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第10話 わたしの研究

 紅茶やスイーツが消えた頃。


「ふふ……お、お腹いっぱいに、なっちゃった。晩ごはん、い、いらないかも」

「よろしいではありませんか。今は口うるさいクロツカも見ておりませんもの」


 SPが時計を見ると、19時を少し回っていました。


「……そろそろ、か、帰ろうかな」

「うう……寂しいですわエスさん……」

「え〜?」


 ハナヒメはしばらく考えて、パッと顔を明るくしました。


「あ、そうですわ! もうすぐ先生やお兄様も帰ってきますわよ。ぜひ紹介させていただきたいですわ!」

「せ、先生……って……?」

「住み込みのお医者様ですわ」

「ああ……い、言ってたね……」

「……というか、エスさん! 今日はうちに泊まっていってくださいまし! 絶対それがいいですわ!」


 ハナヒメは身を乗り出し、勢いよく提案しました。

その勢いに押され、SPは戸惑ったように目を泳がせます。


「ええっ……! お、お泊まり……どう、しよっかな……?」


 そんな二人のやりとりを見ていたキトハが、穏やかに口を挟みました。


「ヒメ、あまりエスさんを困らせてはいけませんよ。明日も平日ですし、今日はお帰りいただいて、また週末にお泊まりのお誘いをされてはどうでしょう?」

「名案ですわ! ね、エスさん。金曜日にまた泊まりにいらして?」

「あ……」


 SPは返事をしかけて、言葉を止めました。再び、キュラドの姿が頭に浮かびます。


(また金曜に遊びに行くって言ったら……「どこへでも行け」って言われちゃうかな……)


 *


 車で寮まで送ってもらったSPは、車を降りるとハナヒメたちに向き直りました。


「エスさん、それではまた明日学校で」

「うん……ま、またね」

「お泊まりの件、またお返事教えてくださいまし」

「……う、うん」


 ハナヒメに念を押され、SPは曖昧に頷きました。やがて車が走り去ると、その姿を見送ってから寮の部屋へと戻ります。

 時計を見ると、時刻は20時前でした。


(……お風呂入って明日の準備したら、また……キュラドに会いに行こっかな……)


 キュラドに会いたい。そう思っている自分に気づき、SPは顔を赤くしました。慌てて両手で頬を押さえると、急に恥ずかしさが込み上げてきます。

 手早く入浴を済ませ、部屋着に着替えたSPは、部屋の中を歩き回りながら考えました。


(キュラド……行ったら、どんな顔するかな。迷惑がられないかな……?)


 迷いながらも、カバンの中から今日出された課題を取り出し、確認していきます。


(……でも、来たいと思った時に、鍵を使えって言われたから)


 SPは筆記用具やノート、参考書などを手提げにまとめました。それから引き出しを開け、中にしまっていた鍵を手に取ります。しばらく鍵を見つめたあと、SPは意を決して鍵を使い、城の中へ足を踏み入れました。

 研究室の扉を開けてみると、キュラドの姿はありませんでした。


「あの……キュラド……?」


 声をかけてみても返事はなく、城の中は静まり返っていました。

 SPは研究室を見回してから、廊下に並ぶ扉へと目を向けます。


(どこにいるんだろう……)


 おそるおそる、端から順に扉を開けていきました。

 応接室、書斎、書庫、保管庫……。どの部屋にもキュラドの姿はありません。

 次の扉を開けた瞬間、SPは足を止めました。扉の向こうから、白い湯気が流れ出ています。


「……?」


 SPがそっと中を覗き込むと、温かい空気に包まれました。ちゃぽん、という水の音が響いていて、白い湯気の向こうには広い浴槽が見えました。

 どうやらここは浴室のようです。湯船の中には、湯に身を沈め、目を閉じているキュラドの姿がありました。彼の白い肩が目に入った瞬間、SPは息を呑みました。


「っ……!」


 声にならない声が漏れ、次の瞬間には、弾かれたように部屋の外へ飛び出していました。慌てて扉を閉め、背中を押しつけるようにして、そこから離れます。


(お風呂だった……! キュラド、お風呂に入ってた……!)


 見てはいけないものを見てしまった気がして、心臓が激しく跳ねました。ほんの一瞬だったはずなのに、白い肩の印象が頭から離れません。

 SPは壁に背を預けたまま、力が抜けてその場にへなへなと座り込みました。顔が熱くてたまりません。両手で頬を覆い、何度も深呼吸をしようとしますが、息は浅く、うまく整いませんでした。


