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悪役王太子に転生した俺、原作通り婚約破棄するため男爵令嬢に近づいたら、婚約者の聖女が静かに壊れ始めた  作者: おなきく


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第16話 始業式までの一日

 女子寮の最上階。

 カトリーヌの朝は早い。


 メイドが寝室に入り、恭しく声をかけた。


「お嬢様、朝食は――」

「そんなこと、どうでもいいんですわ!」

「ですが、お体の健康のためには……」

「テーブルに適当に置いておきなさい!」

「はい、畏まりました」


 カトリーヌの視線はメイドに向かず、窓の外に釘付けになっていた。

 女子寮の隣には、ひと回り低い王族専用寮が建っている。


「ふふ……もうすぐお目覚めの時間ですわね?」


 王族専用寮は警備上の理由から木々や庭園に遮られ、内部の様子はうかがえない。

 隣接してはいるが、肉眼で覗き込むには到底及ばない距離だ。


 だがカトリーヌは数日前、看病で訪れた際、「剪定しなければ、かえって木はお体に毒となりますわ」と無茶な理屈を聖女の権威で押し通し、自室からの射線上にある枝を一部切り落とさせていた。

 その隙間から、望遠魔法で王族専用寮を覗き込むために。


 カトリーヌは親指と人差し指で輪を作り、片目にそっと当てた。


「やはり大賢者ワタナベ様の魔法は素晴らしいですわ」


 カトリーヌは治癒魔法を発動させるため、ありとあらゆる魔導書を読破してきた。

 ルロワ公爵家の権力を使い、一般には知られていない希少な魔導書にまで手を伸ばした。

 その結果、肝心の治癒魔法だけは使えないまま、他の魔法は人並み外れて扱えるようになっていた。

 望遠魔法もまた、そんな希少な魔法の一つだった。


「あ、いらっしゃった! ああ、今日も殿下はとても素敵ですわ」


 寮の自室にも、すでにパトリックの肖像画が所狭しと飾られていた。

 寮監からやり過ぎだと注意されたこともあるが、そのたびに公爵家の権威を笠に着て黙らせてきた。


 メイドが恐る恐る声をかけた。


「お嬢様、もしバレたらただ事では済まないと思いますが……」

「何がただ事ではないんですの? これは妻の義務ですわ!」

「……妻の義務、なのですか?」

「ええ! 本来なら私もあそこで暮らすはずなんですのよ? 今は納得のいかない学園の規則のせいで、こうして離れ離れになっていますけれど」


 カトリーヌはペンを執ると、テーブルの紙の上をすらすらと走らせた。


「微力ながら、私も殿下の身の安全のために尽力しているのですわ」

「そうなんですか……?」

「ええ。変な泥棒猫が寄り付かないように――あっ、今、殿下がバルコニーにお出ましですわ! 今朝もコーヒーをお召し上がりですわね」


 ペン先が、せわしなく紙の上を走り始めた。

 彼女はこの紙束を『警備日誌』と名付けていた。


「ああ、私もあそこに混ざりたいですわ。でも我慢しなくては。殿方には一人の時間も必要だと、大賢者様も仰っていましたからね」

「あの、お嬢様……一人の時間を尊重なさるなら、やはりこのようなストーキング――いえ、黙視警護はなさらないほうが……」

「何を言っているんですの! むしろこういう時が一番危ないんじゃありませんか? 殿下は王太子。どこから狙われているかわかりませんのよ!」


 メイドはすでに悟っていた。

 こうなったカトリーヌは、誰にも止められないと。

 ただ、知っていながら黙認した自分まで同罪で罰せられるのではないか――その恐怖だけが、メイドの頭をよぎった。


「殿下のあの指先も、首筋も、鎖骨も、すべてが芸術品のようですわ! はぁ、はぁ……ああ、たまりませんわ」


 どうしてこんなことになってしまったのかと、メイドは密かに嘆いた。



 ◇



 望遠魔法の視界からパトリックの姿が消えると、カトリーヌはそのまま治癒魔法の練習に移った。

 魔力切れ寸前まで、両手で抱えるほど重い魔導書を何冊も広げ、口内が乾き、甘い匂いが鼻腔を突き抜けるまで呪文を唱え続けた。


「はぁ、はぁ……」


 しかし、治癒魔法は今日も発動する気配を見せなかった。

 王宮にしかない大賢者の機密魔導書を使っても、教会の聖書を試しても駄目だった。


 カトリーヌは手の甲で汗を拭った。


「どうして、どうして他の魔法はすべて上手くいくのに、治癒魔法だけ……私は、私は聖女なのに……!」


 聖女が王妃として迎えられる理由の一つは、王の身に万が一のことが起きた際、最後の砦となれるからだ。

 侍医でさえ手に負えない傷や病に、奇跡の治癒を施せる存在なのだから。


 パトリックは、いずれ王となる存在だ。

 だからこそ、その役割の重みを誰よりも理解しているカトリーヌは、一刻も早く治癒魔法を身につけ、パトリックの力になりたかった。


(治癒しながら、殿下のお体のあんなところやこんなところも……うへへ……)


