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第三話 領内の状況

 ロセリアが書斎で机に向かっている。

 この光景を見た時、ロッテは我が目を疑った。近所の猫が逆立ちした時以来である。彼女がこの屋敷に仕えるようになって、早一年。執事のクラウスにせっつかれ、しぶしぶ仕事をしている姿ならば月末になるたびに見てきたが、自主的に書類を整理しているロセリアなど始めてだ。思わず、彼女は持っていた水差しとコップを取り落としそうになってしまう。


「お、おはようございます。……珍しいですね、朝からお仕事をなさるなんて」


「まあね、眠れなかったから。水はここに置いといて」


 ロセリアは机の端をぽんぽんと叩いた。ロッテがそこにコップを置いて水を注ぐと、彼女はすぐさまそれを手にする。よほど喉が渇いていたのか、ロセリアはコップを一気に傾け、喉を鳴らした。ごくごくと景気の良い音が響く。水が飛沫を上げて渦巻き、すぐさまコップが空になった。


「ふう、おいしい!」


「ありがとうございます。もう一杯、用意しましょうか?」


「要らないわ。それより、クローニを連れて来てくれない?」


「……クローニ様ですか?」


 『さっぱり意味がわかりません』とロッテの顔には書かれていた。青いクリスタルの瞳には疑問符が浮いている。けれど、ロセリアはそれをあえて無視した。とても、ロッテに説明できるような事情ではな。


「そ、早く連れてきて」


「わかりました」


 腑に落ちない顔をしながらも、ロッテは書斎を出て行った。それから数分後。彼女はクローニを胸に抱えた状態で戻ってくる。エプロンドレスの谷間から覗く、溢れんばかりの柔肉の渓谷。それに顔を埋めたクローニの顔は、芯から緩み切っていた。赤ん坊だと思えば微笑ましく見ていられるが――その中身が妄想でいっぱいの青年男子だと考えるだけで、ロセリアは頭が痛い。彼女は額に手を当てると、すぐさま魔力を込めた念話を送る。


『あんたねえ……どんだけだらしない顔してんのよ』


『いいじゃないか。赤ん坊の特権だ』


『はいはい、戯言はここまで。さっさと仕事するわよ』


 ロセリアは念話を打ち切ると、クイッと手招きをした。衣擦れの音を響かせながら、静々とロッテが歩み寄ってくる。彼女は脇に控えたロッテからクローニを取り上げると、用意していたおんぶ紐で彼の身体をしっかりと縛った。


「んっしょっと!」


 背負ってみると、意外なほどクローニの身体は軽かった。手で抱きかかえているよりもはるかに楽である。紐が少し細過ぎたせいか、肩に食い込んでしまうのが少々難点だが、それ以外は動くのに全く不自由はない。軽く揺らしてみるが、ずり落ちてしまうこともないし、ほぼ完璧な仕上がりである。


「思ったより具合がいいわね。これなら続けられそうだわ」


「あの……僭越ではございますが、クロ―ニ様のお世話でしたら私が」


「いいのいいの、気にしなくて。私が好きでやることなんだから」


 ロセリアはそう言うと、不敵な笑みを浮かべた。彼女の青い瞳は蟲惑的な輝きに満ちていて、有無を言わせぬ何かがある。仕方なく、ロッテはクローニの方へ伸ばした手を引っ込めた。


「はあ、さようですか」


「もうロッテは下がってていいわよ。厨房に行って、クラウスと一緒に食事の準備でもしてて」


 ロッテは一礼すると、足早に歩き去って行った。扉がギイッと音を立て、その向こうへと足音が遠のいていく。そうしてクローニと二人きりになったロセリアは、早速、まとめていた書類を彼に見せた。


『わかる?』


『ああ、大体なら』


『なら大丈夫そうね。早速見ていくわよ』


 ロセリアは机の上に書類をざっと広げた。クローニは彼女の肩から顔をのぞかせると、その一枚一枚に眼を通していく。まずは一枚目、クローニの眼が細くなった。続いて二枚目、眉間にしわが寄った。そして三枚目、小さな口が呆れて半開きになった。


『おい、やばくないか? 明らかに税収と支出が噛み合ってないぞ』


 ヒースフェン領の財政は、税収に対して支出があまりにも多かった。クローニは簿記や会計についてはほぼ素人だが、そんな彼が見てもすぐわかるほどの赤字状態である。白い書類が赤く見えるような錯覚さえ、彼は感じてしまった。倒産寸前の中小企業とて、ここまでひどくはないに違いない。


 ロセリアは彼の指摘にうッと声を上げたが、すぐに書類の山から一枚の紙を引っ張り出してきた。彼女はそれをクローニに見えやすいように広げる。


『ぎりっぎりだけど……大丈夫よ。ほら、これ見て』


『辺境支援金? なんだこりゃ』


『国から補助金が下りてくるの。税収とは別会計になってるからややこしいけどね』


『地方交付金かよ……。これ、減らされたりはしないよな?』


『それは大丈夫。毎年五億シルバーずつ必ず入るから』


 クローニはここでかつての故郷を思い出した。彼が生まれ変わる前に住んでいた町は山間にあるひなびた田舎だった。交通手段といえば一時間に一本の電車のみで、主要な産業は農業。それも最近では高齢化が進んで危機的状況にあった。町の財政は当然火の車で、国から下りてくる補助金でどうにか息をしている。まさに、今のヒースフェン領とほぼ同じ状態である。


