第3話 根回し②
扉に大きな紋章があしらわれた馬車の中。
ルロワ公爵は頬杖をついたまま、小窓越しに見える宮殿を見つめていた。
ローブに身を包み、身なりの整った老人が向かいの席から静かに声をかけてきた。
「王太子殿下と何かございましたか?」
「あったといえばあったし、なかったといえばなかったが……」
ルロワ公爵は目を細めた。
「まるで人が変わったようだった」
「と、おっしゃいますと?」
「殿下はな、学問も魔法も、怠りなく励まれる方だ。だが……」
「ご自身の才を過信なさるあまり、政務には疎いと常々仰っておりましたね」
「ああ。国政とは、個人の才覚だけでどうにかなるものではない。年若さゆえの不器用さだろうと、大目に見ていたのだがな」
今日のパトリックは、まさに別人だった。
言葉の端々からはいつもの傲慢さが消え、代わりに礼節がにじんでいた。
こちらに敬意を払おうという意思が、公爵にもはっきり伝わってきた。
「殿下が根回しをなさること自体が珍しい」
「……確か以前は、大半が事後報告だったと仰っていましたね」
「そうだ。だからこそ、私をはじめ、陛下や他の貴族たちがその後始末にどれほど骨を折ったことか」
落馬の事故で記憶に乱れが生じていると聞いていた。
だが、それだけで人の性格がこうも変わるものだろうか。
公爵は怪訝そうに首を傾げた。
「だとすれば、理由はさておき、良い変化ではございませんか?」
「そうだな。今日の件にしても、普段の殿下なら人前で、ところかまわず『カトリーヌとの婚約を破棄する!』と叫んでいたはずだ」
「は……。え? こ、婚約破棄ですか?」
公爵は執事長に、先ほどパトリックから持ちかけられた話をかいつまんで伝えた。
執事長は最初こそ目を丸くしていたが、話が進むにつれて何度も頷いていた。
「差し出がましいようですが……殿下ほどのお立場であれば、お嬢様を正妃に迎えることへ不安を覚えられるのも、無理からぬことかと」
「正直なところ、私は教会の神託に手違いがあったなどとは微塵も思っていない。おそらく殿下もそうお考えだろう」
いくら魔法に長けたパトリックとはいえ、教会の助けなしに新たな聖女を探し出すのは至難の業だ。
おそらく、水面下で何か手を打つ腹積もりなのだろう。
執事長が恐る恐る尋ねた。
「では、殿下の真の目的は……?」
「教会を揺さぶることだ」
「……!」
この国の王権と教権は、常に危ういバランスの上に成り立っている。
パトリックが引き合いに出した過去の事例もそうだ。
神託の解釈をめぐる問題に端を発し、王家が主導して教会の権威を失墜させた事件だった。
魔王国との開戦機運が高まるにつれ、教権が王権を上回りつつある――そんな囁きが広がっている。
王太子として、権力基盤を立て直す必要は確かにあった。
「閣下はどのようになさるおつもりですか?」
「まあ、すでに殿下の計画を聞いてしまった以上、今さら手を引くわけにもいかんし……。それに、殿下が新たな約束をしてくださったからな」
「約束、でございますか?」
「新たな聖女の後見権。それに、王女殿下のどなたかとの縁談を陛下へ進言してくださるそうだ」
「……!」
公爵家からすれば、娘が王太子妃――ひいては王妃となれば、得られる発言力も利益も飛躍的に高まる。
しかし、王太子妃は当然ながら王家の一員となる。
実家の利益ばかりを優先すれば、ひとたび王家と対立した途端、一転して不利な立場へ追いやられる。
「カトリーヌが、王妃として果たしてうまく立ち回れると思うか?」
「それは……」
「いっそ安全策を取る。王女殿下を嫁に迎え、我が家に王家の血筋を取り込んだ方がいい」
場合によっては、王位継承権にまで手が届く。
もちろん、あくまでパトリックの口約束に過ぎず、確定事項ではない。
だが、王家としても婚約破棄の負い目がある以上、公爵家の要求をそう簡単に無下にはできないはずだ。
公爵は小さく笑い、言葉を継いだ。
「殿下とは今後も良好な関係を築いておかねばな」
◇◇
公爵との面談を終え、俺は寝室に戻るなりベッドに突っ伏した。