「……エス」


 頭上から声が降ってきました。

 SPは大きく肩を震わせ、恐る恐る顔を上げます。そこには、バスローブ姿のキュラドが立っていました。


「何をしている?」

「いやっ……! あの! な、な、なん、なんでも、ないよ……!」

「いや、そうではなく。友人の家に行ったのではないのか」

「さ…………さっき、か、帰ってきて……」


 しどろもどろに答えるSPを、キュラドは見下ろしていました。


「そうか。今日はもう来ないと思っていた」


 改めてキュラドの顔を見ると、怒っている様子はありませんでした。それどころか、口元はわずかに吊り上がり、目はどことなく嬉しそうに妖しく光っています。

 SPが返事に困っていると、キュラドは身を翻しました。


「研究室で待っていろ。着替えてくる」


 そう言い残し、キュラドは廊下の奥へと消えていきました。

 言われた通り、SPは研究室のソファに腰掛け、落ち着かない様子でキュラドを待っていました。先ほど目にしてしまった光景が何度も頭をよぎり、そのたびに胸がどきりと跳ねます。

 やがて、普段通りに身なりを整えたキュラドが研究室へ戻ってきました。


「今日はどうにも集中できなかったのでな。一度手を止めて湯浴みをしていたのだ」

「そ、そうなんだ……。ご、ごめんね。お風呂、覗いちゃって……」

「何を言っている? それより、茶でも飲むか?」


 キュラドは本気で何のことかわかっていない様子でした。


「う……お、お茶は、い、いただきます……」


 キュラドは戸棚からティーセットを取り出し、テーブルの上に並べました。ティーポットとカップを置き、茶葉をポットへ入れると、指先を軽く持ち上げます。すると、ぼんやりと淡い光が浮かび、ポットの中に水が静かに満ちていきました。水面が揺れることもなく、まるで見えない水源から直接注がれているようでした。

 続いて、キュラドがポットの側面へ指を向けると、淡い光が水の中へ溶け込みます。やがて水面から細かな泡が立ち始め、湯気がゆっくりと立ち上りました。

 キュラドは茶葉が開くのを待ち、頃合いを見計らってポットを軽く揺らします。紅茶の香りが研究室に広がり、彼はそれをカップへ静かに注ぎました。


「ほら、淹れたぞ」

「あ、ありがとう……さっきの、な、なんの魔術……?」

「あれは水源から水を引く魔術だ。その後、温度管理の魔術をかけて湯を沸かしている」

「へ、へえ……」


 説明を聞きながら、SPはティーポットを見つめました。目の前のお茶が魔術によって淹れられたのだと思うと、少し不思議な気持ちになります。


「吸血鬼は流水が苦手でな。弱点というほどではないが、あまり触れたくないものなのだ。だから、この城に水道の類はない」

「じゃ、じゃあ……さっきの、お……お風呂……は……?」


 尋ねかけたところで、先ほど目にした光景が脳裏によみがえりました。SPの顔が、みるみる赤くなります。


「湯浴みか。静止した湯に身を沈めることは、魔力の循環に良いのだ。精神統一のために行っている節もあるため、ある種の儀式とも言えるな。人間の入浴とは少し異なるのだろう」

「そう……なんだ……」


 SPは紅茶を一口飲み、ほっと息をつきました。

 先ほどまでの緊張が、温かな香りとともに少しずつほどけていきます。キュラドと二人きりで過ごすことにも、ようやく慣れてきたような気がしました。


「……さ、さっきね、ヒメちゃんのおうちでも、お、おいしい紅茶を、いただいたよ」

「そうか。俺には味の良し悪しは分からんがな。エスも味だけでなく、香りを楽しむと良い」

「か、香り……?」


 SPはキュラドのカップへ目を向けました。キュラドはカップに口をつけず、立ち上る香りを楽しんでいるようでした。SPも彼の真似をして、カップへ顔を近づけます。


「あ……。か、柑橘の、匂い……」

「ベルガモットだ」

「ベルガモット……?」


 聞き慣れない言葉に、SPは小さく首を傾げました。


「ああ。アールグレイとは、茶葉にベルガモットの香りをつけたフレーバーティーだ」

「そ、そうなんだ……。紅茶のこと、ぜ、全然知らないんだよね……」

「フン。俺がアールグレイを好んでいることは、覚えておいて損はない」


 キュラドは満足げに口元を緩め、香りの残るカップを手元に置きました。

 SPはその言葉を聞き、キュラドの好みを一つ知ることができたことに、ひそかに嬉しさを覚えました。

 キュラドはその後も、紅茶に口をつける様子はありませんでした。カップから立ち上る香りを、静かに楽しんでいます。SPはそんな彼を見つめ、少し迷ったあと、おずおずと尋ねました。


「……も、もしかして、キュラドって……紅茶、飲めないの……?」

「ああ。俺が口にできるのは血液のみ。だが、味が分からずとも、こうして香りを嗜むことや、茶葉が躍る様子を観察したり、手で茶の温度を感じることはできる。気分転換には丁度良い」

「へえ……」


 キュラドの話を聞き、SPは手元のカップに視線を落としました。今まで紅茶を楽しむというと、味わうことばかり考えていました。けれど、香りを確かめたり、茶葉の動きを眺めたり、温かさを感じたりすることもできるのです。紅茶の良さが、ほんの少しだけわかったような気がしました。


