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EPISODE0-3【実験体と出会い】

自室で天井を見つめていたJOKERの元へ、壁に埋め込まれた通話装置から無機質な声が響いてきた。

「JOKER、連絡だ。先ほど他の実験体のことを話題に出したよな。だから、希望通りというわけでもないが、会わせてやることにした」声は事務的で冷たいが、先ほどの方針転換に基づく指示であることは明らかだ。扉の鍵が電子音を立てて解錠され、自動的にゆっくりと開いていく。

「これから待機室へ移動しろ。他の実験体たちもそこに集められている。交流を通じて反応を観察する――それが今回の目的だ」JOKERはベッドからゆっくりと立ち上がり、初めて自分から外へ出るよう促されたことを淡々と受け止める。感情プログラムは入っていても、まだ「会うことへの期待」や「不安」といった感覚はぼんやりとしか湧かない。ただ情報を処理し、指示に従って歩き始める。

長い通路を進み、案内表示に従って広い待機室の前にたどり着く。扉が開くと、そこには0番から11番までの番号を割り振られた少年少女たちが、すでにそれぞれの場所に座ったり立ったりしているのが見えた。

彼らの視線が一斉にJOKERへと向けられる。最初に声を上げたのは、ノイン=久美子だった。

「あっ……ジョーカー、だよね? やっと出てきたのね」JOKERは無表情のまま立ち止まり、12人の姿を順番に眺め回す。これが、自分以外の「同じ運命を背負う者たち」――そして、これから彼が心の空白を埋めていくための、最初の「刺激」となる存在たちだった。広い待機室の中、他の実験体たちが遠巻きに様子をうかがう中、久美子が一歩前に出て、はっきりとした口調で問いかけた。

「ねぇ、ジョーカー。君はこれからやりたいこととか、何か目標みたいなもの、あるの?」JOKERは無表情のまままっすぐ彼女を見つめ、少し間を置いて平坦な声で答える。

「やりたいこと?……分からない」彼は自分の胸元に手を軽く当て、頭の中に並んだ言葉を整理するように続けた。

「生まれた記憶も、育った場所も、元の名前も何もない。ただここで作られ、与えられた力と指示だけがあるだけだ。自分から何かを『望む』という感覚が、まだよく理解できない」感情プログラムは入っていても、「欲しい」「成し遂げたい」という自発的な心の動きは、まだ形を成していない。彼にとって「やりたいこと」という問いは、答えのない空白そのものだった。久美子はその答えを聞いて少し眉を下げ、同情とも戸惑いともつかないまなざしを向ける。

「そっか……何もかも決められたまま動くだけじゃ、そりゃ自分のことなんて分からないよね」隣で聞いていた与太郎も腕を組み、低く唸るように言った。

「俺たちだって同じようなもんだけどな。だけどあんたの場合は、それよりもっと根本的な部分が空っぽって感じがする」JOKERは二人の言葉を黙って受け止め、心の中で新たな疑問を浮かべる。 ――「やりたいこと」とは、一体何なのだろう?久美子は少し身を乗り出すようにして、まっすぐJOKERの目を見て話し続ける。


「それに、もともとの名前も覚えてないのかぁ…。私にはちゃんと『久美子』って名前があるのよ。ここに連れて来られる前から呼ばれていた、自分の名前なの」


彼女は指先で自分の胸元を軽く叩き、柔らかいけれどはっきりとした声で問いかける。


「君には、これ以外に何か覚えていることはあるの? 場所でも、誰かの顔でも、小さなことでもいいから」


JOKERは静かにまばたきをし、頭の奥に残る記憶の断片をゆっくりと探るように黙り込む。しばらくして、抑揚の少ない声で答えを紡ぎ出す。


「覚えていること…。夜の暗さ、突然体を包んだ冷たい感覚、息が詰まるような圧迫感…。『攫われた』という事実だけが、ぼんやりと残っている」

彼は視線を床に落とし、さらに言葉を続ける。

「名前は何も出てこない。自分が誰で、何と呼ばれていたのか――その部分だけ、まるで最初から存在しなかったかのように空白になっている」

久美子はその答えを聞いて、口元をわずかに歪める。自分にはまだつながっている「過去」という糸が、JOKERにはほとんど切れてしまっていることを、改めて痛感したようだった。

