第85話 第二命令
静寂が戻っていた。
ほんの少し前まで、禁域全体を覆っていた赤黒い魔力は消え、空を埋め尽くしていた黒雲もゆっくりと薄れていく。崩れかけていた古代都市には、朝日のような淡い光が差し込み始めていた。
アーク・ゼロは、膝をついたまま動かない。
巨大な身体からは、先ほどまでの圧倒的な魔力が感じられなかった。黒い装甲はところどころ砕け、胸部には白銀のコアがむき出しになっている。
その前に立っている零司は、右手を下ろした。
「……終わった?」
セリナが恐る恐る尋ねる。
零司はアーク・ゼロを見上げる。
「たぶん。」
「たぶんって……。」
少女が呆れたように呟く。
「こういう時だけ自信ないのやめてよ。」
「いや、だって僕にも分からないし。」
そのやり取りを聞いていたガルドが、思わず苦笑する。
「少なくとも、さっきまでの殺気は消えた。」
「なら、ひとまずは成功だろう。」
ルシアだけは、何も言わなかった。
彼はアーク・ゼロの胸部にある白銀のコアを凝視している。
その表情は、安堵というより困惑に近かった。
「……おかしい。」
「何が?」
零司が振り返る。
ルシアはゆっくり近付いていく。
「命令を消したなら、アーク・ゼロは完全に停止するはずなんだ。」
「でも、動いてる。」
「そう。」
「それだけじゃない。」
ルシアはコアへ手を伸ばした。
指先が触れる寸前。
白銀の光が一瞬だけ青く変わった。
ルシアの顔が凍りつく。
「……これは。」
「どうした?」
「残っている。」
「何が?」
ルシアは答えなかった。
代わりに零司を見る。
その目には、明らかな動揺があった。
「零司。」
「お前、さっき命令を消す時、他に何か見なかったか?」
零司は少し考える。
「赤い文字なら見たよ。」
「『デスビーム保持者を排除せよ』ってやつ。」
「それ以外は?」
「……いや。」
零司は首を横に振った。
「他には何も。」
その答えを聞いたルシアは、さらにコアへ近付いた。
そして、ほんのわずかに光る文字を見つける。
「……第二命令。」
「え?」
全員が反応する。
ルシアはコアへ刻まれた文字を読み上げた。
「対象――黒崎零司。」
零司の表情が固まる。
「僕?」
「ああ。」
「何て書いてある?」
ルシアは沈黙した。
しばらくしてから、ゆっくり答える。
「保護。」
誰も言葉を発しなかった。
「……保護?」
零司が聞き返す。
「そうだ。」
「排除じゃなくて?」
「逆だ。」
ルシアは首を振る。
「アーク・ゼロには、お前を殺す命令と、お前を守る命令の両方が存在していた。」
「なんでそんなものが……。」
ガルドが眉をひそめる。
「同じ対象に対して、真逆の命令を設定するなど聞いたことがない。」
「俺もだ。」
ルシアはコアを見つめた。
「だから怖い。」
「何が?」
「アーク・ゼロを造った研究者たちは、デスビーム保持者を恐れていた。」
「なら、なぜ保護する命令まで入れた?」
答えは出ない。
だが、ルシアは一つの可能性に気付いていた。
「……もしかすると。」
「デスビームを恐れていた者たちの中に、逆の考えを持つ者がいたのかもしれない。」
「逆?」
「デスビームを消すべきではない。」
「むしろ、守るべきだと考えた者がいた。」
零司は黙ってコアを見つめる。
「どうして?」
「分からない。」
ルシアは首を振る。
「ただ。」
「一つだけ確かなことがある。」
「何?」
「その命令は、かなり古い。」
「アーク・ゼロが造られた時から存在している。」
つまり。
黒崎零司がこの世界へ来るより遥か昔。
まだデスビームという力が、この世界で知られていなかった時代。
その頃から、誰かが「デスビームを持つ者」を守ろうとしていた。
零司の背筋に、冷たいものが走った。
「……僕が来ることを知っていた?」
その言葉に、ルシアは答えなかった。
