第15話 入学式までの二日間
入学式を三日後に控えた夜。
シルヴィはひとりベッドに横たわり、天井を見つめていた。
(……愛人って、どうやってなるのかしら?)
老執事の助言どおり、パトリックに気に入られるよう努める——その方針自体は理解していた。
父もそれを支持している。
けれど、いざ何をすればいいのかとなると、さっぱりわからなかった。
(いつも言い寄られる側だったから、わからない……)
恋愛小説の類は、ほとんど読んだことがない。
これまで読み漁ってきたのは、美食の本ばかり。
男をどう誘惑するかなんて、皆目見当もつかなかった。
「そうだ、勉強しよう」
この世のあらゆる食べ物を頭に詰め込んできたのだから、恋愛だって同じだ。
学べばいい。
ただ待つだけではだめだ。
今、彼が自分に興味を持ってくれている。
この滅多にない好機を、逃すわけにはいかない。
それくらいは、シルヴィにもわかっていた。
思い立ったが吉日。
シルヴィはベッドから跳ね起きると、そのまま部屋を飛び出した。
寮の正面玄関を開け、外へ一歩踏み出そうとした、まさにそのとき――
「そこのあなた、誰ですか!」
「ひぃっ!?」
突然の怒声に、シルヴィはびくりと肩をすくめた。
振り返ると、そこには寮監が立っていた。
「名前は?」
「シ、シルヴィ・ド・シモンです」
「学年は?」
「これから一年生になります……」
「こんな夜更けに、何の用で外へ出ようというのですか? まだ新入生だというのに」
「図書室へ、少し本を読みに……」
寮監は、ふんと鼻を鳴らした。
「嘘をつくのが本当に下手ですね。この時間に図書室へ行くなんて」
「い、いえ、本当なんです! 図書室でどうしても読まなきゃいけない本があるんです!」
「どうしても読まなきゃいけない本?」
「はい! 私の人生がかかっていると言っても過言ではありません!!」
夢を叶えるために。
そして、カトリーヌから身を守るため。
パトリックを落とすこと――それが、今のシルヴィにとって最優先事項だった。
まっすぐな青い瞳に、寮監はしばし言葉を失った。
目の前の少女が嘘をついているようには、どう見ても見えない。
そう判断せざるを得なかった。
ただ――
「シルヴィさん。図書室はもう閉まっています。開いているのは日中だけです。今行っても、入れませんよ」
「あ」
そこまで頭が回っていなかった。
ばつが悪く、シルヴィは「ごめんなさい……」と素直に頭を下げた。
それから自室へ戻り、今度こそ静かに眠りについた。
翌朝、シルヴィは思いがけない知らせを耳にした。
「なんでも、パトリック殿下が魔力切れで倒れられたんですって!」
シルヴィは目を丸くした。
早くも計画に狂いが……?
シルヴィは息をひそめ、令嬢たちの会話に耳を澄ませた。
「え、えっ!? お体は大丈夫なの?」
「わからないわ。聞いた話によると、とんでもなく大規模な魔法の練習をなさって、それで魔力が枯渇したらしいの」
「だ、大規模な魔法の練習?」
「詳しいことはわからないけれど、カールスドッテル教授と一緒に練習なさっていたんですって」
「カールスドッテル教授って、あの伝説の教授!?」
「ええ。噂では、ワタナベ大賢者様の戦術級魔法に挑まれたとか」
せ、戦術級魔法……!