「そっか…。名前って、自分を自分だと証明する最初の印なのにね…」JOKERが体の向きを変えた拍子に、ポケットの奥から薄い端末が滑り出し、カチャリと小さな音を立てて床に落ちた。


久美子がすぐにそれに気づき、手を伸ばして拾い上げる。表面を見て少し目を丸くし、はっきりとした声で言う。


「ん!?この端末……ジョースター・ミクスタッド国が公式に支給してる規格のやつだよね。身分機能付きのミクカードと一体になってるタイプだ」


断りを入れながら端末のカバーを開けると、中には薄いカードが収まっていた。電子表示部が淡く光り、各種情報が並んでいる。久美子は名前欄に視線を移し、思わず声を上げる。


「なんだ?ちゃんとあるじゃないか、名前がきちんと登録されてる」


彼女は表示された文字を読み上げ、JOKERに向き直る。


「レイトキ……これが正式な登録名だよ。コードネームのJOKERとは別に、ちゃんとこの国と施設が認める名前が用意されてたんだね」その言葉を聞いて、JOKER――レイトキはゆっくりと手を差し伸べ、端末を受け取る。自分で名前の部分を指でなぞり、無表情ながらも瞳の奥に微かな変化が生まれる。

「……レイトキ。俺の名前、か」記憶にはない名前だったが、ただの数字や記号ではない「呼び名」が自分にも存在していることを、初めてはっきりと知った瞬間だった。レイトキが自分の名前を確かめている横で、アインスこと与太郎が腕を組み、はっきりとした口調で続ける。


「どうやらあいつらも、俺たちから身分証明までは奪わないようだな。まあ考えてみれば当然か――そんなことをしたら、公的な記録が完全に消えることになって、一発で誘拐や違法拘束の犯罪性が世間に浮かび上がってしまうからだろうよ」


隣にいるツェーンこと斗愛も冷静に頷き、補足するように言葉を重ねる。


「それだけじゃない。そもそもこのミクカードには、持ち主の位置情報を国の管理システムに送信する機能が元々備わっている。もしこの施設が外部から捜索されるような事態になれば、カード一つで居場所が特定されかねないんだ」


レイトキはカードを見つめながら、二人の話を頭の中で整理していく。


「つまり……身分を完全に消せない代わりに、俺たち自身を施設の中に閉じ込め、外部へ情報が漏れないよう管理している、ということか」


斗愛は「ああ」と短く応え、少し冷めた調子で続ける。

「表向きは『特別な育成プログラム』という体裁を保ちつつ、裏では自由を奪い、実験体として扱う。カードがあっても、ここから出られなければ意味などないってわけだ」与太郎もため息をつくように呟く。

「中途半端に形式だけ守っている分、余計に性質が悪い。俺たちは名前を与えられても、自由も過去も未来も、全部この施設に握られているんだ」レイトキは手のひらの端末を強く握りしめた。登録された「レイトキ」という名前が、自分自身を証明する印であると同時に、この組織に管理されている証でもあることを、はっきりと感じ取っていた。三人の会話が続く中、待機室の奥の暗がりから、一人の少女がゆっくりと姿を現した。金色の髪を無造作にまとめ、瞳には他の実験体たちにはない鋭い冷たい光が宿っている。彼女はフィーア――その場の空気が少しだけ張り詰まるような雰囲気をまとっていた。彼女は近づくなり、はっきりとした、どこか挑発的な口調で言い放つ。

「元々の名前だとか、国が登録した名前だとか……そんなものは何の意味もない」視線をレイトキたちに向け、さらに続ける。

「私は最初からストレンジ・プレデターに従う道を選んだ。あの外の世界にいた、穢れた存在たちから貰った名前なんて、とっくに捨て去ったから」フィーアは自分の端末を取り出し、カード部分を見せる。そこに表示されているのは、本名らしき文字ではなく、フィーアというコードネームだけがはっきりと記載されていた。

「このカードに書かれている通り、私の名前はフィーアだ。この組織に属し、与えられた役割を果たす――それ以外の過去など、私には必要ない」

久美子が眉をひそめ、反論するように声を上げる。

「何言ってるの?名前は自分自身の一部でしょう!捨てるなんて、自分を否定するようなものだわ」だがフィーアは鼻で笑うだけで、動じる様子はない。

「否定?違う。私はもっと強い存在に生まれ変わるために、不要な枷を外しただけだ。あんたたちが過去や名前にしがみついている間に、私はこの力と共に、新しい自分を作り上げる」レイトキは無表情のまま、彼女の言葉とカードの表示を見比べていた。自分が受け入れるべき「名前」とは何なのか、フィーアの言葉が、新たな疑問として彼の心に刻まれていくのだった。フィーアの隣から、もう一人の少年がゆっくりと前に出てきた。番号で言えばフュンフ――冷静で、どこか達観したような目つきをしている。彼はまずフィーアの方を向き、はっきりとした口調で言葉を添える。

