第1話 王太子転生
俺はごく普通のサラリーマン家庭に生まれ、公立校を出て、どこにでもある中小企業に勤めていた――はずだった。
そう、昨日。
退勤後にスマホを誤タップして、悪役令嬢もののネット小説を開くまでは。
「殿下! ご無事ですか!?」
目が覚めると、そこは見慣れた自室じゃなかった。
見知らぬ森の地面に、俺は倒れていた。
そして、見知らぬ男女が一斉に俺のもとへ駆け寄ってきた。
「王太子殿下! 申し訳ございません、目を離した隙にこのようなことに!」
俺を囲む全員の顔が真っ青になっていた。
いや、それよりも――
「王太子って、私のことですか……?」
「はっ、当然でございます。殿下は王太子でいらっしゃいますが……まさか、落馬の衝撃で記憶を……!?」
周囲の人たちは瞬く間に騒然となった。
俺も状況が呑み込めず、ただ戸惑うしかなかった。
ただ、事態がまずい方へ転がり出したことだけは、はっきりわかった。
地面から身を起こし、土埃を払いながら、俺は無理に笑みを浮かべた。
「い、いえ。大丈夫です。ご心配をおかけして申し訳ありません」
「し、しかし、額から血が……」
「え? 血?」
俺は額を手の甲でぬぐった。
見ると、手の甲には真っ赤な血がべったりとついていた。
それを見た途端、周囲の人たちが息をのんだ。
「は、早く主治医と聖女様を呼んでこい!! 狩りは中止だ!! 王太子殿下の手当てが最優先だ!!」
「い、いやそこまでじゃ――」
真っ青な顔で怒鳴る中年男を、俺は慌てて押しとどめようとした。
だが次の瞬間、激しいめまいに襲われた。
視界がみるみる暗転し、足から力が抜けた――俺はそのまま崩れ落ちた。
◇
目を覚まして最初に視界へ飛び込んできたのは、やたらと大きなベッドだった。
広いだけで、まるで落ち着かない。
上半身を起こして、ようやく周囲に人が控えていることに気づいた。
「「殿下!」」
さっきの中年男はいない。
控えているのは、見覚えのない人ばかりだった。
ここはどこで、目の前の連中は誰なんだ。
「お加減はいかがですか? どこか痛むところはございませんか?」
「い、いえ、特には……」
「左様でございますか……何よりです。それにしても聖女様は、ついぞお見えになりませんな。治癒ひとつ満足に使えぬお方を聖女に据えるとは、教会も何を考えているのやら。婚約者が怪我をされたというのに、見舞いにも参られぬとは……」
その言葉を、別の男が鋭く遮った。
「こら、言葉を慎まんか! ああ見えてもルロワ公爵家のご令嬢だぞ!」
「コホン、これは失礼を」
俺は『ルロワ公爵家』という言葉に、はっとした。
聞き覚えがあった。
そう、昨日たまたま誤タップで開いた悪役令嬢もののネット小説――そのヒロインの生家だ。
(まさか、俺は……)
嫌な予感がした。
口の中がからからに乾いた。
俺は目の前にいる二人の男に、声を潜めて尋ねた。
「あの……もしかして私の名前って……パトリック、ですか?」
「え? は、はい、そうですが……。もしや殿下、未だに記憶に混乱が……?」
「そう言われてみれば、口調もいつもと違いますし……」
「あ、そ、それは! はい、少し記憶が混乱しているようで。ですので、その……本当に申し訳ないのですが、少し席を外していただけますか? 一人になりたいんです」
二人の男は顔を見合わせると、傍らに控えていた老人へ目配せした。
どうやら、この老人が主治医らしい。
彼が頷くと、二人はようやく俺の求めに応じた。
「承知いたしました。何かありましたらすぐにお呼びください」
二人の男は深々と頭を下げて、寝室から出て行った。
ただ、主治医の老人だけは、依然として扉の傍に控えていた。
……まあ、仕方ないか。これが決まりみたいだし。
俺はベッドから降り、机へと歩み寄った。
引き出しを開くと、数枚の紙が収まっていた。
(……読める)
知らない文字なのに、奇妙なほどすんなり意味が頭に入ってくる。
俺は一枚ずつ、紙に目を通していった。
そして俺の中で、推測が確信へと変わった。
(間違いない。転生したんだ)
昨日たまたま読んだ悪役令嬢もののネット小説。その王太子に。
しかも、ただヒロインと恋をするだけの王太子じゃない。
――ヒロインに婚約破棄を突きつける、ざまぁ対象の王太子だ。
深いため息が漏れた。
さっきの男たちの話を聞く限り、まだ婚約破棄には至っていない。
彼らの言う「聖女」は、間違いなくあのネット小説のヒロインだろう。
(とりあえず、あの小説のストーリーを整理しよう)
なにしろ昨日の退勤後、何気なく流し読みしただけだ。
細かい部分まで覚えていない。
俺の記憶では、ヒロインは本物の聖女で間違いない。
だが治癒魔法が使えないせいで、日頃から王太子をはじめとする周囲の人たちに疑われている。
そんな中、とんでもなく可愛い男爵令嬢が教会と結託し、茶番のような治癒魔法を披露する。
コロッと騙された王太子は彼女にメロメロになり、公式に『真の聖女』として祭り上げてしまう。
(そしてそのまま、本物の聖女との婚約を破棄し、国外へ追放する)
小説の設定では、ヒロインも現代日本人からの転生者だ。
だが、よりによって前世の記憶を取り戻すのは、婚約破棄を突きつけられた瞬間なのである。
だから、成す術なく国を追い出されたヒロインは、やむを得ず敵国である魔王国へと向かうことになる。
ところがそこで、魔王もまた、ただの悪ではないと知る。
(聖女の本当の能力は瘴気を浄化すること)
この世界には、魔族を含めたあらゆる生物を徐々に死へ追いやる瘴気が蔓延し、汚染された土地まで存在している。
そして瘴気は一度発生すると、絶対に消し去ることはできないとされている。
魔王国は、そんな猛毒の瘴気に包まれた土地に建国されたのだ。
蓋を開けてみれば、人類の遠い祖先が、魔族たちを瘴気に汚染された土地へ意図的に追いやっていたのだ。
魔王もまた、自分たちの住める土地を求めて、人間の王国へ侵攻するようになったというわけだ。
そこでヒロインは、聖女の力で瘴気を浄化し、さらに前世の知識も総動員して、人の住める土地へと変えていく。
戦争ではなく、内政チートで魔王国を復興させるという筋書きだ。
(……そしてパトリックは、手遅れになってから本物の聖女の価値に気づき、深く悔いることになる)
当然、すでにヒロインの心は魔王国へと傾いており、故郷に戻る気など微塵もない。
男爵令嬢が偽の聖女であることも発覚し、パトリックは政務でも世論でも窮地に追い込まれ、最終的には廃位に至る。
そればかりか、日に日に国力を増していく魔王国とは対照的に、この王国は次第に衰退の一途を辿っていく。
(じゃあ、このまま婚約を維持すればいいのか?)