「あー、疲れた……」
初めて大貴族と渡り合い、すっかり神経をすり減らしていた。
前世で営業に駆けずり回っていた頃もきつかったが、正直、今のほうがよほど堪える。
職場なら、ヘマをしても怒られるか、せいぜいクビで済んだ。
だがここでは、一度のミスで首が物理的に飛びかねない。
(ルロワ公爵にはいろいろ約束しちゃったけど……)
王女との縁談だって、所詮は王に進言してみる、というだけの話だ。
それくらいなら王太子の立場でも十分に可能だろう。
問題はやはり、カトリーヌとの婚約破棄だ。
聖女カトリーヌとの婚約破棄など、根拠もなく認められるはずがない。
(早く偽の聖女を仕立て上げないと)
原作では、教会と男爵令嬢が政治的に結託したとしか書かれておらず、具体的な手口までは描かれていなかった。
その過程で王太子がどう関わったのか、あるいはまったく関わっていなかったのかすら、定かではない。
(だからといって、ただ待っているわけにもいかない)
重要なのは、カトリーヌに能力と前世の記憶を思い出させるほどの衝撃を与えることだ。
公爵令嬢を国外追放にまで追い込む以上、相当な大義名分を用意しなければならない。
下手を打てば、逆にカトリーヌに主導権を握られ、俺のほうが政治的に追い詰められる。
その結果、彼女が魔王国へ行かなくなる――そんな最悪の事態だけは避けなければならない。
(何もしなければ、かえって原作から逸れてしまうかもしれない)
すでに俺の意識がパトリックの体に宿っている以上、世界が勝手に原作通り動いてくれるとは限らない。
つまり、俺自身が本来の悪役パトリックのように振る舞ってこそ、物語は原作の軌道に乗るはずなのだ。
俺はひとつ咳払いをして、声をかけた。
「誰かおらぬか」
「はい、殿下」
従者の一人がうつむいたまま、音もなく傍らへ歩み寄った。
一体どこに潜んでいたのかすら分からないほど、彼らは常に影のように控えている。
そのプロ意識の高さに、内心舌を巻いた。
「いくつか尋ねたいことがある」
「はい、何なりと」
「シモン男爵を知っているか?」
「もちろんでございます」
「近頃、シモン男爵にまつわる噂はないか。どんな些細なことでもいい」
原作では男爵令嬢が教会と結託したとされているが、令嬢ひとりというより、男爵自身が裏で糸を引いている可能性が高い。
パトリックとともに辺境へ幽閉されたのも、結局は計画が露見し、男爵に尻尾切りされた結果なのだろう。
「うーむ……」
従者は考え込むように、視線を少し伏せた。
「……ひとつ、ございます。ただ、いささか俗っぽい話ではございますが……」
「構わぬ。申せ」
「はい。男爵には殿下と同年代の娘がお一人おりますが、たいそう気高く、美しいご令嬢だとか」
「ほう……。そんなに美しいのか?」
「直接拝見したわけではございませんゆえ、断言はできません。ですが噂では、先代の聖女様にも匹敵するお美しさだとか」
先代の聖女とは、パトリックの生母――つまり王妃のことだろう。
宮殿の廊下でその肖像画を目にしたことがある。
確かに、息を呑むほどの美貌だった。
もちろん、肖像画には多少の美化があるかもしれないが。
「その男爵令嬢の評判はどうなのだ?」
「領民にも分け隔てなく優しく、驕らず謙虚で、困っている者を見捨てないそうです」
「なるほど」
だが、俺は知っている。
この男爵令嬢こそ、カトリーヌとパトリックを欺く偽りの聖女、真の悪女だということを。
その出来すぎた評判も、したたかな計算と演技で塗り固められたものなのだろう。
「実に興味深いな。その令嬢の名は?」
「シルヴィだと伺っております」
「シルヴィ嬢か……」
間違いない。俺が知る、あの名前だ。
「信頼できる者を使って、シモン男爵家の財政状況、それと教会や他の貴族との接触の有無を、密かに探らせろ」
「はい、畏まりました」
「それから……」
俺はこれから騙されたふりをしなければならない。
まるで浮気に溺れているかのように。
すべては原作通りに進めるためだ。
「シルヴィ嬢に、食事の招待状を送れ」