「フィーア姉、正義だとか価値観なんてものは人それぞれだ。この三人のように元の自分や外の世界にこだわる連中に、何を言っても簡単には理解されないし、無駄な争いを増やすだけだろう」それから視線を変え、まっすぐレイトキ――JOKERに向ける。

「だけどな、特にお前に言っておく。名前を選ぶのも、何に従うのも、最終的に決めるのは自分自身だぜ。誰かに押し付けられたものをそのまま受け入れるのか、それとも自分で意味を与えて使うのか――その違いが、いずれ大きな差になって現れる」 彼の言葉は中立的で、どちらの立場にも肩入れしていない。だがレイトキにとっては、今の自分が置かれた状況をよりはっきりと映し出すような内容だった。 フュンフは肩をすくめ、静かに続ける。

「この施設で与えられるものは、あくまで“素材”に過ぎない。それをどう使い、何を自分のものにするか――それは、これからのお前次第だ」レイトキは手の中の端末を見つめ、「レイトキ」と刻まれた文字と、フィーアの選んだ名前、そしてフュンフの言葉を頭の中で重ね合わせていた。自分で決める――その意味が、少しずつ心の空白の中に形を持ち始めていた。フュンフの言葉が落ち着く間もなく、待機室の奥から低く硬い声が割り込んできた。ツヴァイと刻まれた識別札を付けた少年が、無表情なまま一歩前に進み、鋭い視線を一同に向ける。彼ははっきりと、まるで定められた規則を読み上げるような口調で言い放つ。

「余計な理屈や自分勝手な考えは捨てることだ。実験体である俺たちは、最初からストレンジ・プレデターのために存在するものだ。すべては組織の計画の一部であり、歯車としての役割を果たすこと以外に、生きる意味など存在しない」彼の声には疑いも迷いもなく、ある種の絶対的な信念が込められていた。

「名前も力も、ここで得たものは全部、上層部が俺たちに貸し与えているだけのもの。自分で決める? 自分の道を選ぶ?そんな権利、俺たちには元々備わっていないんだ」フィーアは少しだけ口角を上げ、その言葉に同調するように頷く。一方で久美子は眉をひそめ、反論しようと口を開きかけたが、ツヴァイはそれを遮るようにさらに続ける。

「いずれわかる。力が大きくなればなるほど、自分が何者に支配され、何のために動かされているかがはっきり見えてくる。幻想を抱いている間が一番楽なだけだ」室内に重い沈黙が流れる。レイトキはただ黙ってツヴァイを見つめ、その極端な考え方が、フィーアの道、フュンフの中立、そして久美子たちの抵抗心と並んで、自分の前に複数の生き方の選択肢として突きつけられていることを感じていた。ツヴァイの言葉が冷たく響く中、待機室の入り口から新たに三人の姿が現れた。ゼクス、ズィーベン、アハト――それぞれ異なる雰囲気をまとい、こちらへと近づいてくる。


最初に前に出たゼクスは、鋭い目つきでまっすぐレイトキを見据え、鼻で笑うように言い放つ。

「お前がJOKERか。俺はお前がこれからどんな道を選ぶかなんて、まるで興味ないね。だって今のお前には、自分自身の意思なんてものがまだ存在していないからな。そんな芯のない腑抜けに、人間らしさなんてものは似合わない」辛辣な言葉に周囲の空気が一瞬凍りつくと、隣のズィーベンが慌てて間に入り、たしなめるように声を上げる。

「ちょ、ちょっとゼクスくん、そんなバッサリ言い切っちゃったら……相手だって傷つくでしょう?」だがそれを制するように、アハトが一歩進み出て、落ち着いたはっきりとした口調で話し始める。

