第56話 知っている者
笑い声が消えた後も、黒い柱はそこにあった。
夜空へ伸びる巨大な亀裂。
見ているだけで頭が痛くなる異物。
先ほど逃げ出した黒い影も、その奥へ消えている。
しかし。
今は誰も動かなかった。
少女の言葉が気になっていたからだ。
「昔の僕って何ですか?」
零司が尋ねる。
少女は一瞬だけ口を閉ざした。
そして。
「言えない」
即答した。
「なぜです?」
「言うと面倒だから」
非常に雑な理由だった。
ガルドが額を押さえる。
「説明しろ」
「やだ」
「説明しろ」
「やだ」
子供の喧嘩みたいなやり取りだった。
だが誰も笑えない。
少女の正体が分からない。
それなのに。
彼女は零司を知っている。
しかも昔から。
⸻
その時だった。
黒い柱が脈打った。
ドクン。
心臓の鼓動のような音。
大地が震える。
空気が軋む。
全員が戦闘態勢へ移行した。
ガルドが剣を構える。
セリナが詠唱を開始する。
ボルグが前へ出る。
騎士たちも武器を抜いた。
少女だけが面倒そうな顔をしていた。
「ほら来た」
ドクン。
再び鼓動。
そして。
柱の表面が裂けた。
⸻
中から現れたのは。
人だった。
少なくとも形は。
黒い外套。
黒い髪。
黒い瞳。
若い男に見える。
だが。
誰も安心しなかった。
存在感がおかしい。
生き物なのに。
生き物ではない。
まるで世界の外側から無理やり入り込んできた何か。
そんな違和感があった。
男はゆっくり周囲を見渡す。
そして。
零司を見た。
その瞬間。
男の表情が変わる。
驚愕。
信じられないものを見る顔。
「……あり得ない」
小さく呟く。
「なぜお前がいる」
少女が鼻で笑った。
「こっちの台詞」
男は少女を無視する。
視線は零司だけへ向いていた。
「消えたはずだ」
「封印されたはずだ」
「完全に」
ぶつぶつと呟く。
まるで理解が追い付いていない。
⸻
零司は首を傾げた。
「誰ですか?」
男が固まる。
数秒。
沈黙。
そして。
初めて笑った。
乾いた笑いだった。
「覚えていないのか」
「はい」
「そうか」
男は納得したように頷く。
そして。
嬉しそうに笑った。
「なら都合がいい」
空気が変わる。
ガルドの目が細くなる。
危険。
本能が警告する。
今まで戦ったどんな魔物より危険だと。
⸻
男の身体から黒い霧が溢れ出した。
森が枯れる。
草が死ぬ。
木々が崩れる。
触れているだけで世界が壊れていく。
セリナが青ざめた。
「何よこれ……」
魔法ではない。
呪いでもない。
もっと根本的な何かだ。
少女がため息を吐く。
「だからバグなんだって」
「バグ?」
「世界の不具合」
少女は面倒そうに説明した。
「本来存在しちゃいけないもの」
男が笑う。
「違うな」
その声だけで空気が震える。
「俺たちこそ正しい」
「壊れているのは世界の方だ」
誰も理解できない。
だが。
理解できなくても危険なのは分かった。
⸻
男はゆっくり右手を上げた。
黒い霧が集まる。
森全体が悲鳴を上げる。
騎士たちが後退る。
セリナが魔法陣を展開する。
ガルドも剣を握る。
王国最強ですら緊張していた。
そして。
男が放とうとした瞬間。
零司が一歩前へ出た。
「だめですよ」
静かな声だった。
しかし。
男の動きが止まる。
完全に。
時間が止まったように。
⸻
全員が固まる。
男も固まる。
零司も固まる。
少女だけが天を仰いだ。
「あー……」
嫌そうな声。
「始まった」
「何がです?」
零司が聞く。
少女は真顔で答えた。
「無自覚な上位存在ムーブ」
意味が分からない。
誰も分からない。
ただ。
男の額には汗が浮かんでいた。
先ほどまで余裕だった存在が。
明らかに焦っている。
⸻
そして男は見た。
零司の背後を。
正確には。
見えてはいけないものを。
そこには誰もいない。
本来なら。
だが男には見えた。
巨大な影。
白い装甲。
禍々しい威圧感。
宇宙そのものを支配しているかのような存在。
その幻影が。
零司の背後に立っていた。
男の顔色が消える。
「ば……」
声が震える。
「馬鹿な……」
少女はその反応を見て笑った。
「見えた?」
男は後退る。
一歩。
また一歩。
完全に恐怖していた。
「あり得ない……」
「あり得ない……!」
そして。
零司は首を傾げながら言った。
「どうしたんです?」
男は叫んだ。
「お前の後ろだ!!」
全員が振り返る。
もちろん誰も見えない。
零司も見えない。
しかし男だけは見えていた。
宇宙の帝王にも似た何かを。
そして。
その幻影は。
ゆっくりと微笑んだ。
男は絶叫する。
完全に心が折れていた。




