第2話 根回し①
その後の一週間は、目が回るほどの忙しさだった。
いや、異世界の王族って、なんでこうも予定が詰まってるんだ。
ありとあらゆる勉強、訓練、社交……。
百歩譲ってほかはまだいいとしても、この世界特有の常識を一から叩き込まれるのがいちばんきつかった。
(でもおかげで、今の自分の置かれた状況は把握できた)
俺は十六歳で、王立学園に通っている。
今は冬休み中で、新学期から二年生になるらしい。
学園は全寮制で、休みが明ければ宮廷を出て、寮へ移ることになる。
(……それにしてもこの王太子、思ったよりスペックが高いな)
いかにも悪役令嬢ものに出てくる王子様らしく、背が高く、同性の俺ですら見惚れるほどの美形だ。
おまけに入学時はぶっちぎりの首席で、その後も一度もトップを譲ったことがないらしい。
問題は、俺に王太子としての記憶がまったくないってことだ。
今は狩りの最中に落馬したことにして切り抜けているが、いつまで誤魔化せるやら……。
(それにしても、ここの文明は妙に便利なんだよな)
もちろん、テレビやスマホみたいな文明の利器があるわけじゃない。
だが、水洗トイレや風呂はもちろん、街の衛生状態まで現代都市と大差ない。
たとえるなら、中世風テーマパークといったところか。
まあ、本当の中世ではなく、一種のご都合主義的な世界観なのだろう。
なぜそんなことが可能なのかと尋ねても、決まって返ってくるのは「魔法の恩恵だ」の一言だけだ。
(魔王国の問題さえどうにか片づけば、悪くない暮らしができそうなんだけど……)
婚約破棄も決して容易ではない。
なにせ相手は公爵家の令嬢であり、教会が認めた聖女なのだから。
やみくもに「婚約破棄だ!」と叫んだところで、話が通るはずもない。
ため息がこぼれかけた、そのときだった。
「殿下」
いつの間にか、従者の一人が傍らに控えていた。
「ルロワ公爵がお見えになりました」
「そうか。すぐに行こう」
「かしこまりました」
王太子らしい口調を身につけるのも簡単ではなかった。
幸い、この世界の言葉は、俺の耳には自動的に日本語として聞こえている。
おかげで、我ながら驚くほど早く順応できた。
それでもまだ完全に板についたとは言えず、ともすれば前世でサラリーマンをしていた頃の口調が顔を出しかける。
寝室を出て、廊下に足を踏み入れた。
……だが、肝心なことを忘れていた。
俺はまだ、この広い宮殿の間取りをすべて覚えきれていない。
そもそも従者というものは、俺の後ろに控えて歩くのが基本らしい。
コホン、とわざとらしくひとつ咳払いをした。
「落馬のせいで、まだ記憶が曖昧でな。公爵は今どちらに?」
「はっ、申し訳ございません。すぐにご案内いたします」
従者が先頭に立つ。
宮殿内を歩くだけでも、気を遣うことは多い。
遅すぎず速すぎず歩き、足音は抑え、視線もむやみに泳がせない。
この一週間、叱られながら叩き込まれた作法だった……。
「こちらでございます」
「うむ」
やがて、一室の前で従者が足を止めた。
公式の謁見の間ではない。
宮殿の規模を思えば、ずいぶんこぢんまりとした一室だった。
おそらく、非公式の密談に使われる部屋なのだろう。
従者が開いた扉の先へ足を踏み入れると、焦げ茶色の髭を蓄えた男が、ソファから立ち上がった。
「お久しぶりでございます、殿下」
「そうですね。いつ以来でしたかな」
「昨年の入学式以来ですから、一年ほどになりますな」
簡単な挨拶を交わした後、俺たちは向かい合ってソファへ腰を下ろした。
すぐに従者が、ワインの入った小さな銀杯を二つと、数種の菓子をテーブルに並べた。
中世風の世界だから食事は不味いだろうと覚悟していたのだが、ここの食べ物は案外いける。
ルロワ公爵はワインを一口飲むと、パチンと指を鳴らした。
目に見えない何かが、陽炎のように揺らめいた。
おそらく、防音の魔法を張ったのだろう。
「それで殿下、娘とのご婚約の件で、改まったお話があるとのことですが……」
そう。今日、俺がわざわざルロワ公爵を呼び出したのには理由がある。
俺の知る原作は婚約破棄から始まる。
