第二話 約束
唖然とした顔をして、赤ん坊は読んでいた本をパタリと倒してしまった。ロセリアは瞼をごしごしとこすると、机の上にいる者が赤ん坊であることを再度確認する。目を細め、もう一度視線を下から上へ。芋を思わせる丸い手足、ずんぐりとした胴体、短い首からつながる大きな頭……間違いなく、赤ん坊である。
――魔森の奥で赤ん坊を拾ったわ。私には育てられないから、よろしく頼むわねェ。
ふらりと屋敷を訪れた魔導師フェルナは、そう言ってロセリアに赤ん坊を預けて行った。ついひと月ほど前の、雨の日のことである。フェルナとは魔法塾以来の知り合いであり、それなりに彼女の事を信用していたロセリアは、彼女の置いて行った赤ん坊を仕方なくではあるが育てていた。
赤ん坊の名はクローニといった。大人しくていい子だと、世話をしているメイドからの評判も良い。彼女自身も、特に癇癪を起こすこともなく聞きわけの良いクローニのことは、特段嫌いではなかった。むしろ、押しつけられたことによる苛立ちが収まった今では、可愛がっていると言ってもいい。そんな赤ん坊が、一体どうして――ロセリアの胸にむくむくと疑問が沸き起こる。
「あんた、何者?」
「オギャア! オギャア!!」
「今更泣いても無駄よ! 私はあんたがしゃべってるところを、この耳でしっかり聞いてるんだから!」
泣き声が止んだ。
ロセリアは床を蹴ると、一気にクローニとの間合いを詰める。刹那、彼女はその小さな身体に手を伸ばすと、顎を持ち上げて首元をがっしりと掴んだ。細く鋭い瞳が、彼の引き攣った顔を見据える。
「正体を言いなさい! いますぐ!」
「ああッ! わかったわかった! 言う、言うから手を離せ!」
「ふん……」
ロセリアは手を離した。自由になったクローニはその場に倒れると、ゴホゴホと咳をする。
「……俺はただの転生者だよ。前世の記憶があるんだ」
「あんたまさか、輪廻魔法を使ったの!?」
魂を肉体から肉体へと移しかえることにより、半永久的に生き続ける外法『輪廻魔法』。
かつて大陸を支配した魔女がこの技を究め、数千年にも及ぶ年月を生きたとされるが、古代文明の崩壊とともに失われた古の魔法だ。王国によって七大禁術の一つに指定されており、もし使えたとしても実行した者はあらゆる手段を用いて殲滅されると定められている。
ロセリアの眼がさらに鋭さを増す。猛禽を思わせる刃のような視線。たまらずクローニは、違う違うとばかりに首を振った。彼は背中を反らせて執務机の上から落ちそうになりながらも、必死に言葉を紡ぎ出す。
「俺は別に危ないこととかしてねえから! トラックに跳ねられたら赤ん坊になってたんだよ!」
「トラック? なにそれ?」
「そういや、この世界にはトラックなかったな……。えっと、馬なしで走る箱馬車みたいなやつだよ」
「魔放車のこと? それならそうと言いなさいよ」
「魔法じゃなくて科学だ。俺は魔法のない別の世界から来たんだ!」
知識欲しか頭にない、魔導院の学者たちならば好みそうな話であった。
ロセリア達が今いる世界とは別の世界が存在するという学説は、実は非常に古くから存在し、研究の対象となってきた。が、それはあくまで学問上の話。現在のグリード大陸に異世界から人間がやってきたなどという痕跡や記録は、小さな足跡一つ残されていない。かつて大陸にいたとされるエルフやドワーフと一緒で、異世界人などおとぎ話にしか出てこない存在だ。
あいにく、ロセリアは現実主義者だった。彼女は大きくため息をつくと、呆れたように肩を落とす。
「はあ……。じゃあさ、あんたは異世界から来たってわけ? それならさ、元の世界のことについて詳しく話して見なさいよ」
「ああ、いいぜ。俺が居たのは地球の日本って国で……」