『うーん、今は大丈夫だとしても将来的にはかなりヤバいだろ。災害とか起きたらひとたまりもないし』


『そうなのよね。ちょっとずつだけど転出超過だし。ただ、産業とか興しようがないのよ』


『土地はあるんだろ? 普通に農業とかやればいいんじゃないか?』


 クローニは窓の外へと視線を投げた。彼の眼にたちまち青々と広がる草原の風景が飛び込んでくる。草が少々深く根を張ってしまっているかもしれないが、起伏もほとんどないので、開墾すればすぐに農地として使えそうだ。この地域は気候も穏やかで降水量もあるので、作物がたくさん取れる豊かな畑が出来るに違いない。


 こうして目を輝かせるクローニに対して、ロセリアはわかってないなあとばかりに首を横に振った。


『超高魔圧地帯なのよ、ここは。今時機械なしで農業やるなんてもの好き、早々居ないわ』


『なんだよそれ、よくわからん』


『ああ、そういえばクローニは生まれてからずっとここに居たんだったわね。ならわかんないか』


 ロセリアは席を立つと、執務机の棚をがさごそと漁り始めた。やがて彼女は青い手のひら大の箱を取り出すと、その中から碧に輝く小さな石を取り出す。光を反射して煌めくそれは、小指の先より少し大きいぐらいのサイズで、綺麗な六角形に加工されていた。


『これは魔放石って言うものよ。これから放出される魔力を使って、いろいろな魔放機械を動かすことができるわ。例えば車とか、冷蔵庫とか。他にもたくさん種類があるわ。ただこれには一つ欠点があってね。周囲の魔圧が石の内圧より高いと魔力を放出できないのよ』


『へえ、電池みたいなもんか。それで?』


『うちの領地の平均魔圧は一万。それに対して、一般的な魔放石の魔圧はせいぜい千。この意味、おわかり?』


『…………ひでえ!』


 クローニの前世でたとえるならば、電力が使えない地域と言えばわかりやすいだろうか。電線や設備が不十分などというのではなく、電力という存在そのものが使用不可能な地域なのである。文明に慣れた彼にとっては、未開拓の辺境というよりも、もはや宇宙か南極のような極限環境にさえ思える。


『だから産業なんておよそ無理なのよ』


『むしろ、よくこんなところに人が住んでるな。もしかして流刑地か何かか?』


『失礼ね、違うわよ! この領地のすぐ隣に魔森が広がっててね。ここに誰か住んでないと、それがどんどん浸食するの。だから国が莫大な補助金を出してまで、ここに人を住ませようとしてるってわけ。魔圧も、あと百年もすれば正常に戻るしね』


『……国家百年の計ってことか。ハンッ、こっちとしてはたまったもんじゃねえな』


『そう言ったって、いまさら仕方ないでしょう。それよりいいアイデア考えなさいよ。あんた転生者なんでしょ、転生者!』


『無茶言うなよ、いくら転生者だってできることとできないことがあるんだ。チートじゃねーんだし。……そうだな、もっと情報があれば何とかアイデアが浮かぶかもしれない。俺を外へ連れてってくれないか?』


『別にいいけど……うーん……』


 ロセリアは顎に手を当てると、逡巡したのちあまり浮かない顔をした。


『何か困り事でも?』


『クラウスを説得するのがめんどくさそうだなーって』


 クラウスというのは、この家の執事としてロセリアがヒースフェン領にやってきた当初から付き従っている初老の男である。元はフズ村で小さな雑貨屋を営んでいた者だが、昔は大商人の元で付き人として働いていたらしく、執事としての仕事をほぼ完璧にこなしていた。物腰は柔らかで基本的には温厚な人物であるが、芯は一本通っているため、自由すぎるロセリアとは時々対立をしている。新米領主でまだ十代のロセリアからすれば、小うるさいじい様のような存在だ。


『真面目に説得するしかないだろ。まさか俺が転生者で云々なんて言うわけにもいかないし』


『そうよね。でもま、大丈夫か。最悪抜け出せばいいし』


『おいおい、抜け出すって……。あんた、仮にも領主様だろ?』


『問題ないわよ。私に手を出そうとした奴は灰にしてやるんだから。あ、言っとくけどあんたも例外じゃないわよ』


『誰が手を出すか!』


『そうかしら? 胸に顔を埋めてだらしない顔してた奴は信用ならないわね』


 ロセリアは悪戯っぽく笑うと、胸元をパンっと叩いた。豊かに隆起した膨らみがふるふると震える。ロッテほどではないがたわわに実った果実は、クローニが顔を埋めるには十分すぎる大きさだった。彼は思わず顔を赤くすると、とっさに彼女から眼を逸らしてしまう。


『あれは勢いだ、その場のノリってやつだよ!』


『どうだか』


『だから違うって――』


 トントンっとノックの音が部屋に響いた。ロセリアとクローニは慌てて崩れていた姿勢を正す。肩越しに書類を覗くという行為に無理があったせいか、特にクローニは盛大に着崩れてしまっていた服を慌てて整えた。


「ロセリア様、お食事の準備ができました」


「御苦労さま」


 ロセリアは席を立つと、扉の脇に控えていたロッテを引き連れ、食堂へと向かう。頭の中は既に食事のことでいっぱいなのだろう。廊下を歩いている最中、彼女はクローニに念話を送ることはなかった。結果としてロッテに助け船を出されたような格好となった彼は、やれやれと息をついたのであった――。


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