だが、沈黙そのものが答えのように感じられた。
「そんなこと、あり得るのか?」
ガルドが尋ねる。
「未来を予知する魔法は存在する。」
セリナが口を挟んだ。
「ただし、何千年も先の人物を特定するなんて……。」
「無理だ。」
ルシアが即答した。
「普通なら。」
「普通なら?」
「アストリアには、未来を観測しようとした研究者がいた。」
その言葉に全員の視線が集まる。
ルシアは少し迷った後、話を続けた。
「彼の名前は、エルド。」
「アストリア最高位の予測研究者だった。」
「彼は未来を直接見ることはできなかった。」
「だが、可能性を計算することはできた。」
「そしてある日。」
「世界の未来に、一つだけ異常な存在を見つけた。」
零司は黙って聞いている。
「黒崎零司。」
自分の名前が出た瞬間、空気が変わった。
「……僕の名前を?」
「いや。」
ルシアは首を横に振った。
「当時は、まだ名前すら分からなかった。」
「ただ一つ。」
「『世界の法則から外れた力を持つ者が現れる』。」
「それだけを予測した。」
そして。
「エルドは、その人物を守るための命令をアーク・ゼロへ残した。」
零司はコアを見つめる。
「じゃあ……。」
「僕がここへ来ることも?」
「おそらく。」
ルシアは答えた。
「ある程度は予測していた。」
その瞬間。
アーク・ゼロの白銀のコアが強く輝いた。
全員が身構える。
だが、攻撃ではない。
光の中から、一つの映像が浮かび上がった。
古代都市。
まだ滅びる前のアストリア。
そこに一人の男が立っている。
白い髪。
痩せた身体。
研究者らしい眼鏡。
その男――エルドは、こちらへ向かって話し始めた。
『もし、この記録を見ているのなら。』
『予測は成功したということになる。』
零司は息を呑む。
『この先、世界の法則から外れた力を持つ者が現れる。』
『その力は、世界を滅ぼすこともできる。』
『だが、同時に世界を救うこともできる。』
映像の中のエルドは、静かに笑った。
『だから私は、その者を敵とは定義しない。』
『もし彼が自らの力を恐れた時、どうか支えてほしい。』
『もし彼が道を間違えた時、どうか止めてほしい。』
『そして、もし彼が正しい道を選んだのなら――』
そこで映像が一瞬途切れた。
次に映ったエルドの顔は、どこか悲しげだった。
『その時は、彼を一人にしないでほしい。』
映像が消える。
誰も言葉を発さなかった。
零司はしばらく黙った後、小さく息を吐いた。
「……変な人だな。」
少女が零司を見る。
「何が?」
「何千年も前の人なのに。」
零司は苦笑する。
「今の僕に説教してるみたい。」
ガルドが笑った。
「確かにな。」
しかしルシアだけは笑っていなかった。
「零司。」
「うん?」
「まだ終わっていない。」
「え?」
ルシアは険しい表情で北の空を見る。
「エルドが予測したのは、お前の出現だけじゃない。」
「……何を?」
ルシアは静かに答えた。
「もう一つ。」
「デスビーム保持者が現れた後、この世界で必ず起こる出来事がある。」
「それは?」
遠くで雷が鳴った。
空には再び黒い雲が集まり始めている。
ルシアは、禁域のさらに奥を指差した。
「もう一つの禁忌が目覚める。」
その瞬間。
地面の奥から、低い音が響いた。
ゴゴゴゴゴ……。
古代都市の地下。
誰も存在を知らなかった巨大な扉が、ゆっくりと開き始める。
アーク・ゼロのコアが青く輝く。
【第二命令】
【保護対象を確認】
【次の指令を実行します】
零司の目の前に、新たな文字が浮かび上がった。
【第八封印を解放】
零司はその文字を見つめたまま、呆然と呟いた。
「……第八?」
ルシアの顔から血の気が引いた。
「嘘だろ……。」
「何?」
「この禁域に封印されているものは――。」
そこでルシアの声が途切れた。
地下から。
巨大な何かが、目を覚ました。




