EPISODE0-4【違和感】
翌日、レイトキが目を覚まして自室を出ると、いつもは施錠されている通路の扉が、指を近づけるだけでスムーズに開くことに気づいた。端末に表示された権限情報を確認すると、これまで立ち入り禁止だった区画を含め、施設内のほとんどの場所を自由に行き来できるように更新されていた。彼はゆっくりと通路を歩きながら、頭の中で状況を整理する。
「戦闘テストも反応検査も順調にクリアしてきた結果、ここまでの権限を与えられた、ということか」一度立ち止まり、壁の向こうに広がる未知の区画を見つめる。
「そうか……これが組織の言う『信用』というものなのだろうか」表面的には自由の幅が広がり、扱いが変わったように見える。だが心の奥、件の因子が開いた感性の部分で、わずかながらも曇ったような違和感が生まれ始めていた。
「信用されたのか、それとも、監視しやすいように行動範囲を広げられただけなのか……」まだその答えは出せない。だが与えられた権限をただ受け入れるだけでなく、自分の目でこの施設の中身を確かめ、真実に少しでも近づくチャンスが来たことだけは、はっきりと感じ取っていた。レイトキは再び歩き出す。これから見聞きするものすべてが、彼の心と意志を形作る新たな材料になる――そんな予感を抱きながら。与えられた新しい権限に従って通路を進んでいくと、これまでは赤い「立入禁止」の札と電子ロックで固く閉ざされていた扉が、今では指紋とID認証だけで静かに解錠された。
レイトキはゆっくりと中に足を踏み入れる。空気は他の区画よりもひんやりと冷たく、どこか古びた埃っぽいにおいが漂っていた。壁の照明は明るさを落としたまま点滅し、長い間人の手が入っていないことがうかがえる。
そして、奥へと続く廊下の壁に、くっきりと白い文字で書かれた表示板が目に入った。
《廃棄予定収容区画》
彼は足を止め、その文字を無表情のまま見つめる。「廃棄」――工業製品や不要になった備品に使う言葉が、この施設の中で何を意味するのか、頭の中で即座に結びついていく。
「不要になったもの、役割を終えたもの、計画に合わなくなったもの……」低く呟く声には、まだ強い感情はないが、心の奥に根を張り始めた感性が、この言葉の背後にある重く冷たい意味を、ゆっくりと察知し始めていた。レイトキはさらに一歩前へ進む。ここに何が収められているのか、そして「廃棄」という言葉が自分たち実験体にとってどんな運命を指すのか――その答えを探るように、暗い通路の奥へと視線を向けた。暗い通路を奥へ進むと、両脇に鉄格子の檻が並ぶ光景が広がってきた。どれも古びて錆びつき、長い間放置されていることが一目でわかる。
レイトキは一つひとつ中を確かめるように目を向ける。
ある檻の床や壁には、茶色く変色した血の跡がこびりつき、乾いた染みがまるで何が起きたかを無言で語っているようだった。縁には引っ掻いたような深い傷痕まで刻まれており、かつてここにいた者の苦しみや絶望が、冷たい空気の中にまだ残っているかのように感じられる。
一方で、隣の檻はまったく逆の様相だった。何もなかったかのように空っぽで、床も壁もきれいに拭き取られ、痕跡一つ残っていない。まるで最初から誰も存在しなかったか、あるいは存在そのものを完全に消し去られたかのような、不自然な清潔さだった。
「廃棄……」
レイトキは静かにその言葉を口にする。血痕の残る場所と、何もない空間――この二つの光景が、「不要になった実験体」の末路を示す二つの形なのだと、彼は淡いが確かな理解を得ていく。感情プログラムが反応し、心の奥にわずかながら嫌悪感と緊張感が生まれる。それはまだ強いものではないが、自分たちが置かれている立場の冷たさと危うさを、彼に初めて肌で感じさせるきっかけとなった。
「役に立たなくなれば、こうして処理されるということか……」彼は檻の列を見渡し、自分自身の未来にも同じ文字が待っている可能性を、静かに心に刻み込んだ。レイトキが無言で血痕と空っぽの檻を見つめていると、背後からゆっくりと足音が近づいてきた。
振り返ると、作業着を着たスタッフが立っていた。警戒する様子もなく、むしろどこか投げやりな調子で、はっきりと言い放つ。
「あーあー、気づいたか。そうだよ、ここは役に立たなくなった者を処分する場所だ」
彼は手で周囲を大まかに指し示し、続ける。
