第5話 男爵令嬢②
老執事は甲斐甲斐しく、シルヴィの涙を拭っていた。
シルヴィは鼻をすすりながら、パトリック王太子との一部始終を老執事にぶちまけた。
「ほう、それはまた……。殿下はお嬢様をいたくお気に召されたようですな」
「な、なんで!?」
「それはもう、お嬢様がお美しいからに他なりません。殿下がお気に召されるのも道理でございましょう」
「わ、私より綺麗な方なんていくらでもいるのに!?」
今日のあの振る舞いが何を意味していたのか、シルヴィにはさっぱりわからなかった。
王太子はもちろん、王家の誰とも面識すらなかった。
宮殿を訪れたのも今回が初めてだった。
「それに、殿下にはもう婚約者がいらっしゃるでしょう?確かルロワ公爵家のご令嬢……」
「はい、カトリーヌ様だと伺っております」
「だったら、なんでわざわざ誤解されるようなことをするのよ!?」
二人きりの食事。
だが、密会と呼ぶにはほど遠い。
使用人たちは堂々と部屋に控えていた。
おまけに正式な招待状まで届き、訪問記録もしっかり残っている。
婚約者のいる王太子が、ほかの令嬢に目をかけた。
そんな噂が広まるには、あまりに条件が揃いすぎていた。
「わ、私、カトリーヌ様に睨まれるんじゃ……!聞いたことあるんだから。一度目をつけられたら、再起不能になるまで徹底的に潰すって……!!」
「ふむ……。確かに、そこは懸念すべき点ですな。じきに学園で、先輩後輩として顔を合わせることにもなりますからな」
「でしょ!? 私、これからどうすればいいの!? 学園で素敵な殿方を見つけて玉の輿に乗るっていう、私の夢はこれで潰えるってこと!?」
シルヴィの実家であるシモン家は、元々聖職者の親類が興した家柄だ。
それゆえに教会の教えを重んじ、常に質素倹約を最高の美徳としている。
その結果、贅沢など望むべくもない。
来客でもなければ、食事は平民の商家と変わらぬものしか口にできない。
「私、いい旦那様を見つけて、この世の美味しいものを全部食べたかったのに!!」
シルヴィは幼いころから、そうした教会の教えに馴染めずにいた。
父に叱られたくない一心で、表向きだけ従うふりをしていた。
「ふむ……それではお嬢様、殿下の愛人の座を狙ってみてはいかがですかな」
「え? あ、愛人?」
「はい。王族、それも王太子殿下ほどの身分ともなれば、愛人の一人や二人はいてもおかしくありません」
老執事は、その理屈を一つひとつ説いて聞かせた。
王族本人の精神的な慰めとなるばかりではない。
庶子をもうけておけば、万が一、正妃の子に何かあった際の備えにもなる。
さらに、表立っては口にできない請願や外交の窓口として、愛人を利用できる。
だが、シルヴィはぽかんとしていた。
「じいや、難しいよ……」
「要するに、お嬢様。王族にとって愛人とは、政治的な資産なのです」
「そ、それじゃあ、大事にしてもらえるってこと?」
「もちろんですとも。もっとも、そのためには、それ相応に殿下のお心を掴む必要がございますが」
「で、でもカトリーヌ様がいじめてこないかな……?」
「愛人となれば、嫌がらせを受けた際には殿下にお訴えし、庇っていただくこともできます。それに、常に宮殿へ侍るわけでもございません。学園を卒業すれば、カトリーヌ様と顔を合わせる機会もほとんどなくなるでしょう」
「そ、そっか!」
シルヴィの目が輝いた。
「だったらもう乗りかかった船だし、このまま殿下の愛人を狙うしかないわね!?」
「どうやら、そのようですな。殿下はすでに、学園にてお声がけなさるおつもりと仰せです。無視をすれば、それはそれで厄介になりましょう」
「でも、学園で三年間耐え抜くのが一番の試練ね……」
「そうですな。ですから、いっそ学園でも堂々と殿下のお側にお控えになるのがよろしいかと存じます。いずれにせよ、先に歩み寄られたのは殿下の方なのですから」
今日のパトリックの振る舞いを見るに、彼にはシルヴィを隠す気など毛頭ないようだった。
つまり、少なくともパトリックの寵愛が続くあいだは、周囲にできるのは陰口を叩く程度だ。
表立って危害を加えるのは難しい。
おまけに、ここまで噂が立ってしまえば、平凡な縁談などもう消えたも同然だった。