クローニは驚くほど流暢に、異世界についてのことやそこでの自身の生活などを語り始めた。ロセリアは問い詰めればすぐにボロを出すだろうと思っていたが、全くそのような気配はない。彼女は話の途中、何回か質問をぶつけてみたが、回答は常に早くて正確。その場で『設定』を考えている様子などはなかった。あたかもこの赤ん坊の小さな脳には、本当に別の世界の思い出があるかのようだ。
――出まかせではなさそうね。もし適当に言ってるとしたら、こいつ天才だわ。
ロセリアは思わず舌を巻いた。それと同時に、彼女の頭の中で一つのアイデアが生まれる。閃光のように現れたその考えは、たちまち具体化し、はっきりとした実体を持った。
「……わかった、一応だけど信じてあげるわ。あんたの面倒も、大きくなるまで私が見る」
「おお!」
「ただその代わり、私のブレーンになってくれない?」
「………………はいッ!?」
クロ―ニにとっては、まさに青天の霹靂というべき事態だった。彼は思わず痰をのどに詰まらせて、ゴホンと咳をする。
「いや、俺ただの一般人だぞ? 内政とかそんなことやったことないし……」
「あんた、話を聞いてれば大学に通う学生だったそうじゃない。なら、多少は知識とかあるでしょ?」
「けどなあ……俺の大学って駅弁だし、学部も文学部だし。小説の資料集めで多少は調べたことあるけど、役に立つかどうか」
「ええい、ぐずぐず言ってないでなればいいのよ! 追い出すわよ!」
ロセリアの身体から魔力が溢れた。赤黒い炎を思わせる光が全身から立ち上る。それを目にしたクローニの背筋がたちまち凍てつき、額に汗が浮かぶ。
「OKOK! なるよ、なるから落ち着け!」
「わかればよろしい」
ロセリアの口元がニッと吊りあがり、目尻に細い皺が寄った。その様子は、いたずらに成功した小悪魔の様である。とっさにクローニは騙されたと思ったが、もうあとの祭りだった。
「さてと、それじゃパスを開かないとね。このまんまじゃ人前で話せないし」
「パス?」
「こういうことよ」
クローニの額に、白い指が突きつけられる。パチッと静電気のようなものが、彼の額を走り抜けた。それと同時に、氷を口へ放り込んだような鈍い痛感が、脳全体へと染み渡る。
『もしもし、聞こえる?』
痛みが治まると、脳に直接声が響いてきた。テレパシーか何かだろうか。クローニはぼんやりする頭を手で押さえながら、ゆっくりと返事をする。
『聞こえるぞ。なんだこれ、念話か?』
『そうよ。へえ、あんたの声ってこんな感じなんだ。割と良い声じゃない』
ロセリアの脳内に響いたクローニの声は、二十歳ほどの青年のようだった。テノールを思わせる声色はやや高めだが発音がはっきりとしていて、非常に聞き取りやすい。舌足らずな現実の声とは大違いである。
『念話ができるって、結構優秀な魔導師だったんだな』
『あんた、私について何も知らなかったの? こう見えても超一流の天才魔導師なんだから』
『……自分で言うか、それ』
『良いじゃない事実なんだから。そんなことより……あれ?』
心地よさそうな寝息が聞こえた。
おやっと思ったロセリアが視線を上げてみると、クローニが気持ちよさそうに机の上で横になっている。鼻ちょうちんを作ってすうすうと寝息を立てている彼は、もうすっかり寝入ってしまっているようだ。ロセリアはゆっくりと手を伸ばすと、その肩を大きく揺さぶる。
「どうしたのよ」
「……すまん、おねむだ」
そういうとクローニは再び目を閉じてしまった。
ロセリアが壁掛け時計に眼をやると、既に時刻は十二時を回っている。窓の向こうでは、青白い月が遥か中天に昇っていた。普通の赤ん坊ならば、とっくの昔に横になっているべき時間だ。むしろ今まで良く起きていたと言うレベルである。
「ったく、仕方ないわね……」
ロセリアは散らかっている本を一瞥すると、やれやれとばかりに手を挙げた。彼女は本を棚へと戻すと、寝息を立てているクローニをそっと抱き抱える。そしてそのまま、彼を隣の部屋のベビーベッドまで運んだのであった――。




