化」というワードに、SPは少しだけ不思議そうに首を傾げました。
「人間は、他者との関わりで形を変える。お前が誰かと繋がりを持ち、いつもと違った様子を見せる。研究とは別で……面白い現象だ」
キュラドの言葉の端々に宿る確かな関心を感じて、SPの胸の奥が温かくなっていきます。
「我の変化、お、面白い……?」
「ああ、面白い。だからこれからも、学校や身の回りで起こったことは俺に話せ」
キュラドは少しだけ満足そうに笑いました。
暖炉の光を反射して、彼の美しい真紅の瞳が静かに光ります。
「お前が人間との関わりでどう変わるのか、それを見ていきたい」
これまで自分の存在や能力を「異常」としてしか見られなかったSPにとって、自分の変化を肯定的に見守ってくれる彼の言葉は、胸が熱くなるほどに嬉しいものでした。
キュラドはまだ夢見心地の中にいるSPの頭の上に、そっと軽く、労わるように手を置きました。
「エス。友人を持つのは良いことだ。友人を大事にしろ」
彼の大きな手のひらの感触に、SPは視界をじわっと熱い涙で潤ませながら、小さく頷きました。
「……あ、あ、あり、ありがとう……」
キュラドはそんな彼女の素直で愛らしい様子を静かに見つめながら、満足げにその真紅の目を細めるのでした。
*
深夜、静まり返った学園の屋上。
月明かりが青白くタイルを照らす中、冷たい夜風を裂いて黒い外套が翻りました。
「今日、エスが言っていた。友達ができた、と」
唐突に投げかけられた低い声。
フェンスの上に腰掛けた少女は、背後を振り返りもせずにクスクスと喉を鳴らしました。
「……らしいねえ」
彼女のピンクのワンピースが、風に吹かれて不自然に波打ちます。背中に白い羽を生やした足のないその姿は、夜の闇に溶け込む幽霊のようでもあり、天使のようでもあります。
「相手はどんな人物だ?」
キュラドは少女へ一歩ずつ歩み寄ります。
少女はようやく振り返ると、悪戯っぽく首を傾げてキュラドを見上げました。
「なになに、心配なの?」
「いいや、これはただの興味だ」
キュラドは傲慢に鼻で笑い、視線を遠くの街明かりへと向けました。
「……知らなーい。わたし、恋してない子に興味ないんだもーん」
少女はふいっと顔を背け、爪を眺めるふりをします。
「使えない奴だ」
吐き捨てるような言葉。しかし、キュラドの眉間には隠しきれない微かな険しさがありました。
「そんなに心配なら明日見ててあげよっか。あなたの研究対象が言ってる『お友達』がどんな子かさ」
「ふむ……お前の目線ではその人物がどう映るかは興味があるな」
キュラドは腕を組み、不遜な笑みを浮かべました。
自分の手が届かない「昼の時間」。そこでSPが何に触れ、何に浸食されているのか。
それを知るためならば、このお喋りな少女の報告に耳を貸すのも、研究の一環として悪くないはず。
「わかったよ! じゃあ明日、しっかり観察してきてあげる。……でも、キュラド様」
少女はふわりと宙に浮き上がり、キュラドの耳元で囁くように微笑みました。
「あんまり重いと、嫌われちゃうかもよー?」
少女はそれだけ言うと、片目を瞑って夜の闇に溶けるように姿を消しました。
キュラドは答えず、ただ冷ややかな風を纏って背を向けます。
その瞳の奥には、SPが語った「友達」という輝かしい響きとは裏腹の、昏い予感だけが静かに沈んでいました。
平日21時は「エスパー少女と吸血鬼」
土日は「VAMPIRE ON AIR !!」を更新していきます!
「このキャラのここが好き!」「ここが可愛い!」などありましたらぜひ教えてください!
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