シルヴィは両拳をぎゅっと握りしめ、決意を口にした。
「私、決めた! 殿下の愛人になって、この世のあらゆる美食を堪能してやるんだから!!」
老執事は、胸の内でそっと願った。
どうか、この天然な一面だけは、王太子殿下に露見しませんように――と。
◇◇
案の定、俺が他の令嬢と二人きりで食事をした噂は、瞬く間に宮殿中へ広まった。
中には「少しはマシになったかと思いきや……」なんて声も聞こえたが、まあ構わない。
俺の評価よりも、俺の生存が最優先だからな。
(もうちょっと露骨にアピールしてみるか)
この噂は、カトリーヌの耳にも少しずつ届くよう仕向けなければならない。
そうしておけば、学園で二人が衝突し、俺がシルヴィの肩を持つたびに、カトリーヌの不満は着実に募っていく。
だが、だからといってやり過ぎも禁物だ。
下手をすれば、国王が直接口を出してきて釘を刺してくるかもしれない。
……浮気ひとつするにも、並大抵の苦労では済まないらしい。
「誰かおらぬか」
「はい」
今日も相変わらず、従者は忍者のように気配なく現れた。
「書記官を呼んでくれ。私信をしたためたいのでな」
「畏まりました」
自分で手紙をしたためようかとも思ったが、私的な手紙でさえ代筆させるのが王宮の儀礼らしい。
何より、俺はこの世界の文字を書けない。
読むことはできても、手に馴染んでいないせいか、どうしてもうまく筆が運べない。
数分も経たないうちに、従者が書記官を一人連れてきた。
「お呼びでしょうか、殿下」
「うむ。すぐに手紙を一通書いてくれ」
「お相手はどちら様でいらっしゃいますか?」
「シルヴィ嬢だ」
従者と書記官は、二人揃って身をこわばらせた。
俺が何を送ろうとしているのか察したのだろう。
それでも書記官はすぐに席につき、便箋とインク、ペンを取り出した。
「いかなる文面にてお書きいたしましょうか?」
「うむ……。まずは、今回の食事に応じてくれたことに、改めて感謝すると書いてくれ」
「はい」
「それから、近いうちにまたお会いしたいともな」
「はい」
「あと、そうだな」
ここからが核心だ。
「次の機会には、私が直々にシモン領を訪ねたい、とも」
「「……!」」
従者も書記官も、目を丸くした。
俺――王太子自ら足を運ぶとなれば、間違いなく政治的意図ありと受け取られるだろう。
特に、俺がシルヴィを気に入っているという噂が広まりつつある今なら、婚姻の話を進めるために赴くのだと解釈される可能性が高い。
実際に行くか行かないかに関わらず、だ。
すべては俺の思惑通りだ。
(実際、教会にも根回ししておかなきゃならないしな)
シモン男爵なら、その仲介役としてうまく立ち回ってくれるだろう。
◇◇
「お、お父様!」
蝋燭一本だけが灯るシモン男爵家の執務室。
そこへ、血相を変えたシルヴィが、一通の手紙を握りしめて飛び込んできた。
「どうしたのだ。行儀が悪い」
「も、申し訳ございません! でも、ただ事ではなくて……」
「ただ事じゃないだと?」
シモン男爵は、娘から手紙を受け取った。
そして、シルヴィがなぜこれほど慌てふためいているのか、即座に悟った。
「王太子殿下……?」
男爵は生唾を飲み込み、恐る恐る封筒を開けた。
中には、三枚の便箋が収められていた。
前半に綴られていたのは、ありふれた社交辞令にすぎなかった。
「……!!」
だが、問題は最後の一枚だった。
そこには、信じられない一文がはっきりと記されていた。
――次の機会には、直々にシモン男爵領を訪ねたい、と。
「ま、まさか……」
シモン男爵の手が微かに震えた。
近ごろ、王宮がシモン家の内情を探っているという話は、男爵の耳にも入っていた。
そして先日、シルヴィは王太子から食事に招かれた。
「お父様、どういう意図なのでしょうか……?」
「これは、単なる恋文などではない……。シルヴィ、よく聞きなさい。お前は何も知らなかった。そういうことにするのだ」
「え? お、お父様?」
「お前が本当に殿下のお気に召したのなら、できる限り可愛がっていただけるよう努めなさい」
「きゅ、急に何なのですか?」
シモン男爵の喉仏が、何度も小さく上下した。
「試されているのだ。王家への忠誠を……!!」