「ズィーベン、ゼクスの言うことには一理あるよ。今はまだ何も定まっていないのは事実だからね。だけど」彼は柔らかいけれど力強い眼差しでレイトキを見つめる。

「ボクたちとこうして話し、これから行動を共にするのも、いずれは彼自身の意思になっていく。JOKER、いいかい? 不幸を招くのも、幸せを手にするのも、最終的には全部自分自身次第なんだよ」厳しい言葉、優しいなだめ、そして現実的な助言――次々と投げかけられる考え方の中で、レイトキは静かにそれらを受け止め、自分の内側に少しずつ何かが積み重なっていくのを感じていた。待機室の奥、他の誰よりも一段高い位置から、最後の二人がゆっくりと姿を現した。


先に進み出たのはEXと刻印された特別な存在――カグラ。その後ろには11番のデュークが続き、静かながらも圧力のある雰囲気が周囲を包み込む。


カグラはまっすぐレイトキを見つめ、澄んだようでいて深い眼差しを向ける。はっきりとした口調で、核心に触れるように語りかける。


「ワタシはEXのカグラだ。ジョーカー……いや、レイトキ、だったね。本当はお前、自分自身のことに気づいているんでしょ? ただまだ答えを出すことを恐れて、気づいていないふりをしているだけ。本当はもう自分なりの答えを出せる力があるはずなのに、今はただ心が揺れているだけなんだ」


その言葉は、まるでレイトキの内側に隠れた部分を直接見透かすような響きを持っていた。


続いて隣に立つデュークが前に出て、低く力強い声で問いかける。


「なあ、お前。『心』って何だと思う? ただ怒ったり、哀しんだり、楽しんだり、驚いたり、嫌がったり、欲しがったりするだけの反応の集まりだと思っているのか?」彼は少しだけ間を置き、周囲を見渡してから再びレイトキに視線を戻す。

「俺は違うと思うな。そういった感情はあくまで表面に現れる『兆し』に過ぎない。本当の心とは、それらを受け止め、選び、自分なりの意味を見つけ、何が正しく何を捨てるかを決める――そういう『自分自身であるための核』のことなんだ」次々と異なる立場と考えを持つ実験体たちが集まり、レイトキの前には、これからの自分を形作るための数多くの問いかけが、一度に突きつけられていた。多くの言葉と考えを浴びせられたまま、レイトキは他の実験体たちに別れを告げ、自室へと戻ってきた。扉が閉まり、外部と遮断された空間に入ると、先ほどまでの緊張感が少しずつ和らいでいく。彼はベッドに腰を下ろすと、壁面に備え付けられた小型のテレビを点け、次に棚に置かれたいくつかの本を手に取った。施設が用意した一般的な教養書、歴史の記録、自然の仕組みについての解説書――自由こそないものの、外部の情報や知識に触れる手段は与えられていた。感情プログラムが定着し、件の因子が心の受け皿として機能し始めた今、彼はただ文字や映像を流し見るだけではなく、そこに込められた意味や背景をゆっくりと読み取ろうとするようになっていた。テレビに映る街の様子、人々の暮らしぶり、本に書かれた言葉の一つひとつ――それらはすべて、「感性」や「想像力」といった欠けた部分を補うための、新たな刺激となっていく。「正義は人それぞれ」「心は選ぶための核」「存在する意味は自分で決める」……待機室で聞いた言葉の数々が、本の文字や映像の情景と重なり合い、レイトキの心の中で静かに整理されていく。表情はまだ完全に柔らかくはないが、その瞳の奥には、以前のような無機質な空白ではなく、少しずつ何かを理解し、感じ取ろうとする光が宿り始めていた。こうして彼は、与えられた環境の中で、自分なりの時間を過ごしながら、レイトキとしての自分を築き始めていくのだった。翌朝、レイトキは再び広い防護壁に囲まれた戦闘試験場へと連れてこられた。


今回は合成獣ではない。向かい側の扉が開き、姿を現したのはフィーアだった。二人の間には監視カメラと魔力測定装置が並び、観測室から研究員たちが固唾を飲んで見守っている。

フィーアは手のひらに淡い闇色の力をまとわせながら、冷ややかな視線を向ける。

「貴方が相手ですか」レイトキは無表情のまま、はっきりとした声で応じる。

「そうだ。だが、いちいち確認するまでもない。定められた実験なら、ただやるべきことをやるだけだ」彼女は少しだけ口元をゆがめ、レイトキの体を見定めるように目を細める。

