第9話 学園生活の始まり②
「ご、ごきげんよう、殿下」
シルヴィはスカートの裾を優雅につまみ、淑やかに一礼した。
大勢の貴族令嬢がひしめく中でも、シルヴィの美貌はひときわ目を引いた。
だが、その指先だけがかすかに震えていた。
俺は内心で首を傾げた。
(ああ、さっき俺が他の令嬢たちを威圧したのを見たせいか)
おそらくシルヴィは、俺のことを都合のいいバカ王子程度にしか見ていないのだろう。
だが、たとえそう見えても、一線を越えれば容赦なく牙を剥く。
先ほど、カトリーヌを責め立てていた令嬢たちを俺が叱ったのを見て、そう察したのだろう。
いくらバカに見えても、持っている権力は本物だ。
うかつに触れれば危ない――そう警戒したに違いない。
(とはいえ、一応はメロメロになっているように振る舞わないとな)
どうやらカトリーヌは、俺の態度を盛大に勘違いしたらしい。
俺は別にツンデレでも何でもないのに……。
その誤解を解くには、こちらからシルヴィに、もう少しあからさまに距離を詰める必要がある。
「今日もお美しいですね、シルヴィ嬢。まだ新学期前だというのに、もう制服をお召しなのですね」
「あ、は、はい……。ちょうど今日受け取ったので、袖を通してみました」
「ええ、とてもお似合いです。これまで見た中で、これほど制服を着こなす令嬢はシルヴィ嬢をおいて他にいません」
「あ、ありがとうございます」
自分で言っておいて、さすがに大げさすぎたとは思う。
だが、これくらい言わなければ、周囲にもシルヴィ本人にも、俺が夢中だと信じてもらえないだろう。
なにせここは、悪役令嬢ものの世界なのだから。
「シルヴィ嬢、本日は何かご予定がおありですか」
「いえ、特には……」
「でしたら、今日も一緒に食事はいかがですか」
「しょ、食事……!」
シルヴィはごくりと唾を飲み込んだ。
もしかして、本当に食べるのが好きなのか?
それともやはり天然アピールか?
いずれにせよ、これだけわかりやすく餌を撒かれたら、釣られてあげるのが人情ってものだろ。
俺は小さく笑いながら言った。
「もちろん、心ゆくまで召し上がっていただけるよう用意させます。ご希望はありますか」
「わ、私が希望を口にしてもよろしいのですか?」
「ええ。シルヴィ嬢のためのお席ですから」
「で、では――」
シルヴィは料理の名を矢継ぎ早に並べ立てた。
鹿肉のシチュー、豆のピューレ、兎肉のグレイビーソース添え、ヤツメウナギのガランティーヌ、牡蠣のブルーエ、果てはコンポートまで。
聞き慣れない料理名が、彼女の口から次々と飛び出した。
俺が黙って聞いていると、シルヴィはハッと口をつぐみ、肩をすくめた。
「も、申し訳ございません! いくらなんでも言い過ぎましたよね……」
「構いませんよ」
俺は従者に視線を向けた。
「当然、用意できるな?」
「もちろんでございます」
すると、シルヴィの目が一段と輝いた。
……本当に、ただ食べるのが好きなだけなのか?