「……あの、ね。キュラド」

「ん?」


 SPはカップをそっと置き、キュラドへと顔を向けました。言い出すのをためらうように、指先をもじもじと動かします。


「……わ、我は……キュラドのこと、も、もっと、知りたい……」

「……フン、物好きな奴め。だが……興味を持たれるというのは、存外悪くないな」


 キュラドはそう言いながら、手元のカップに視線を落としました。


「あ……ほ、ほんと?」


 SPは思わず身を乗り出します。キュラドの言葉が嬉しくて、胸の奥がじんわりと温かくなりました。


「ああ。……まあ、人間からしたら俺という存在は謎が多いだろうからな」


(そういうことじゃないんだけど、まあ……いっか……)


 SPは照れ隠しのように、紅茶をもう一口飲みました。先ほどよりも香りを意識してみると、柑橘のような爽やかさが鼻を抜けていきます。


 カップを置いたところで、ふと視線が手提げカバンへ向きました。机の脇に置いたままのカバン。その中には、ノートや教科書、筆記用具が入っています。そして、明日提出しなければならない課題も。


「……あ」

「何だ?」


 キュラドが怪訝そうに眉を上げます。

 カバンを見つめていたSPの表情が、みるみるうちに青ざめていきました。さっきまで浮かれていた気持ちが、一瞬で現実へと引き戻されます。


「か、かか、か、課題! やらなきゃ! やろうと思って、も、持ってきたのに! 忘れてた!」


 SPは慌てて手提げカバンを掴みました。中身を取り出そうとする手も、焦りのせいでうまく動きません。


「何だ騒々しい……」


 キュラドは呆れたように言いながらも、突然慌て始めたSPの様子をじっと見つめていました。

 SPはノートと教科書、筆記用具を次々に取り出しました。ノートを開くと、今日の授業で書き写した内容が目に入りました。ところどころに走り書きされたメモや、先生が板書した例文が並んでいます。

 キュラドはそんなSPの様子を覗き込んでいました。教科書とノートを交互に見つめ、SPが何に困っているのかを静かに観察しています。

 しばらくして、キュラドはようやく口をはさみました。


「英語か。課題とはどういった内容だ?」

「え……こ、この構文を使って……え、英作文を……」


 SPは慌てて教科書の該当箇所を指さしました。指先がページの上で小さく揺れています。


「ふむ、見せてみろ。手伝ってやる」


 キュラドは教科書を手に取り、書かれている例文に目を通しました。


「ほ……ほんと!?」


 思わず身を乗り出したSPに、キュラドはわずかに眉を上げました。


「ああ。こんな課題、さっさと終わらせてしまえ」

「キュラド……あ、ありがとう……!」


 SPの表情がぱっと明るくなりました。さっきまで課題の提出期限に慌てふためいていたのが嘘のように、肩の力が抜けていきました。

 キュラドの教えのおかげで、SPはなんとか課題を終わらせることができました。ノートの最後の一行を書き終えると、ようやく安堵の息をつきます。


「ありがとう、キュラド……た、助かった……」

「フン、この程度の内容、もっと短時間で終わらせろ」


 SPは小さく頷き、ノートを閉じました。


「あの……キュラド」

「どうした」


 返事を聞いても、SPはすぐに続きの言葉を口にできませんでした。ノートを机の端へ寄せ、膝の上で両手を握り合わせます。

 今日、ここへ来る前から、キュラドに会いたいと思っていました。実際に会えて、話をして、課題まで手伝ってもらって。けれど、もうすぐ帰らなければならないのだと思うと、胸の奥が少し寂しくなります。

 SPは視線を落としたまま、ためらいがちに口を開きました。


「あの、ね。これから……今日みたいに……ね、寝るまでの、時間……こ、ここにいても、いい……?」


 言い終えた途端、自分の言葉が急に恥ずかしくなりました。断られたらどうしよう。迷惑だと思われたらどうしよう。そんな不安が押し寄せ、握った手に力がこもります。

 キュラドは目を見開き、何度か瞬きを繰り返しました。思いがけない申し出だったのか、すぐには返事をしません。

 沈黙に耐えきれなくなったSPは、そっと顔を上げます。


「……だめ、かな」


 自分でも驚くほど弱々しい声でした。

 おずおずとキュラドの表情をうかがうと、彼は口元に手を置き、考え込んでいるようでした。机の上のノートへ目を向け、それからSPへ視線を戻します。いつものように眉間にはしわが寄っていましたが、追い返そうとしているようには見えません。


「ふむ……エスがそうしたいなら、好きにすれば良いが……」

「い、いいの……?」


 SPは思わず身を乗り出しましたが、すぐに姿勢を戻しました。

 キュラドはしばらく黙ったまま、口元に置いた手を下ろしませんでした。やがて、わずかに目を細めます。


「……フン、お前が入り浸るようになっては、俺の研究は一向に進まなくなりそうだ」


 そう言って、キュラドはSPの頭にぽんと手を置きました。呆れたような言葉でしたが、その声には本気で追い払うような冷たさはありませんでした。

 SPは赤くなった頬を隠すことなく、キュラドのひんやりとした独特な体温を静かに感じていました。


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