第55話 世界のバグ
黒い柱は夜空を貫いていた。
まるで世界そのものに突き刺さった傷跡のようだった。
その中心で。
巨大な影が蠢いている。
騎士たちは顔面蒼白だった。
呼吸すら苦しい。
見ているだけで頭痛がする。
セリナも額を押さえていた。
「魔力じゃない……」
「こんなの知らない……」
ボルグも盾を握り締める。
歴戦のAランク冒険者。
それでも足が震えていた。
そして。
ガルドは剣を抜いていた。
王国最強。
その男ですら表情は険しい。
「最悪だな」
小さく呟く。
今まで何度も封鎖区域を調査してきた。
だが。
こんな反応は初めてだった。
本能が告げている。
あれは危険だと。
絶対に近付いてはいけないと。
⸻
しかし。
零司だけは違った。
「やっぱり」
不思議そうに呟く。
全員が振り返る。
「見たことあります」
少女が頭を抱えた。
「だと思ったよ……」
嫌そうだった。
非常に嫌そうだった。
ガルドも眉をひそめる。
「どこでだ」
「分かりません」
零司は首を傾げる。
「夢だった気がします」
その瞬間。
少女が空を見上げた。
完全に諦めた顔だった。
「やっぱり覚えてるじゃん」
「?」
「いや、何でもない」
絶対に何でもなくなかった。
⸻
黒い柱の中から何かが這い出してくる。
人型。
しかし人ではない。
全身が黒い靄で構成されている。
顔もない。
目もない。
口もない。
それなのに。
全員が感じた。
見られている。
と。
騎士の一人が膝をつく。
「うっ……」
吐血。
もう一人も倒れる。
セリナが叫んだ。
「視線を合わせるな!」
しかし遅い。
精神が削られていく。
存在そのものが異常だった。
⸻
その時。
黒い影が零司を見た。
正確には。
零司の方へ顔を向けた。
そして。
固まった。
全員が固まる。
影も固まる。
零司も固まる。
何とも言えない空気が流れる。
数秒後。
黒い影が一歩後ろへ下がった。
「……?」
ガルドが目を細める。
影はさらに下がる。
明らかに警戒していた。
まるで。
天敵を見つけた獣のように。
⸻
少女は遠い目をしていた。
「あーあ」
「どうしたんです?」
零司が聞く。
「終わった」
少女は即答した。
「何がです?」
「向こうが」
意味が分からない。
しかし次の瞬間。
黒い影が突然叫び始めた。
声はない。
なのに叫んでいると分かる。
空間が歪む。
木々が揺れる。
騎士たちが耳を塞ぐ。
ガルドも顔をしかめる。
そして。
黒い影は。
逃げた。
全力で。
黒い柱の中へ。
物凄い勢いで。
振り返りもせず。
ただひたすら。
逃げた。
⸻
沈黙。
誰も喋らない。
何が起きたのか理解できない。
王国最強のガルドが警戒していた存在。
封鎖区域の元凶。
それが。
逃げた。
零司を見た瞬間に。
ガルドがゆっくり零司を見る。
セリナも見る。
ボルグも見る。
騎士たちも見る。
零司だけが困惑していた。
「何だったんでしょう」
本当に分からないらしい。
少女は盛大にため息を吐いた。
「だから言ったじゃん」
「何をです?」
「五十三万さんだって」
零司は首を傾げる。
意味が分からない。
だが。
その数字を聞く度に。
なぜか妙に気分が良くなる。
理由は分からない。
本当に分からない。
⸻
すると突然。
少女が吹き出した。
肩を震わせながら笑い始める。
「ふふっ……」
「?」
「だめだ」
「何がです?」
「思い出した」
少女は笑いを堪えながら言う。
「昔の君」
「昔の僕?」
「うん」
少女は真似をするように顎へ手を当てた。
そして。
妙に堂に入った口調で言った。
「参考までにお伝えしておきますが」
零司が固まる。
周囲も固まる。
少女はさらに続ける。
「私の戦闘力は五十三万です」
沈黙。
ガルドが顔を覆う。
セリナが吹き出す。
ボルグが肩を震わせる。
なぜか分からない。
意味も分からない。
だが。
妙に面白かった。
そして零司自身も。
なぜか少しだけ恥ずかしくなった。
「僕……そんなこと言いました?」
「何回も」
少女が即答する。
「それはちょっと嫌ですね」
真顔だった。
少女はついに大笑いした。
「全然変わってないじゃん!」
封鎖区域に初めて笑い声が響く。
だが。
その笑いの裏で。
黒い柱はまだ消えていなかった。
そして柱の奥では。
別の何かが目を覚まそうとしていた。
今度は逃げない。
今度は。
零司を知っている。
そんな予感だけが。
静かに広がっていた。




