第14話 困った人たち
ハナヒメは、膝の上で両手を重ねると、ゆったりとした口調で語り始めました。いつもの華やかな調子とは違い、言葉をひとつひとつ選ぶように、慎重に話を進めていきます。
「今日会ったコイカミちゃんは、泣いてましたわ……。ずっと繰り返し『SPちゃんに合わせる顔がない』とおっしゃっておりましたの」
SPは神妙な顔で話を聞きます。先ほどまでの賑やかな空気はすっかり落ち着き、周囲の面々も口を挟まず、二人のやり取りを見守っていました。SPは膝の上に置いた手をそっと握り、ハナヒメの言葉に耳を傾けています。
「エスさんの好きな方と、コイカミちゃんはお友達だそうですわね」
「あ……う、うん。そう、だよ」
ハナヒメは一度言葉を切りました。視線を落とし、少しだけためらうように間を置いてから、再びSPへと向き直ります。
「コイカミちゃんは昨日、その方に……その、き、キスを……されたそうですわ……」
「……えっ?」
SPの表情が止まりました。
「大丈夫ですかエスさん! 一旦お茶を召し上がってくださいまし!」
ハナヒメが促すと、キトハがサッとカップに紅茶を注ぎます。慣れた手つきで用意されたカップが、SPの前にそっと置かれました。
SPはカップに目を落としましたが、すぐには手を伸ばしません。頭の中では、今聞いたばかりの言葉が何度も繰り返されているようでした。
「……ちょ、ちょっと、ま、待ってね。それで、その、き……キス、のことで、コイカミちゃんは、泣いてたの……?」
ようやく絞り出した質問に、ハナヒメは大きく頷きました。ハナヒメは一度息を吸い、覚悟を決めたように口を開きました。
「大事なのはそこですのよ! コイカミちゃんは……そのお方のことが……す、すす、好きになってしまったのですわ……!!」
「えっ……ええええええ!?」
今度こそ、SPの声が部屋に響きました。キスをされたという話だけでも十分に驚いていたところへ、さらに予想もしなかった事実を告げられたのです。頭の中を整理する余裕など、まるでありません。
「エスさん落ち着いてくださいまし! どうか気を確かに!」
「だ、だから、大丈夫だよ……!」
SPはそう返しましたが、その声には明らかに動揺が滲んでいました。
ハナヒメの言葉に、SPはまだ混乱していました。それでも、いったん落ち着こうと、目の前のカップに手を伸ばします。紅茶を一口飲み、ハナヒメから視線を外しました。温かな液体が喉を通っていきます。SPはゆっくりと考えを巡らせました。
(キュラドが、コイカミちゃんにキスをした……。それはまだいい。キュラドだし、何か理由があるはずだもん……)
冷えた指先をカップで温めるように、両手を添えます。
(重大な問題は、コイカミちゃんの方かも……)
キュラドが何を考えていたのかは、本人に聞かなければ分かりません。けれど、コイカミがキュラドを好きになってしまったという話は、そう簡単には片づけられそうにありませんでした。
SPはカップを置くと、ひとまず頭の中を整理した様子でハナヒメに向き直りました。
「うん……そ、それで……?」
「え……終わりですわ」
「あ……そう……」
食堂に妙な沈黙が落ちました。
ハナヒメは少し困ったようにSPを見つめています。周囲の面々も、何か言いたげな様子で互いの顔を見合わせました。
SPはもう一度カップに視線を落とします。どうやら、まだ話の続きがあると思っていたのはSPだけだったようです。
「そっか……こ、コイカミちゃんは、それで……わ、我に、申し訳ないって、思ってたんだ」
SPはぽつりと呟きました。先ほどまでの驚きは少しずつ収まり、今はコイカミの様子を気にかけているようでした。
「……ええ。あなたに対する裏切りだと」
ハナヒメは静かに頷きます。
「うん……。あ、あの、お話は……よく分かったよ」
SPはそう答えると、ハナヒメを見つめました。
「エスさん……お、思ってたより、冷静ですわね……?」
ハナヒメは拍子抜けしたように目を瞬かせました。周囲の面々も、SPの反応を確かめるように様子をうかがっています。
「……ふふっ。み、みんなが、すっごく……し、深刻な顔、してるから……ど、どんな話かと、思っちゃった……」
そう言って、SPは小さく笑いました。それまで張り詰めていた食堂の空気が、ほんの少しだけ緩みます。ハナヒメはSPの顔をまじまじと見つめ、それから感心したように声を上げました。
「なんてお強いのかしら……!」
ハナヒメの言葉を受け、SPは少し迷うように視線を落としました。膝の上で指先を組み、何度か口を開きかけては閉じます。やがて、意を決したように顔を上げました。
「あ、あのね。け……研究が、好きなひと、だから……その、き、キスも、多分……特別な、何かとかじゃなくて……け、研究……のつもりなのかも……」
「まあ。だからと言って突然女の子にキスをするなんて行為、許せませんわ」
ハナヒメは眉を寄せ、きっぱりと言いました。
「それは、そう……だね……」
SPの脳裏に、出会った日にされたキスの記憶が過りました。あれも、キスではなく血を飲んだだけの行為でした。
SPはそっと視線を落とします。
「……こ、コイカミちゃんが、心配だな」