事前の根回しなんて、詳しくは描かれていない。
公爵家との婚約破棄なのだから、間違いなく根回しがあったはずなのに。
だから、ここは自分で切り開くしかない。
もちろん、俺という異物が介入した時点で原作とはズレるだろうが、分からないものは仕方ない。
「お忙しい中、こうしてご足労いただき感謝します」
「滅相もございません。殿下のお召しとあれば、いつでも馳せ参じるのが臣下の務めでございます」
「単刀直入に申し上げます。カトリーヌ嬢との婚約を、白紙に戻したいと考えています」
俺の言葉に、ルロワ公爵が目を丸くした。
正直なところ、ここで彼が激怒するものと思っていた。
大切な娘、それも教会公認の聖女との婚約を、俺の側から一方的に白紙に戻そうとしているのだから。
ところが、意外な反応が返ってきた。
「……恐れながら確認させていただきますが、そのお考えは陛下もご存じでいらっしゃるのですか?」
「いいえ。私だけの考えです。正直に申し上げますと、無策のまま陛下に奏上するより、まずは閣下と内々に意見を合わせておきたいと思いまして」
「そうですか。はぁ……」
ルロワ公爵が重いため息をつき、額に手を当てた。
「やはり、こうなりますか。カトリーヌめ、甘やかして育てすぎたせいで、方々で問題を起こして……」
「あの……カトリーヌ嬢について、どこまでご存知なのですか?」
「毎日のように報告が入っております。少しでも気に障ることを言われれば貴族令嬢をいじめるわ、あまつさえ手まで上げるわ……」
意外にも、彼は愚痴をこぼしながら、立て続けにワインをあおった。
彼の話によれば、カトリーヌはまだ言葉も話せない赤ん坊の頃から聖女として認められていたらしい。
国の宝と称される聖女であるがゆえに、誰も厳しく叱れず、周囲は顔色ばかりうかがって腫れ物に触るように扱い続けた。
結局、その悪評は貴族にも平民にも広く知れ渡ってしまった。
「閣下も、ずいぶんとご心労が重なっておられるのですね」
「殿下にご理解いただけるだけでも、本当に救われます」
当の俺は婚約を破棄して、その苦労にさらに上乗せしようとしているわけだが。
「念のため申し上げておきますが、私としても、閣下とは今後も良き関係を保っていきたいと考えております」
「ええ、もちろん存じております。ですが、この婚約には我々だけでなく、教会も深く関わっておりまして……」
「やはり、『聖女は王太子に嫁がせる』という不文律があるからですね」
「左様でございます。聖女の歴史は、すなわち王妃の歴史と言っても過言ではございませんので」
だからこそ、原作の王太子パトリックは、別の男爵令嬢を新たな聖女として担ぎ上げ、教会から婚約破棄の大義名分を取り付けたわけだ。
ルロワ公爵としても、悩みの種だった娘が聖女の座を失い、王太子にまで見捨てられたのだから、積極的に庇おうとはしなかったのだろう。
(それなら、俺も原作通りに進めるべきか)
俺も銀杯に口をつけた。
前世で飲んでいた安物のワインとは、香りも深みもまるで違う。
廃太子の憂き目に遭う前に、心ゆくまで堪能しておかないとな。
「閣下、無礼を承知で申し上げます。カトリーヌ嬢の聖女認定は、王家も教会も今一度見直すべきではないかと考えております」
「え? し、しかし……」
「聖女認定は、あくまで教会の神託によるもの。ですが、その神託とて所詮は神のお告げを教会が解釈したものにすぎません。歴史上、解釈を誤った例もあります。しかも、カトリーヌ嬢は今日に至るまで、一度たりとも治癒魔法を使えていない」
「それはそうですが……」
「万が一、教会の解釈に誤りがあったと判明すれば、我々王家も閣下も面目を失うことになるでしょう」
「おっしゃることは分かりますが、そもそも神託の解釈に誤りがあったなどと、いったいどうやって証明なさるおつもりで……」
聖女とは、この王国で唯一治癒魔法を使える者を意味する。
本来、治癒魔法こそが聖女の存在証明なのだ。
だとするならば――
「私が、ほかに治癒魔法を使える者を探し出します。その者を閣下の後見のもとに置けるよう、私から直々に陛下へ願い出ましょう」