正確には何なのか、シルヴィにはわからない。
けれど、ただ事ではないとだけは悟った。
なら、今日のうちにお見舞いへ行くべきだろうか。
そんな考えがよぎった矢先、女子生徒たちの会話の続きが耳に入った。
「だから今、カトリーヌ様が自ら看病なさっているみたいよ」
「カトリーヌ様ほどの御方が自ら?」
「最近、男爵令嬢が急に現れて、邪魔をしているじゃない。だからこの隙に泥棒猫が入り込まないよう、警戒も兼ねていらっしゃるのよ」
自分のことが話題に上り、シルヴィはびくりと身をすくませた。
そこで悟った。
今お見舞いに行けば十中八九カトリーヌと鉢合わせる。
そうなれば泥棒猫の自分は、間違いなく餌食だ。
いつか本で読んだ——皮を剥ぎ、布で包み、土に埋めたあと串焼きにするという猫料理の調理法が、シルヴィの脳裏をよぎった。
(きょ、今日は大人しく本を読もう)
そう、昨夜は予期せぬトラブルで果たせなかった恋愛の勉強だ。
シルヴィは他の令嬢たちに見つからないよう、できるだけ足音を殺して寮の外へ出た。
そして図書室に入り、司書にそっと尋ねた。
「あ、あの……」
「はい」
「恋愛についてのおすすめの本、ありますか……?」
「ほう、恋愛でございますか……」
司書が眼鏡を押し上げながら言葉を継いだ。
「それでしたら、ワタナベ大賢者様の御著書はいかがでしょう」
「だ、大賢者様は恋愛書までお書きになっていたのですか?」
「ええ。大賢者様はなんと、ギャルゲーと呼ばれる恋愛文学まで自らお書きになったそうです」
「お、おお……!さすが大賢者様、手がけられない分野がないのですね!」
シルヴィは期待に胸を膨らませ、司書が薦めた大賢者の本を開いた。
さすがは大賢者の著書、見慣れない単語や表現がずらりと並んでいた。
(し、寝室に入り、布団をばさっと引っぺがして起こし、そのまま一緒に登校……?)
殿方の寝室へみだりに踏み込むなんて、いくらなんでも破廉恥が過ぎる。
大賢者様のことだ。きっと何か深い意味があるのだろう。
そうは思うものの、やはりハードルは高すぎた。
(そ、そうね、一緒に登校するくらいなら)
そういえば、パトリックは記憶の混乱を抱えていると打ち明けてくれていた。
それなら、登校の道案内をするという立派な口実になる。
シルヴィはさらに、大賢者の本を読み進めた。
こんなことまで堂々と書いてしまっていいのだろうか。
そう思わせるほど、男女の赤裸々な営みが記されていた。
「こ、こんなの……は、破廉恥です!」
シルヴィは本を持つ腕をぴんと伸ばし、ぷいっと顔を背けた。
けれど結局、ちらちらと盗み見てしまった。
そこには、自分の知らない世界が詰まっていた。
(よ、48種類もあるのね)
入学式までの二日間、シルヴィはほとんど図書室に引きこもっていた。
◇
入学式当日。
シルヴィは決めていた『一緒に登校』作戦のため、早起きして王族寮の前へ向かった。
(大事なのは、朝でも可愛く見えること)
大賢者の本によれば、いついかなる時も美少女でいるためには、身だしなみを整えておくことが肝心らしい。
シルヴィは幾度となく、窓ガラスや水溜まりに映る自分の姿を確認した。
やがて、従者の手で王族専用寮の正面扉が開け放たれた。
その奥から、パトリックが堂々たる足取りで現れた。
「あ、ご、ごきげんよう、殿下」
「シルヴィ嬢?」
パトリックは戸惑ったように瞬いた。
普段なら「も、申し訳ございません!」と叫んで逃げていただろう。
だが大賢者によれば、ここは堂々と振る舞うべき場面だ。
それがギャルゲーの美少女の流儀なのだから。
「ご迷惑でなければ、殿下とご一緒に登校させていただきたいと思いまして……」
パトリックは目を丸くした。
もしかして、少し唐突すぎたかしら?
出しゃばりすぎた?
そんな不安がよぎったが、今こそ例の口実を使う時だ。
シルヴィは以前パトリックがしてくれたように、彼の服についた埃を払うふりをしながら、そっと囁いた。
「ホールまで、私がご案内できればと思いまして」
「ええ、よろしくお願いします。しばらくは何かとシルヴィ嬢のお世話になりそうですね」
「お、お世話だなんて。むしろ私の方こそ殿下にお世話になっているくらいです」
シルヴィは心の中でパトリックに願った。
どうかこれからも、自分を守ってください、と。
だが、彼に守ってもらわねばならない事態は、想像よりもずっと早く訪れた。
「いい度胸ですわね!」
その声とともに、カトリーヌが目の前に現れた。
「ひいいいっ!」
シルヴィは両手をわなわなと震わせた。
そして、たった一つの考えだけが頭を支配した。
(猫料理にされちゃう!!)