SPは、今も夜の学園で一人泣いているかもしれない、コイカミの姿を思い浮かべました。いつも明るく、何でも知っているような顔をしていたコイカミ。そんな彼女が、自分に合わせる顔がないと泣いていた。そのことが、SPの胸に引っかかっていました。
「……なあ、SPちゃん」
それまで口を閉ざしていたコリョーが、静かに口を開きました。
「男として、大人として言わせてもらうけどさ、その男はやめておいた方がいいんじゃないか?」
「ちょっと、コリョー! そういうことは言わないお約束では!?」
ハナヒメが慌てて制止します。しかし、コリョーは引き下がる様子もなく、SPへと視線を向けました。
「分かってねえよヒメは。大体その男、一体いくつだよ?」
「えっ」
SPは固まりました。
言われてみれば、考えたこともありませんでした。キュラドと出会ってから何度も顔を合わせているのに、年齢を聞いたことはなかったのです。
「……な、何歳、なんだろう」
SPがぽつりと答えると、ハナヒメの顔色が変わりました。
「ええええエスさん! それは非常に重要な問題ですわよ!」
「お言葉ですが私もそう思います! 仮にかなり年上だとして、女子高生に執着して待ち伏せたりする男がまともなわけありません!」
キトハが声を張り上げます。先ほどまでSPの話を静かに聞いていた彼女も、すっかり黙ってはいられなくなったようでした。
「ちょっと待って、執着? 待ち伏せ? それは聞き捨てならないよ」
ケンインも立ち上がります。もう眠そうな様子はありません。
「完全に怪しい男だよそれ。SPさん大丈夫? その……コイカミちゃん? って子みたいに、何かされてたりしない?」
「いや、あの、えっと、そ、その……ち、違うんですぅ……!」
一斉に向けられる視線に、SPはすっかり慌ててしまいました。何から説明すればいいのかも分からず、言葉を探して口を開いたり閉じたりしています。先ほどまでコイカミを心配していたはずなのに、いつの間にか話の矛先はキュラドへと向いていました。
SPはなんとか弁明しようと必死に頭を働かせます。しかし、どう説明すれば納得してもらえるのか、良いアイデアはさっぱり浮かびません。そうこうしているうちにも、大人たちは口々に心配の声を上げています。SPが何か言おうとしても、その声に遮られてしまい、ますます説明の糸口を見失っていました。
「……全員止まれ。エスさんが困っているだろう」
それまで黙っていたリンシンが口をはさみました。
その一言で、食堂に響いていた声がぴたりと止まります。リンシンは周囲を見渡してから、SPへと視線を向けました。
「エスさん、すまなかった。うちの連中は、少し出しゃばりすぎだな」
「あ……い、いえ……」
SPは恐縮した様子で小さく首を振りました。心配してくれていることは分かっています。けれど、次々に言葉を投げかけられて、どう答えればいいのか分からなくなっていたのも事実でした。
「ただし、彼らの意見は頭の片隅に置いておいた方が良い。まあ最終的にどうするかは、あなた次第だがな」
「はい……」
リンシンの言葉に、SPは素直に頷きました。
「さあ、もうこの話は終わりだ。全員仕事に戻れ。風呂の準備はできているのか?」
「あ、はい。もちろん準備はできております」
クロツカが慌てて答えます。
「よし、ならエスさんは風呂に入ってゆっくりするといい」
「あ……ありがとう、ございます……」
SPは頭を下げました。
それを合図に、食堂にいた面々もそれぞれ動き始めます。先ほどまでの騒がしさが嘘のように、食堂には少しずつ落ち着きが戻っていきました。
*
ハナヒメと二人で部屋に戻る最中、SPはぽつりとつぶやきました。
「ヒメちゃん……」
「はい?」
「……あの、あのひとね……きょ、今日、ここに来る前、ちょっと、お話したんだ」
「あら……お電話されていたのですわね」
「あー……そ、そう……」
会いに行ったと言ったら余計な誤解を生みそうだったので、ハナヒメの勘違いに乗りました。
「……そのとき、ちょっと、よ、様子が、変だったんだ。だから、か、彼も、コイカミちゃんのこと……き、気にしてるのかもしれない……」
「なるほど……そうだったのですね……」
ハナヒメは歩みを緩め、SPの話に耳を傾けました。SPもまた、言葉を選ぶように少しずつ話しています。
「……あ、明日、ちゃんと、お、お話する。は、話をして、それから……コイカミちゃんにも会いに行くよ」
SPは顔を上げました。
周りのみんなが心配してくれる気持ちは嬉しいし、その言葉を無視するつもりもありません。それでも、SPは自分の目で見たものと、自分の耳で聞いたものを信じたいと、固く決心していました。
「……分かりましたわ。私はエスさんの判断を信じますわ。ただ一つだけ……」
ハナヒメは少しだけ歩調を緩め、SPの顔を見ました。
「な、なに?」
「コイカミちゃんに『お約束を守れなくてごめんなさい』とお伝えくださいまし……」
そう言ってハナヒメは、恥ずかしそうに頬を赤く染めました。SPは一瞬きょとんとしましたが、すぐにハナヒメの言葉の意味を察したようでした。
「う、うん。ちゃんと、つ、伝えるね」
SPは小さく頷きました。
ハナヒメは照れくさそうに視線を逸らし、再び歩き始めます。SPもその隣に並びました。




