第29話 では行ってきます
王都の東地区で暴れ回るベヒモスの姿は、正門からでもはっきり確認できた。
巨大だった。
普通の魔物とは比較にならない。
分厚い皮膚は鋼鉄より硬いと言われ、巨大な四肢は建物を紙のように踏み潰す。実際、遠くで何棟もの建物が崩れ落ちるのが見えた。
その度に人々の悲鳴が響く。
兵士たちは青ざめ、門番たちは呆然としていた。
騎士団の到着まで三十分。
だが誰の目にも分かる。
三十分も保たない。
今この瞬間にも被害は広がっているのだ。
レオハルトは拳を握り締めた。
自分の屋敷は進行方向にある。
父も母も、使用人たちも残っている。
助けに行きたい。
だが行ったところで何もできない。
それが分かるから余計に苦しかった。
「くそっ……」
歯を食いしばる。
生まれて初めて味わう無力感だった。
⸻
そんな中。
零司は相変わらずベヒモスを眺めていた。
「思ったより大きいですね」
「だから言っただろう」
グラッドが疲れた声で答える。
「ワイバーンより大きいです」
「比べる相手がおかしいんだよ」
周囲の兵士たちが思わず頷いた。
だが、そのやり取りを聞いていた門番たちは鼻で笑う。
「何を呑気なことを」
「Fランクが」
「見てるだけなら誰でもできる」
つい先ほどまで零司を見下していた連中だ。
もちろんブラックワイバーンの件も、魔物二百体の件も知らない。
だからこそ平然とそんなことが言えた。
グラッドは何も言わなかった。
止める気もない。
どうせ数分後には黙る。
経験上、それが一番早い。
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オルフェンはそんな周囲の様子を眺めながら考えていた。
研究者としての好奇心。
そして恐怖。
両方が入り混じっている。
もし零司が本当にベヒモスを倒したらどうなる。
王国の常識がまた一つ崩れる。
いや、もう崩壊している気もする。
「零司君」
「はい」
「本当に行くのかね」
零司は当然のように頷いた。
「人が困ってますから」
その返答はあまりにも自然だった。
英雄らしい言葉でもない。
使命感でもない。
ただ目の前で困っている人がいるから助ける。
それだけだった。
オルフェンは思わず苦笑する。
だからこそ厄介なのだ。
この青年は自分の異常さを理解していない。
⸻
その時だった。
レオハルトが前へ出る。
「待て」
零司が振り返る。
レオハルトの表情は複雑だった。
焦り。
怒り。
不安。
様々な感情が入り混じっている。
「お前……本当に行くつもりなのか」
「はい」
「相手はベヒモスだぞ」
「そうみたいですね」
会話が噛み合わない。
いや、噛み合っているのに成立していない。
レオハルトは苛立ちを隠せなかった。
「死ぬぞ!」
零司は少しだけ考えた。
そして真面目に答える。
「たぶん大丈夫です」
「だからその自信は何なんだ!」
叫び声が響く。
周囲の人間も同じ気持ちだった。
普通なら恐怖する。
逃げ出してもおかしくない。
なのに零司は薬草採取に行くような顔をしている。
その姿が理解できなかった。
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するとグラッドが肩を竦める。
「まあ、見てろ」
「何?」
「たぶん五分後には分かる」
レオハルトは意味が分からなかった。
だがグラッドも護衛騎士たちも妙に落ち着いている。
それが逆に不気味だった。
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零司は城門の外へ歩き出した。
誰も止めない。
いや、止められない。
妙な確信があった。
この男なら何とかしてしまうのではないか。
そんな馬鹿げた期待が生まれていた。
そして歩きながら、零司はふと思い出したように振り返る。
「グラッドさん」
「ん?」
「さあ行きますよ。グラッドさん、オルフェンさん」
空気が止まった。
オルフェンの眉がぴくりと動く。
グラッドは頭を抱えた。
まただ。
時々出る謎の言葉。
本人は何も考えていない。
だがなぜか背筋が寒くなる。
「俺は行かねぇよ」
「そうですか」
零司は少し残念そうだった。
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そして再び東地区へ向き直る。
遠くではベヒモスが建物を踏み潰していた。
巨大な咆哮が王都全体を震わせる。
人々は逃げ惑う。
兵士たちは避難誘導に追われている。
絶望的な光景だった。
しかし。
零司はただ歩く。
焦ることもなく。
恐れることもなく。
まるで散歩でもするような足取りで。
その背中を見た瞬間だった。
グラッドの視界が揺らぐ。
また見えた。
黄金の玉座。
星々の海。
宇宙を見下ろす絶対者。
退屈そうに頬杖をつきながら、地上の騒ぎを眺めている存在。
「……勘弁してくれ」
思わず呟く。
隣のオルフェンも青い顔をしていた。
どうやら見えているらしい。
「またですか……」
「ああ」
「今度は前より鮮明でした」
「俺もだ」
二人は顔を見合わせる。
そして同時に思った。
ベヒモスの心配をしている場合ではない。
心配するべきは。
これからベヒモスと遭遇する方だった。




