第10話 学園生活の始まり③
「こちらが殿下の寮でございます」
「……」
シルヴィと共に、豪奢な装飾が施された建物の前に立った。
確かに、ここへ来る途中で男子寮も女子寮も見かけた。
なのに、どれも素通りしてきた。
まさか……。
「もしかして、王族専用ですか?」
「え? もちろんでございます、殿下」
この四階建てを、丸ごと一人で使えと?
いや、使用人もいるから一人というわけではないだろうが。
それでも、俺が思い描いていた寮とはあまりにも違っていた。
本来なら、年の近い弟妹がいれば共に使うのだろう。
あいにくパトリックの妹は二歳年下で、まだ入学前だ。
「もしかして、一般寮でも、貴族の序列で部屋の広さが変わるのですか?」
「え? もちろんでございます、殿下。公爵家や侯爵家の方々はワンフロアをまるごとお使いになります。準男爵家以下の方は相部屋でございます。平民に至っては四人一部屋でございますね」
「……ちなみに、シルヴィ嬢は?」
「私などは辛うじて一人部屋を賜っております。もっとも、他の高貴な方々と比べれば手狭ですけれど。なにしろ学園に使用人を連れ込めるのは伯爵家以上ですから」
この学園、階級差がえげつない。
いや、一応は中世風の階級社会なのだから、当然といえば当然か?
とはいえ、王族としての快適さがこうした格差の上に成り立っていると思うと、少し複雑だった。
そのまま、王族専用の寮へと足を踏み入れた。
内装は、宮殿の一角をそのまま移してきたかのようだった。
「う、うわぁ……。すごいです……」
シルヴィはきょろきょろと周りを見回した。
どうしても自分の寮と比べてしまうのだろう。
ここは事実上、学園内の小さな宮殿に等しい。
従者に先導され、寮のバルコニーへ出た。
そこには小ぶりなティーテーブルと椅子が置かれ、庭園を一望できた。
「綺麗……!」
シルヴィはぱっと表情を輝かせ、庭園へ視線を走らせた。
こういう時のシルヴィは、たまらなく無邪気に見える。
はっ。原作のパトリックも、こうしてシルヴィに魅せられていったのか。
恐るべし、シルヴィ。
「食事の後、軽く庭園を散策しましょうか」
「え? よ、よろしいのですか?」
「もちろんです。むしろ、自慢の庭園をシルヴィ嬢にご覧いただけるなら、こちらこそ光栄ですよ」
「そ、そんな……」
まあ、別に俺の庭園ってわけでもないが。
スキャンダルは密室より人目のつく場所でこそ広まる。
もう少し押してみるか。
「シルヴィ嬢、いつでも気兼ねなく私の寮へいらしてください」
「え、ええ……?」
俺は従者へ顔を向けた。
「聞いたな?」
「はい。庭園と応接室につきましては、シルヴィ様をいつでもお通しできるよう、各所に申し伝えておきます」
「うむ」
どうせこの広い寮に、俺一人きりというわけでもないしな。
それに原作のシルヴィなら、遠慮どころか我が物顔で出入りするはずだ。
念のため付け加えた。
「もちろん、シルヴィ嬢の負担にならなければ、ですが」
「ふ、負担になるはずがありません! 殿下のお心遣い、本当に何から何まで感謝するばかりです!」
やっぱり、プレッシャーを感じたりはしないんだな。
こうでなくちゃ、俺もシルヴィと気楽に接することができない。
これはこれで都合がいい。
向かい合って席に着くと、従者がコーヒーカップを二つ静かに並べた。
そしていつものように、コーヒー豆を両手いっぱいに握りしめ――
「ふんっ!」
エスプレッソ魔法を発動した。
握りしめた拳の隙間から、抽出されたコーヒーがとろりとカップを満たしていく。
魔法自体は見事だ。味も絶品。
なのに、この抽出過程を見せられると、どうにも飲む気が失せるんだよな……。
シルヴィが目を丸くして拍手した。
