第7話 公爵令嬢
新学期を間近に控え、寮へ移る準備をしていたときのことだ。
従者が血相を変えて俺の部屋に駆け込んできた。
「殿下、聖女様がお見えになりました」
「……突然? 事前の知らせはなかったはずだが?」
「はい……」
従者の小さなため息が聞こえた。
無意識に漏れたのだろう。
俺と聖女の板挟みになって、すっかり途方に暮れているようだ。
「わかった。私が直々に出迎え――」
だが、その時だった。
「せ、聖女様、いけません! まだ殿下のお許しが――」
「何を言っているの! 私が殿下の妻なのに!!」
バンッ、と扉が開いた。
二人がそのまま部屋へなだれ込んできた。
一人は身をすくめ、おろおろと必死に制止しようとするメイドだった。
そしてもう一人は――
「殿下、あの噂は本当ですか!?」
「……カトリーヌ」
そう。
俺がたまたま読んだ悪役令嬢もののヒロイン。
俺に婚約破棄され、国外追放された末に、真実の愛を見つけて順風満帆の人生を歩む人物。
真の聖女――カトリーヌだった。
(さすがヒロインと言うべきか、シルヴィに引けを取らないくらい可愛いな)
花飾りをあしらった華やかな帽子の下で、柔らかな金髪が波打ち、深い紫の瞳がこちらを見据えている。
肩に羽織った青いコートの合間から覗く純白のドレスが、カトリーヌのしなやかな肢体を優雅に包んでいた。
原作のパトリックがなぜシルヴィに心を移したのか、不思議に思えるほどの美貌だった。
印象の違いだろうか?
シルヴィが可憐で大人しげな顔立ちなら、カトリーヌは気の強さを滲ませた顔立ちをしている。
「はっきりとおっしゃってください! 私という婚約者がいながら、なぜ他の貴族令嬢に、それもたかが男爵令嬢などにお心を移されるのですか!」
どうやら噂はカトリーヌの耳にも届いていたらしい。
まあ、彼女の立場からすれば腹を立てるのも当然のことだ。
だが、まさか事前の約束もなしに乗り込んでくるとは。
(ここで疑いを晴らすわけにはいかない)
婚約破棄の準備はまだ足りない。
それに、原作通り学園内で断罪イベントを起こさなければならないし。
今は、彼女に俺への不信を少しずつ募らせるのが得策だ。
俺はわざと、カトリーヌに冷たく言い放った。
「たかが男爵令嬢、か。カトリーヌ嬢は、身分だけで人を値踏みする性分だったのか?」
「い、いえ、わ、私が失言いたしました」
「しかも、シモン家は我が国にとって欠かすことのできぬ重臣の家柄だ。まさか、その価値すらわからぬとでも?」
「も、申し訳ございません。わ、私の不勉強です」
カトリーヌは意外にも素直に頭を下げた。
もっと反発してくるかと思った。
これでは俺が本物の悪党になった気分だ。
いや、悪党で正解か。
「と、とにかく、その男爵令嬢を殿下がお気に召した理由がまったくわかりません!」
これには正直、俺も答えに窮した。
……シルヴィを選んだ理由など、原作のネット小説に登場する人物だった――ただそれだけだ。
当然、シルヴィが悪女だと知っている俺にとって、好意など欠片もなかった。
「先代の聖女様を思わせる、その美しい容姿に惹かれたのだ」
「え、えっ……?」
自分で言っておきながら、正直穴があったら入りたい気分だった。
先代の聖女とは現王妃。
つまり俺は、シルヴィが母に似ているから好きだと言ったのも同然だ。
「何か不満でも?」
「い、いえ。そ、それほどまでにお美しい方なのですか……。なら、わ、私も先代の聖女様のように着飾ってみます! 仮にも私も聖女なのですから」
さっきからカトリーヌはやけに俺を立てる。
……いや、必死に話を合わせようとしているのか。
婚約者という立場ゆえ、無理にでも話を合わせているのか?
正直、ルロワ公爵の話だけでは、もっと我が強いと思っていたのだが。
(考えてみれば、本来のカトリーヌがどんな人物かは正確には知らないんだよな)
俺が知っているカトリーヌは、あくまで現代日本人としての記憶を取り戻した後の姿でしかない。
つまり、異世界人としてのカトリーヌがどんな人間だったのか、俺の読んだネット小説には描かれていない。
もし噂が誇張にすぎないのだとしたら、少し申し訳ない気もするが……。
(原作通りに進めるためには、俺がクズでいなければならない)
そうすれば彼女は、真の聖女として覚醒し、前世の記憶を取り戻して、魔王国との戦争を防いでくれるはずだ。
たとえ俺が廃位されるとしても、命だけは助かるはずだ。
俺は心を鬼にして、カトリーヌに言い放った。
「聖女? お前が? いったいどこがだ?」
「そ、そんな……だって教会から認められているのですから――」
「聖女とは、この国で唯一治癒魔法を使える者のこと、そうだろう?」
「……はい」
「使えるのか?」
カトリーヌは拳をぎゅっと握り、唇を震わせた。
「……いいえ」
「しかも先日、私が怪我を負った際もお前を呼んだはずだ。だが最後まで姿を見せず、形ばかりの見舞いすら一度もなかった。これが聖女の態度か?」
「そ、それには訳が……」
「訳だと?」
俺はわざと眉をひそめ、カトリーヌを追及した。
「一度聞かせてもらいたいものだな。私の見舞いより大事な用件とやらが、何だったのか」
「くっ……」
カトリーヌは口を固く結んだ。
その様子を見る限り、単なる怠慢や気まぐれで来なかったわけではなさそうだった。
だが、いったい何をしていたのだろう?