まあ、本物の悪女なのだから、強欲なくらいが当然か。
「その代わり、一つお願いが――」
「ひぃっ!? お、お願い!?」
「……シルヴィ嬢?」
「い、いえ! なんでもありません!」
さっきからその悲鳴は何なんだ。
「な、なんでしょうか?」
「これから一緒に寮へ向かいませんか。料理ができるまで、コーヒーでもいかがですか」
「こ、コーヒー! もしかしてあの高価なエスプレッソですか!?」
シルヴィの瞳が、またしてもぎらりと光った。
「え、ええ、そうですが……」
従者が当たり前のように淹れていたものだから、てっきりありふれた飲み物だと思っていたが、どうやらそうでもないらしい。
豆自体が高いのかもしれない。
とにかく、これほど喜んでくれるなら俺としても悪くない。
何より、本当の頼みは別にある。
「シルヴィ嬢、髪に埃がついていますよ」
「え? そ、そうでしょうか? どこですか?」
「じっとしていてください。私が取ってあげましょう」
俺は少し腰をかがめ、彼女の髪にそっと顔を寄せた。
すると、周囲の令嬢たちがひそひそと囁き始めた。
「きゃあ、本当みたいね! 殿下がシルヴィ嬢をお気に召しているって!」
「羨ましい! 私も殿下にあんなことされたい!」
「ああ、やっぱりシルヴィ嬢みたいに綺麗じゃないと無理よね……」
「くっ、たかが男爵令嬢のくせに」
よし、ひとまず第一目標は達成だ。
俺とシルヴィがただならぬ仲だという噂を、学園中に広めること。
次は第二、第三だ。
俺はシルヴィの耳元に口を寄せた。
「実は、寮がどこにあるのか思い出せないのです」
「え……?」
「落馬の後遺症で、記憶が少し混乱していて。どうか助けていただけませんか」
「は、はい、もちろん」
第二目標は、シルヴィに寮まで案内してもらうこと。
すでにシルヴィは俺より先に来ていたのだから、知っているはずだ。
そして第三の狙いは、秘密を共有することだ。
前世でサラリーマンをしていた頃、営業術やラポール形成の本で読んだことがある。
適度に弱みをさらけ出すと、相手に親近感を抱かせる効果があるらしい。
(それに、シルヴィが俺のこの弱点を利用しようとするはずだ)
悪女なのだから、俺を攻略する方法をあれこれと模索していたことだろう。
なら、いっそこちらから隙を見せてやれば、相手の出方も読みやすくなるはずだ。
その上、宮殿ではすでに何度も使った言い訳だ。
多少知れ渡ったところで、大した痛手にはなるまい。
彼女の髪をさっと払うふりをしてから、俺は身を起こした。
「ではシルヴィ嬢、これからよろしくお願いします」
「はい、こちらこそよろしくお願いいたします、殿下」
「それでは行きましょうか」
「はい」
シルヴィが先頭に立って歩き出した。
このまま彼女に案内してもらって、寮へ向かえばいい。
そう思った矢先、背後から女たちのひそひそ声が届いた。
「あらあら。いくら殿下のお気に召したからといって、殿下の前を歩くなんて。何様のつもりかしら」
「所詮は男爵家ということですね」
シルヴィの肩がびくりと揺れ、「し、失礼しました」と小さく詫びて、俺の隣に並んだ。
だが、女たちの悪口はなおも続いた。
「あらあら、自分が殿下と同格だとでも思っているのかしら? 犬だって序列をわきまえているのに」
「まともな教育を受けていないせいでしょうね。男爵家ですから」
とうとうシルヴィは、俺の背後へ身を隠すように下がった。
「あらあら、殿下の後ろに隠れましたわ。いけしゃあしゃあと殿下の庇護を受けるつもりかしら?」
「本当ですわ。おこがましくも殿下を盾にするなんて、身の程知らずにもほどがありますわね」
……いや、一体どうしろって言うんだよ。
むしろ、俺のほうが腹立たしくなってきた。
俺がばっと振り返り、冷ややかに周囲を睨みつけると、令嬢たちはようやく口をつぐんだ。
(俺がただの火遊びでシルヴィを選んだとでも思っているのか)
正直、ここまであからさまにシルヴィをこき下ろすとは思わなかった。
さっきカトリーヌの件で警告したばかりだというのに、シルヴィは身分が低く、まだ聖女でもないから、何を言ってもいいと思っているのだろうか。
もしかすると、原作のパトリックも、こういうか弱さに保護欲をくすぐられたのだろうか。
(なら、こちらも少し露骨なくらいにシルヴィを庇ってやるか)
断罪イベントは、カトリーヌがシルヴィをいじめたと糾弾されてこそ起こる。
加害者はあくまでカトリーヌ一派でなければならない。
こんな有象無象に先を越されては、大義名分が揺らぐ。
「シルヴィ嬢」
「は、はい……?」
俺はあえて柔らかく微笑み、腕を差し出した。
その意味をすぐに察したのだろう。シルヴィの体がびくりと跳ねた。
やがて彼女は再び俺の隣に並び、そっと腕に手を添えた。
「シルヴィ嬢、もし不当な扱いを受けたなら、遠慮なく私に言ってください」
「は、はい……」
俺の腕に添えられた彼女の手は、小刻みに震えていた。
やはり大したものだ。
ここまで見事に、か弱いヒロインを演じ切るとは。
こういうところは、俺も見習うべきだな。