「す、すごいです。あんなに難しい魔法を、こんなにも簡単に」
「殿下のためとあれば、これしき当然でございます」
「殿下のため……。そ、それなら私ももっと頑張らなきゃいけませんね。で、殿下のた、ために……」
シルヴィはほんのりと頬を染め、恥ずかしそうに顔を背けた。
「な、なんだか暑いですね」
「確かに、春めいてきましたからね」
正直、まったく暑くないんだけど……。
この猫かぶり、いつまで続くのだろうか。
シルヴィの胸の内は、本当のところどうなのだろう。
いつか、彼女の本音を聞ける日が来るのだろうか。
◇◇
食事と庭園の散策を終える頃には、夕日が沈みかけていた。
パトリックは自ら、シルヴィを女子寮の前まで送り届けてくれた。
「ではシルヴィ嬢、また会いましょう」
「はい。本日はありがとうございました」
「とんでもない。むしろ私のほうが感謝していますよ」
彼は小さく微笑むと、静かに立ち去っていった。
その背中が視界から消えるまで、シルヴィは緊張が解けずに見送り続けた。
「ふあぁ……。疲れたぁ……」
シルヴィは膝から力が抜け、その場にへたり込みそうになった。
パトリックは、先日よりさらに積極的になっていた。
しかも、皆が見ている前で腕を掴み、埃を払うと言って顔を寄せられたのだ。
(心臓が持たない……)
もちろんパトリックは、他の貴族の令息と比べてもパッと目を引くほどの美男だった。
そのうえ、王族という絶対的な身分が、まとう空気そのものに滲んでいた。
確かに、胸が高鳴らなかったと言えば嘘になる。
けれど、それ以上に、気が気ではなかった。
(殿下、いったい何を考えてるのかしら)
これまで自分に求愛してきた有力貴族の令息は、数え切れないほどいた。
それは、シモン男爵家が教会派の中核を担う家柄であること、そして何より、シルヴィ自身の美貌ゆえだった。
もっとも、シルヴィはいろいろと口実を作ってはすべて断ってきた。
誰もが、どこかしら自分の望む条件から外れていた。
それに父であるシモン男爵も、難色を示す相手ばかりだった。
(本当に私のことが好きなの?)
先日の宮殿での食事のときもそうだった。
パトリックの眼差しは、これまで出会ってきた男たちのそれとは違っていた。
他の男たちはシルヴィをまるで宝石のように扱い、所有したいという欲望を露わにしていた。
だがパトリックには、そんな欲望が微塵も見えなかった。
いや、むしろあの目は――
(……どうして私のこと、疑ってるみたいに見えるのかしら?)
先に近づいてきたのは、間違いなくパトリックのほうだ。
それなのに彼は、ときおり氷のような冷ややかな視線を向けてくる。
少なくとも、シルヴィ自身を欲している目ではなかった。
(私、おバカだから、こういうのわかんないのよね)
シルヴィは老執事にすがりついて泣きたい気分だった。
しかし、学園に老執事を連れてくることはできない。
沈んだ気持ちのまま、シルヴィは女子寮の扉を開けた。
「え?」
するとエントランスホールには、なぜか大勢の令嬢たちが待ち構えていた。
シルヴィは本能的にまずいと感じ、後ずさろうとした。
しかし――
「シルヴィ様、殿下と二人きりだったって本当ですか!?」
「どうか、話せる範囲で構いませんから、殿下との逢瀬をお聞かせくださいませ!」
「殿下の私的なお姿はいかがでしたか!? やはり普段から素敵なお方なのですか!?」
「ふえぇ……」
同級生だけでなく先輩たちも混ざっていた。
しかもその中には侯爵令嬢だけでなく、昼間自分を嘲っていた令嬢まで紛れていた。
シルヴィは混乱のあまり、目を白黒させた。
(私、これからどうなっちゃうんだろう)
こんな学園生活は望んでいなかったと、シルヴィは密かに嘆いた。