「も、申し訳ありません。今後はこのようなことがないようにいたします」
「なに、私も過ぎたことを蒸し返すつもりはない。我々は所詮、親が決めた関係だ」
聖女は王太子に嫁がなければならないという不文律。
そもそも、王家とルロワ公爵家の政略結婚なのだ。
そこに当事者の感情などあるはずがない。
「わ、私はそうは思いません!」
だが、カトリーヌは予想外の反応を見せた。
「わ、私は本気で殿下をお慕いしております」
俺は内心驚いた。
え、マジで?
形式的な関係だから見舞いにも来ないと思っていた。
なら、なぜ来なかった?
(たとえ本当だとしても、ここは悪役らしく)
だが、彼女が好きだったはずの本来のパトリックは、もうここにはいない。
……どうせ原作のパトリックも、結局はカトリーヌを裏切るのだから。
彼女に真実の愛を見つけてもらうためにも、冷たく突き放さなければならない。
俺は鼻で笑い、吐き捨てた。
「口では何とでも言える」
「ち、違います!」
「もう下がるがいい。突然押し掛けてきたこと自体、無礼だとは思わぬか?」
「も、申し訳ございません……」
カトリーヌは膝を震わせ、ぎこちなくカーテシーをして、力なく後ずさった。
すっかり意気消沈している様子だった。
少しやりすぎたかとも思ったが、これくらいでちょうどいい。
彼女が真の聖女として生まれ変わり、俺に復讐するためには。
◇◇
薄暗い自室に戻るなり、カトリーヌは着替えを勧めるメイドたちの声も聞かず、ベッドに倒れ込んだ。
枕に顔を埋め、声を殺してすすり泣いた。
「殿下、ひどい……。こんなに好きなのに……」
王家とルロワ公爵家は近しい間柄で、彼女は幼い頃からたびたび王宮を訪れ、パトリックと長い時間をともにしてきた。
いわゆる幼馴染だった。
彼女の恋心は、いつ芽生えたのか思い出せないほど幼い頃から、胸の奥に息づいていた。
(最初に聖女に選ばれた時は、すごく嬉しかったのに……)
国の宝と称えられる栄誉も、悪い気はしなかった。
だが何より嬉しかったのは、王太子であるパトリックと結婚できると決まったことだった。
それなのにどれだけ練習を重ねても、治癒魔法が発現する気配は一向になかった。
やがて周囲から、果ては父にさえ、疑いの目を向けられるようになった。
――教会が聖女の選定を誤ったのではないか、と。
(殿下がお怪我をされた日も、どうしてもお力になりたくて、治癒魔法の練習に打ち込んでいただけなのに……)
何をやらせても有能なパトリック。
その隣に立つにはあまりに未熟な自分。
二人は、嫌というほど比べられた。
他派閥の令嬢たちは、事あるごとに「殿下とは不釣り合いだ」と彼女を挑発した。
図星を突かれて感情的に反発するうちに、気づけば広まっていたのは、彼女の悪評ばかりだった。
あの落馬事故のときも、「主治医の邪魔になってはいけない」と自分に言い訳をした。
けれど本当は、治癒魔法を使えない不甲斐なさを見せたくなかっただけなのだ。
「何よ、私よりも美しい女性だなんて……!」
ほんの火遊び程度なら構わない。
いや、愛人くらいなら目をつぶるつもりだった。
だが、父から聞かされた。
パトリックが、他の貴族令嬢を伴って総本山への巡礼に赴くつもりだと。
その瞬間、カトリーヌの頭は真っ白になった。
この国では、王侯貴族が巡礼に身分ある女性を伴うことは、事実上、その女性を正妻として扱うのと同じ意味を持つ。
つまり、パトリックが他の貴族令嬢を伴って巡礼へ向かうということは――
「本当に私をお見捨てになるのですか、殿下……?」
これまでずっと、パトリックにふさわしい女になるため、容姿を磨き上げてきた。
王太子妃にふさわしい礼法を身につけてきた。
それなのに、そんな努力ひとつしていない男爵令嬢ごときに、すべてを奪われるなんて。
カトリーヌは枕から顔を上げて叫んだ。
「違う!! 私は絶対に捨てられたりしないわ!!」
その声を聞きつけ、メイドの一人が慌てて扉を開け、部屋に飛び込んできた。
「ど、どうかなさいましたか、お嬢様……?」
メイドが手のひらに魔法の光球を灯す。
闇が退くと、部屋の光景が露わになった。
壁も天井も、隅から隅までパトリックの肖像画で埋め尽くされていた。
「私は殿下の妻になるために生まれてきたのよ!! 愛していますわ、殿下!!」
カトリーヌはベッドの上に座り込み、天井にまで飾られたパトリックの肖像画へ、恍惚とした眼差しを向けていた。
それを見たメイドは、深いため息をついた。
「お嬢様、また始まっちゃったわね……」