「成績が上がらない、適合率が落ちる、計画の予定から外れる――そうなったらもう必要ない。力も価値もなくなった存在は、こうして『廃棄』される運命なのさ」
レイトキは表情を変えずに聞いていたが、心の奥では先ほどの違和感が一気に重い確信へと変わっていく。
「処分……とは、殺すという意味か?」
短い問いかけに、スタッフは肩をすくめて答える。
「言い方はどうでもいい。要するに、この施設に存在しなかったことにするだけだ。痕跡も記録も全部消して、次の材料に場所を空ける。あんたが今権限を与えられて自由に歩けるのは、まだ『使える』と判断されているからだけどな」その言葉は冷徹で、まるで部品の在庫整理について話しているかのようだった。レイトキは手のひらを強く握りしめ、自分たちが「信用」されているのではなく、単に「有効な在庫」として管理されているだけだったことを、はっきりと理解した。
「これが、俺たちの立場なのか……」
低く呟く声には、初めて混じるようになった感情の波が、わずかな怒りと恐怖、そして覚悟へと変わり始めていた。スタッフはそれだけ言い残すと、背中を向けて何の感慨もない足取りで通路の奥へと去っていった。鉄格子の並ぶ空間には、再び冷たい静寂だけが戻ってくる。
レイトキは一人残され、壁の血痕と空っぽの檻を見つめ続ける。今までは機械的に受け入れていた事実の数々が、件の因子と感情プログラムによって、初めて心の奥深くに重く響き始めた。
彼はゆっくりと胸元に手を当て、揺れ動く自分の内面を見つめるように呟く。
「ここにいて、幸せだと言えるのか?」
指示されるままに力をつけ、テストをこなし、権限が上がったと喜ぶこともない。ただ「役に立つ限り生かされ、不要になれば捨てられる」だけの存在――そんな生き方に、何の意味があるのか。わずかに芽生えた疑問が、心をかき乱すように広がっていく。
だがすぐに、その先にある別の現実が彼を引き止める。
「だが、もしこのストレンジ・プレデターを抜け出したとしても……」外の世界には何が待っているのか。元の記憶もほとんどなく、異形の因子を宿した力だけが体に残っている。国の管理システムに登録されたミクカードは位置を追跡し、知らない土地で誰が自分を受け入れてくれるのか。「自由」という言葉の裏には、孤独と未知の危険が暗く横たわっているように感じられた。
「ここに留まっても捨てられる運命、外に出ても居場所のない現実……どちらを選んでも、楽な道なんてないのか」心の中で二つの思いがぶつかり合い、はっきりとした答えを出せないまま、レイトキは冷たい空気の中で長い間立ち尽くしていた。この違和感と迷いこそが、彼が真に自分自身の道を探し始める、最初の一歩だったのかもしれない。翌日、レイトキの端末に施設からの連絡が届いた。無機質な文字が淡く浮かび上がり、機械的な声が続いて説明する。
「ほかの実験体には、希望や組み合わせに応じて、誰かと一緒に過ごせる共同部屋も用意されている。だが、お前の場合は扱いが異なる――今後も変わらず、専用の個室だけを使用するように」
レイトキはその表示を無表情のまま見つめ、静かに受け止める。
「俺だけが、隔離されたままということか」
他の者たちが同じ空間で話し、時間を共有できるのに対し、自分だけはいつも一人。権限は広げられても、人との距離だけは決して縮められないように仕組まれている。心の奥では、この違いが何を意味するのかをゆっくりと読み取っていく。
「信用しているのではなく、特別だから?それとも、何が起きるか予測できないから、他の者に影響を与えないように閉じ込めておくだけなのか……」先日見た「廃棄区画」の光景、スタッフの冷たい言葉、そして今回の差別された扱い――一つひとつが重なり、彼の中にあったわずかな期待も、次第に冷静な疑いへと変わっていく。個室に戻ったレイトキは扉の内側に背中をもたせ、低く呟いた。
「どちらにしても、俺は他の誰とも違う『歯車』として、ここに置かれているらしい」孤独は以前からあったが、それが意図的に与えられたものだと知った今、彼の心には、周囲との間に見えない壁がさらに厚く立ちはだかっているように感じられた。自室の扉が静かにノックされ、開くと久美子が顔を覗かせた。手には温かい飲み物の入ったカップを持ち、柔らかいが真剣なまなざしでレイトキを見つめる。