「お前に注入された因子の情報は事前に調べてある。角端とエインヘリアルだろう?角端は伝説の霊獣・麒麟の近縁種で、俊敏さと回復力に長けている。そしてエインヘリアルは戦闘に特化した亜人種族――つまり、お前は速さと持続力を軸に作られた型だというわけだ」レイトキは黙って自分の体の内側に流れる力の感覚を確かめる。確かに、手足には他の実験体よりも軽やかな力が満ち、少し傷ついた程度ならすぐに熱を帯びて修復されていくのが分かる。

「ならば私の方も、力を抑えすぎるわけにはいかない」フィーアの周囲の空気がわずかに震え、黒い靄のような魔力が地面を這い始める。

「実験体同士の戦い――どちらの設計が優れているか、はっきりと見せてもらうわ」試験場のスピーカーから開始の合図が響き渡り、二人の間に緊張感が一気に高まった。レイトキは感情こそまだ淡いものの、これまでにない同じ立場の相手と戦うことで、自分自身の力の輪郭をより鮮明に感じ取り始めていた。開始の合図が響くや否や、フィーアの姿がぼやけるほどの速さで動いた。一気に距離を詰め、鋭い回し蹴りをレイトキの胴体目がけて叩き込む。

ドンッ!

確かに足は彼の体に触れ、衝撃も伝わってきた。だが次の瞬間、フィーアは違和感に眉をひそめる。硬いはずの体に当たった感触が、まるで厚いゴムの壁を蹴ったように、力が吸収されて跳ね返ってくるだけで、芯まで届かないのだ。

「なっ!?これは一体……!?」驚きに一瞬反応が遅れた彼女の耳元に、レイトキの声が別の方向から届いた。

「どこに攻撃してる?俺はこっちだ」

はっと振り返ると、さっきまで立っていた位置には残像が残っているだけで、レイトキはすでに数メートル横へと移動していた。彼は静かに地面に手のひらをつける。次の瞬間、床の石畳の隙間から闇色の太い触手が次々と生え上がり、まるで生き物のようにうねりながらフィーアの手足、胴体へと絡みついていく。

「くっ……!こんなものがまだ隠されていたのか!」抵抗しようと力を込めても、触手は彼女の動きに合わせて締め付けを調整し、逃れる隙を与えない。観測室のモニターでは、レイトキの体内からスターヴァンパイア由来の能力が発動し、角端の耐性が攻撃を無力化している様子が数値としてはっきりと表示されていた。レイトキは無表情のまま、淡々と状況を口にする。

「速さだけでは読み負ける。因子ごとの性質を理解し、組み合わせて使うのが、俺の型だ」実験体同士の戦いは、単なる力比べではなく、それぞれに埋め込まれた「設計図」同士のぶつかり合いでもあったのだ。レイトキは指先をわずかに動かすだけで、地面から伸びた触手の数と太さ、そして締め付ける力を一気に高めていく。


うねりながら巻きついていた触手は、次々と新たなものが重なり合い、フィーアの体を何重にも包み込んでいく。関節の動く隙間すらなくなり、皮膚には圧迫による赤い痕が浮かび上がるほどだ。


「うわあぁぁぁーっ!」


息が詰まり、骨が軋むような圧力に、フィーアは初めて声を上げて苦しみを漏らした。先ほどまでの余裕や挑発的な態度は跡形もなく、ただ拘束される痛みと自由を奪われる恐怖だけが全身を支配していく。


だがレイトキの表情には、勝利の喜びも相手を痛めつける快感も一切浮かんでいない。あくまで実験の手順通り、「相手の動きを完全に封じる」という目的だけを淡々と果たそうとしているだけだ。

「動きを封じ、力の発動経路を圧迫する。これ以上抵抗する余地はないはずだ」平坦な声が試験場に響き、観測室からは「制圧完了、成功率100%」という機械的な報告が流れてくる。フィーアは歯を食いしばりながらも、自分が完全に上回られたことを痛感せずにはいられなかった。同じ実験体であっても、設計の違いがこれほどまで明確な差を生み出すことを、身をもって思い知らされた瞬間だった。スピーカーから無機質な判定の声が響き渡る。

「戦闘実験、終了。勝者はJOKER――制圧完了、戦術的優位性確認」それと同時に、レイトキの意思に応じて触手は緩み、地面へと吸い込まれるように消えていく。力が解かれたフィーアは膝をつき、荒い息を吐きながら彼を睨みつけていた。レイトキはその場に立ったまま、まだ闘気の残る手のひらを静かに握りしめる。感情の起伏は薄いままだが、その瞳の奥にははっきりとした決意の光が宿っていた。彼は低く、だけど力強い声で自分自身に言い聞かせるように呟く。

