第33話 常識が死ぬ瞬間
第33話 常識が死ぬ瞬間
ベヒモスは確かに死んでいた。
それはアレス自身が確認している。心臓は停止し、脳も破壊されていた。生物として生き返る余地など存在しない。だからこそ、目の前で再び立ち上がった巨大な魔獣の姿は、宮廷魔導師団副団長である彼の知識を根底から揺るがしていた。
金色の紋様が全身を走るたびに、ベヒモスの身体から不気味な魔力が漏れ出している。それは生命の魔力ではなかった。何か別の力によって無理やり動かされている操り人形のような異質さを感じさせた。
「後退しろ!」
アレスが叫ぶ。
さすがにこの状況では悠長なことは言っていられない。
騎士たちが住民を誘導し、兵士たちも慌てて距離を取る。先ほどまで見物していた貴族たちは顔面蒼白で逃げ出していた。
レオハルトも動けずにいた一人だった。
目の前で起きている出来事が現実とは思えない。
ようやく終わったと思った災害が再び動き出したのだ。
しかも今度は何かがおかしい。
生物らしさがない。
狂気だけで動いているように見える。
ベヒモスは大きく頭を持ち上げると、周囲を見回した。そして次の瞬間、近くの建物へ向かって突進を開始した。
「まずい!」
アレスが反射的に魔法陣を展開する。
王都でも屈指の天才魔導師と呼ばれるだけあり、詠唱は一瞬だった。
「雷槍群!」
十数本の雷の槍が空中に現れ、一斉にベヒモスへ降り注ぐ。
轟音が響く。
土煙が舞い上がる。
周囲から歓声が上がりかけた。
しかし、その歓声はすぐに消えた。
煙の中から現れたベヒモスは止まっていなかった。
皮膚が少し焦げているだけで、ほぼ無傷だったのである。
「なっ……」
アレスの顔色が変わる。
王国でも上位の攻撃魔法だ。
普通の魔物なら跡形も残らない。
それが効いていない。
ベヒモスは咆哮を上げながら前進を続ける。
周囲の兵士たちの顔から血の気が引いた。
「副団長の魔法が……」
「効いてない……」
絶望が広がる。
アレスは歯を食いしばった。
認めたくなかったが、現実は残酷だった。
自分では止められない。
そう理解した瞬間だった。
隣から穏やかな声が聞こえた。
「大丈夫ですよ」
振り向く。
そこには零司がいた。
相変わらず緊張感の欠片もない。
散歩の途中のような顔だった。
アレスは思わず怒鳴る。
「何が大丈夫だ!」
「いや、倒せるので」
「だからお前は!」
そこまで言いかけて止まる。
零司が右手を上げたからだ。
その瞬間、グラッドが深いため息を吐いた。
「終わったな」
「何がだ!」
「ベヒモスが」
オルフェンも無言で頷く。
もう見慣れた光景だった。
むしろ可哀想になってくる。
アレスだけが理解できていなかった。
だが次の瞬間、その意味を知ることになる。
零司の指先に黒い光が集まる。
魔力反応はない。
詠唱もない。
理論も分からない。
なのに本能が警鐘を鳴らした。
危険だと。
見てはいけないものを見ていると。
そしてその時だった。
アレスの視界が揺らいだ。
一瞬だけ。
本当に一瞬だけ。
彼は別の光景を見た。
黄金の玉座。
果てしなく広がる星々。
その中心で頬杖をつきながら、全てを見下ろしている存在。
小柄な身体。
絶対的な威圧感。
まるで宇宙そのものを支配している王だった。
「っ!?」
アレスは思わず後退した。
心臓が激しく脈打つ。
冷や汗が流れる。
何を見たのか分からない。
分からないのに恐ろしかった。
隣を見ると、グラッドは遠い目をしていた。
「見えたか」
「な、何だあれは……」
「知らん」
グラッドは即答した。
「俺も聞きたい」
その会話を聞いていたオルフェンも青い顔で頷く。
どうやら自分だけではないらしい。
だが考える暇はなかった。
零司が呟いたからだ。
「デスビーム」
黒い光が走った。
本当に一瞬だった。
誰も反応できない。
誰も目で追えない。
ただ一直線に伸びた黒い閃光が、ベヒモスの頭部を貫いた。
次の瞬間。
ベヒモスの身体が停止する。
咆哮も止まる。
足も止まる。
そして全身を走っていた金色の紋様が音もなく砕け散った。
パリン――。
まるでガラスが割れるような音だった。
金色の光は粒子となって消えていく。
そして。
ドォォォォォォン!!
巨大な身体が再び地面へ倒れ込んだ。
今度こそ完全に沈黙した。
誰も動かない。
誰も声を出さない。
沈黙だけが広がる。
やがて。
「……終わったのか?」
誰かが呟いた。
その一言をきっかけに、王都中がざわめき始める。
生きている。
助かった。
本当に終わった。
歓声が上がり始めた。
兵士たちは座り込み、住民たちは泣きながら抱き合う。
騎士たちも安堵の息を漏らしていた。
その中心で、アレスだけは立ち尽くしていた。
目の前にはFランク冒険者。
先ほどまで自分が否定していた男。
そしてその男は、自分が全力でも傷一つ付けられなかった怪物を、二度も一撃で倒してみせた。
言い訳はもうできない。
見間違いでもない。
偶然でもない。
現実だった。
アレスはゆっくりと零司を見る。
零司は倒れたベヒモスを見ながら首を傾げていた。
「今度はちゃんと倒せたみたいですね」
その言葉を聞いた瞬間、アレスは頭を抱えたくなった。
自分が人生を懸けて積み上げてきた常識が、たった数分で粉々になっていたからだ。
そして誰にも気付かれない場所で、砕け散った金色の紋様の欠片が空へ舞い上がる。その欠片は意思を持つかのように王都の中心部へ飛び去っていった。
まるで。
「面白いものを見つけた」
そう誰かが笑っているかのように。