「レイくん、まだいろいろと迷ってるんでしょ? 不安なのは分かるよ。外に出たところで、誰も自分を受け入れてくれないかもしれない、居場所なんてないかもしれないって――そう思ってるんじゃない?」
彼女は部屋の中に入り、机の上にカップを置いて続ける。
「でもね、不安ばかり抱え込んでいても、何も前に進まないと思うんだ。人間って、言葉を交わし、心を開けば、ちゃんと分かり合える生き物だと私は信じてるからさ」レイトキはベッドに腰を下ろしたまま、無表情ながらも耳を傾けていた。心の奥には「廃棄区画」で感じた恐怖や、施設からの扱いへの疑いが渦巻いている。だが久美子の言葉は、そんな暗い思いの間に、まるで細い光の糸のように差し込んでくる。
「分かり合える……か。俺には感情も記憶も元の自分もほとんどない。そんな俺でも、誰かと心を通わせることができるのか?」彼の声には、これまでにない弱さと問いかけが含まれていた。自分の存在自体が「実験体」であり、人間としての在り方が不確かな中で、久美子の言葉は新たな希望の可能性を示してくれているように感じられた。久美子は優しく微笑み、頷いて答える。
「最初から完璧な答えなんて誰も持ってないよ。少しずつ話して、少しずつ感じていけばいい。だから私は、ここで一人で悩み続けるより、みんなで一緒に道を探そうって思ってるの」
レイトキは静かに彼女の言葉を受け止め、自分の中で二つの考えが再びぶつかり合うのを感じていた――だが今度は、ただ迷うだけでなく、「試してみる」という選択肢も、はっきりと見え始めていた。レイトキはゆっくりと視線を落とし、自分の膝元を見つめながら、抑えた声で答えた。
「悪い……しばらくは一人にさせてくれ。頭の中も心の中も、まだごちゃごちゃしていて、自分なりに整理したいんだ」久美子は彼の言葉に少しだけ寂しそうな表情を浮かべたが、すぐに柔らかく頷いた。
「わかった。無理に答えを出そうとしなくてもいいからね。私はいつでもここにいるから、話したくなったらいつでも声をかけて」彼女は机の上のカップを指で軽く示し、扉に向かって歩き出す。
「それ、冷めないうちに飲んでね。少しは落ち着くかもしれないから」扉が閉まり、カチッと施錠される音が静かに響くと、部屋の中には再び深い静寂が戻ってきた。レイトキは一人きりになった空間で、ゆっくりと目を閉じる。廃棄区画の光景、スタッフの言葉、他の実験体たちの生き方、久美子の願い――次々と浮かぶ断片を、一つひとつ心の中で並べ直そうと、静かに自分と向き合い始めたのだった。待機室の一角で、久美子は斗愛、与太郎、カグラ、デュークのもとへ戻り、はっきりとした口調で報告するように話し始めた。
「今、レイくんのところに行って声をかけてみたわ。やっぱりまだかなり迷ってる様子だった。自分が何者なのか、この先どうすればいいのか、まだ答えが出せないみたい」彼女は少し真剣な表情になり、拳を軽く握って続ける。
「だけど私は決めてる。レイくんのこと、何としてでもこのストレンジ・プレデターから連れ出してあげたいの。あのままここにいたら、いつか役に立たなくなったと判断されて、廃棄されてしまう運命が待ってるだけだもの」与太郎は腕を組んで難しい顔をし、低く唸るように答える。
「そりゃ気持ちは分かる。だけどあいつは他の実験体とは扱いが違う特別な存在だ。監視も厳しいだろうし、下手に手を出せば俺たちまで標的にされかねないぞ」斗愛も冷静に頷きながら補足する。
「リスクは非常に高い。だけど……久美子の言う通り、この施設にいる限り、誰にでも『廃棄』の可能性はつきまとう。レイトキだけの問題じゃないのも事実だ」そこへカグラがゆっくりと目を細め、柔らかいが核心を突くような声を出す。
「彼はまだ自分の中に眠っている意志に気づいていないだけ。迷っているということは、すでに『与えられた道』以外の選択肢を探し始めている証拠でもある」隣のデュークも肩をすくめながら、力強く言い添える。
「俺たちが彼の背中を押してやるのは構わない。だけど最後に決めるのはレイトキ自身だ。彼が『自分で選ぶ』という一歩を踏み出さない限り、誰も彼を本当の意味で助けることはできないからな」久美子は皆の言葉を聞き、一度だけ深く頷く。
「それでも待ってる。彼が答えを出すその時まで、私はずっと味方でいるから」そうして彼らは、レイトキの決断を待ちながら、密かに次なる動きを考え始めるのだった。