「自由を得られようが得られまいが、力は必要だ。この施設の中でも、外の世界に出たとしても、自分の意思を貫き、何かを守り、何かを選ぶためには、力がなければ何も始まらない」彼は顔を上げ、天井の向こうにある未知の外の世界を見据えるように視線を向ける。

「だから俺は、これからも強くならなければいけない。与えられた設計図のままではなく、自分自身のために、力を高め続ける」この戦いは単なる実験データの収集に過ぎなかったが、レイトキにとっては「強くなる理由」を自分の言葉で定める、最初の一歩となったのだった。判定が下され、拘束が解かれた後も、フィーアは膝をついたまま、荒い息を整えながら鋭い視線をレイトキに突き刺し続けていた。やがて立ち上がると、体に残った痛みも押し隠し、はっきりとした怒りと疑問のこもった声で問いかける。

「お前は一体何を求めているんだ? この力を何のために使おうとしている?答えろ!JOKER!!」だがレイトキは、その鋭い問いに対して何も答えなかった。表情も声も変えることなく、ただ静かに体の向きを変えると、試験場の出口へと向かって歩き始める。呼び止める声が背後から追ってくるのを聞き流し、彼は無言のまま扉をくぐり、通路の奥へと姿を消していく。まだ自分の中に確かな答えが固まっていないからこそ、彼は口を閉ざしたのかもしれない。だがその背中には、「自分なりの答えを探し続ける」という静かな意志だけが、はっきりと表れていた。試験場には、置き去りにされた問いかけと、納得のいかない表情のフィーアだけが残されていた。通路を自室へと戻る途中、待機室の前で久美子が待っていたように立っていた。


彼女はレイトキの足音に気づくと、柔らかい笑みを浮かべて手を振る。


「レイトキ……いや、親しみを込めてレイくんって呼ぶわね」


彼が立ち止まるのを見て、少し歩み寄り、先ほどの試験での様子を思い浮かべるように話し始める。


「君はまだ、自分の進む道や何を求めるのか、迷ってるんだよね。でも、今はそれでいいんだよ。焦って答えを出す必要なんてどこにもないんだから」


彼女は空を見上げるように視線を上げ、瞳に希望の光を宿らせながら続ける。

「ワタシには、ちゃんとやりたいことがあるの。いつかこの施設を出て、外の世界に行って、いろんなことを経験したい。例えば困っている人を助けたり、周りの人たちを笑顔にできるようなことをしたいの」少し照れくさそうに頬をかき、明るい調子で付け加える。

「アイドルになってみるのもいいし、何でも屋みたいに色んな仕事に挑戦するのも面白そうだなぁ。自由な場所で、自分の好きなように生きてみたいって、そう思ってるの」レイトキは無表情のまま静かに聞いていたが、心の奥にある空白の部分に、久美子の言葉が柔らかく染み込んでいくのを感じていた。自分とは違う、はっきりとした夢と希望が、少しずつ彼の中にも新たな視点を与え始めていた。レイトキはまっすぐ久美子を見つめ、はっきりとした口調で応える。

「ノイン……お前は自分のやりたいことを、もうはっきりと決めているんだね。だけど、そんな願いを本当にかなえるためには、一人だけの力では到底できないことなんだろう」久美子は少し胸を張り、自信に満ちた笑みを浮かべて答える。

「そうなの。だからこそ、この施設の外に興味を持ち、自由を望む連中に声をかけて、少しずつ仲間を集めているところなのよ」だがその言葉が終わるか終わらないかのうちに、二人の背後から落ち着いた低い声が響いてきた。

「ずいぶん楽しそうな話をしていますね」振り返ると、そこには穏やかな雰囲気をまとった少年が立っていた。彼は一歩前に出て、軽く会釈するように続ける。

「ああ、初めまして。俺はドライです。JOKER……いや、レイトキ、と呼んだ方がいいんでしょうか?」レイトキは表情を変えることなく、淡々と答える。

「どっちでも構わない。お前が呼びやすいように呼べばいい」その短い返事に、ドライは柔らかく口角を上げ、これから始まる新たな関係を予感させるような眼差しを向けるのだった。

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