 魔力低下時に現れる症状の一つに、理性の鈍化がある。

 カトリーヌはその兆候に気づき、本日の練習を切り上げた。

 そして軽く汗を流した後、再び窓際へと腰を下ろした。


「今頃、殿下はお出かけになったかしら」


 望遠魔法で再び王族専用寮を覗き込むと、従者や近衛騎士の配置が朝のままだった。

 ということは、今日はお籠もりなさるおつもりなのだろう。


「そういえば、まだ魔力切れの影響が残っておいででしょうしね」


 一度魔力切れを起こすと、大抵は五日ほど身動きが取れなくなる。

 パトリックが二日で起き上がったのは、異例の早さだった。

 王家の優れた血筋のおかげで、マナの回復速度が尋常ではないのだ。


(ああ、もう少しゆっくり回復なさってもよかったですのに)


 そうであったなら、たった二日どころか、身動きの取れないパトリックを五日間も付きっきりで看病できたはずなのに。

 カトリーヌは不敬だと思いつつも、こういう時ばかりは王家の優れた血筋が恨めしかった。


 望遠魔法の向こうで、パトリックが再びバルコニーに出て、コーヒーを飲んでいるのが見えた。


(以前はコーヒーをあんなに召し上がらなかったのに)


 それは、最近のパトリックを観察するうち、カトリーヌの胸に芽生えた違和感だった。

 パトリックはもともと、苦い飲み物が苦手だった。

 コーヒーよりも紅茶を好み、その紅茶も大抵はミルクと砂糖を入れて飲んでいたのだ。


(でも、最近は以前よりずっとお優しくなさいましたし、構いませんわ!)


 以前のパトリックはカトリーヌに、公的な用事以外では一切姿を見せるなと言い渡していた。

 落馬事故の際、なぜ姿を見せなかったのかと問い詰められたことすら、新鮮だった。

 他の令嬢たちの陰口を聞いて、自分のために怒ってくれたのも初めてだった。


「ついに殿下も、私の愛を受け入れてくださっているんですわ……!」


 これまでの努力が、ある程度は実を結んだのだ。

 あとは治癒魔法さえ発動すればいい。

 カトリーヌは近頃、絶好調だった。


 だが、その有頂天も、まもなく奈落へと突き落とされることになる。


「な、なんですの!? 他国の王女がリシャール王家の領域に足を踏み入れるなんて、あり得ませんわ!」


 ルチア王女が王族専用寮に姿を現したのだ。

 あろうことか、パトリックは彼女を歓迎するかのように応接室へと招き入れてしまった。

 カトリーヌの腹の底で、怒りがふつふつと煮え立った。


(いくら火遊びでも、他国の王女は駄目ですわ、殿下……!)


 最近、王族専用寮の応接室には、さまざまな女が出入りしている。

 シルヴィに始まり、カールスドッテル教授、そして今度はルチア王女まで。


 カトリーヌは席からガタッと立ち上がった。


「駄目ですわ。あの腹黒王女に殿下が騙されるのを、黙って見過ごすわけにはまいりません!」


 メイドが慌ててカトリーヌの両手を掴んで制止した。


「お、お嬢様。いけません、突然押しかけては」

「では、あのまま黙って見ていろと言うんですの!?」

「今すぐ押しかけては、お嬢様が殿下を黙視警護なさっていたことが露見してしまいます」

「くっ……」


 言い返す言葉を失い、カトリーヌは再び席に座った。

 深いため息とともに、不満をこぼした。


「やはり副会長には私がなるべきでしたのに……! ああ、不安ですわ。ブルーノ王国に不穏な動きがあると聞きますし、殿下のお体に何かあっては……」


 万が一、カールスドッテル教授の時のようなことが起きてもすぐに駆けつけられるよう、カトリーヌは監視を続けた。

 だが意外にも、ルチア王女はすぐに王族専用寮から出てきた。


 カトリーヌはニヤリと笑った。


(やはり殿下も、あの王女の腹黒さを見抜いて追い出されたに違いありませんわ!)


 歴史上最も賢い人物は、大賢者ワタナベだと言われている。

 だが、最も知恵ある王には、いずれパトリックがなるはずだと彼女は信じていた。


 やがて夜が更けた。


「お嬢様、そろそろお休みに……」

「まだ殿下がお休みになっていませんわ!」

「殿下の妻となられるお身分でしたら、早くお休みになり、殿下よりも早起きしてお出迎えに行かれるのはいかがでしょうか……」

「名案ですわ! ええ、今日は殿下より先に休ませていただきますわ。でも、もう少しだけ見てからにいたします」


 この日、パトリックがなかなか寝付かなかったせいで、結局カトリーヌも夜遅くまで起きている羽目になった。

 そして翌朝――メイドの助言とは裏腹に、普段よりずっと遅く目を覚ましてしまったのだ。


「よ、よかった、遅刻じゃありませんわ!」


 大急ぎでホールに到着したカトリーヌは、辺りを見回した。

 パトリックはまだ来ていないようだった。

 ならばここで待っていれば、パトリックにお会いできる――


 その時だった。


「ありがとう、シルヴィ嬢。ここからは生徒会の仕事があるので」

「あ、はい。私のほうこそ、道中お守りくださってありがとうございました」


 ホールの入り口から、聞き慣れた愛しい声が耳に届いた。

 だが問題は、その愛しい声に不快な雑音が混じっていたことだ。


 カトリーヌはすぐさま、ホールの入り口へ向かった。

 金髪の自分とは対照的な銀髪をなびかせ、シルヴィが真っ先に目に入った。


「いい度胸ですわね!」

「カトリーヌ?」

「ひいいいっ!」


 シルヴィは身をすくめ、パトリックの上着の裾をそっと掴んで、その背に隠れた。


(わ、私もあれ、やりたかったですのに!!)

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