本物の聖女なんだから、待遇さえ改めれば、この王国のために力を貸してくれるかもしれない。
俺もヒロインも中身は現代日本人なんだから、力を合わせることもできる。
どのみち俺は男爵令嬢のペテンを知っているから、騙されることもない。
よし、完璧だな。
別に前世に未練はないから、王族としての人生を――
(いや、ちょっと待て。魔王国との戦争が解決しないぞ)
ヒロインが魔王国へ行ってこそ、彼女の聖女としての力であの国の内政が立て直され、魔王軍は人間の王国へ侵攻しなくなる。
つまり、ヒロインがこのまま王国に留まれば、魔王国へ渡ることはない。
そうなれば、侵攻を阻止するのはほぼ不可能になる。
それなら、俺の事情を明かしたうえで、ヒロインと手を組み、先回りして魔王国に接触すれば?
(いや、下手すれば大逆罪で死刑だ)
この世界における魔王国は、人間の領土に侵攻し、支配しようとする悪の国だ。
つまり、この王国だけの敵ではなく、人類共通の敵として認識されている。
敵と内通していると知れ渡った瞬間、俺もヒロインも一巻の終わりだ。
(それに、俺の言葉を信じてくれるという保証もない)
ヒロインが自分を現代日本人の転生者だと自覚するのは、婚約破棄を突きつけられた瞬間だ。
つまり、それまではごく普通にこの世界で生まれ育った人間なのだ。
彼女自身の常識に照らせば、魔王国は悪に映るだろう。
そんな相手と手を組もうなどと言い出す俺は、頭のおかしい奴扱いされるだけだ。
同じことは、王への進言にも言える。
魔王国へ公式の使者を送るべきだ――そんな提案は、この国の常識では口に出すことすらできない。
(目的を再設定しよう)
最優先は、俺が死なないことだ。
正直、異邦人にすぎない俺には、この国への愛着などない。
可能なら王族の地位は維持したいが、それも二の次だ。
たとえ廃位されたとしても、まずは命あっての物種だ。
(魔王国との戦争になったら、不確定要素が多すぎる)
魔王が純粋な悪ではないとはいえ、戦争である以上、捕まれば命が助かる保証などどこにもない。
そもそも原作では、捕虜の待遇がどうなるかなんて一切書かれていなかった。
原作小説ではヒロインが戦争を食い止めるのだから、そんな描写が出てくる理由がないのだ。
(だいたい俺は、平和な日本で育った人間だ)
戦争も政治も分からない。
ごく平凡だった俺に、いきなり戦時下の国家で、王太子としてまともな政治ができるだろうか?
そもそもここは異世界なのだから、俺の常識など通用しないはずだ。
(戦争を防ぐ他の方法はあるか?)
ヒロインを説得して魔王国へ向かわせ、瘴気を浄化してもらえば、戦争の火種を消せるのか?
だがこれも結局、魔王との接触が前提になる以上、危険であることに変わりはない。
おまけに、核心となるヒロインの聖女としての能力だって、いつ覚醒するのか分からない。
原作では、婚約破棄を機に前世を思い出すと同時に発現していたからだ。
もしかすると、婚約破棄というイベントそのものが、記憶と能力を覚醒させるための必須トリガーなのかもしれない。
(……結局、原作通りに進めるのが、一番リスクの低い安定ルートってことか)
未知の脅威よりは、確実な脅威に備える方がマシだ。
俺は本物の聖女であるヒロインに対し、徹底的に『悪役王太子』として振る舞う。
ざまぁされようとされまいと、ひとまず最優先すべきは俺自身の生存だ。
少なくともネット小説の描写では、俺は廃位され、例の男爵令嬢と共に辺境の地に幽閉される。
だが、命までは奪われない。
むしろ、身の丈に合わない肩書きなんて、ない方がマシなこともある。
(そうだ、危険な賭けはやめよう)
他の手がないわけでもないだろう。
だが、俺が原作と違う行動を取った瞬間、唯一知っている『死なない結末』さえ消えてしまう恐れがある。
ヒロインにとっても、原作通りの道を辿った方が、真実の愛を見つけられるはずだ。
だから原作通り、偽の聖女である男爵令嬢に騙されたふりをする。
その裏で、少しでも長く生き延びる手立てを探っていく。
――そして本物の聖女、カトリーヌとの婚約を破棄する。




