帰り道
路地裏から表通りに出ると、驚いたことにまだ10分しか経っていなかった。
恐怖は時間感覚を狂わすと、ナサニエルに身を持って知った。
エヴェデールはナサニエルをベンチに腰掛けると、自分はスカートが汚れることも気にせず地面に座り込んだ。
そして、しげしげとナサニエルの怪我の具合を見てくれる。
「やっぱり顔は冷やさなきゃ…。すごく腫れてる。ハンカチ濡らしてくるから待ってて。口の中はティッシュで押さえてて」
カバンからティッシュを取り出すと、ハンカチを握りしめて走って行ってしまった。
ナサニエルは言われたとおり、口の中にティッシュを詰めて指で押さえた。
明るい場所で見ると、服はひどい有様だった。
土まみれであちこち擦れ、所々破れている。
シャツのボタンはいくつか取れ、血痕が付いていた。
「かっこ悪い…」
いくらエヴェデールが強いとはいえ、見事に助けられてしまった。
アラン達さえ現れなければ、初デートは大成功で終わっていたのに——
通りすがる人がボロボロのナサニエルを見て驚き、心配そうに視線を送ってくる。
でも関わりたくないのか、誰も声は掛けてこない。
(情けない姿を見て、エヴァは落胆しなかったかな…)
気落ちしていると、足早に駆けてくる足音がした。
「ネイト、これ。頬に当てて」
手渡されたハンカチをみると、なんと切り裂いて半分にしていた。
「え?破ったの?!」
「一枚しかなかったから。学校にいけばガーゼがいくらでもあるんだけど…。何度か洗って冷たさをキープしなきゃ。しっかり冷やさないと腫れがなかなか引かないし」
「いや、そうじゃなくて!わざわざ私物をこんな風にしなくても——」
そう言うとエヴェデールは強くナサニエルを見た。
「なに言ってるの!ひどい怪我をしたのよ、ネイト!たかがハンカチ一枚でグダグダ言わないの!」
勢いに気圧されて、ナサニエルは思わず黙り込んだ。
「ほら、じっとして。唇も切れてるんだから」
頬だけでなく唇にもハンカチを当ててくれる。
「グラクラする歯はある?」
首を横に振ると、水を差し出された。これも買ってきてくれたらしい。
「ほら、うがいして」
言われるがまま、ナサニエルはうがいをした。血が混じっていたが、もう出血は止まったようで、口の中は血の味がしなくなった。
唇の血を拭うと、次は膝と腕の血を取ってくれた。
「膝も腕もかすり傷みたい…。帰ったら消毒してね。ちゃんと教員にも事情を説明してよ?学校同士で話し合ってくれるはずだから」
「うん…」
「服は捨てなきゃダメかも…。擦り切れがひどいし…。お気に入りの服だった?」
「いや、そんなことない」
「買った服は無事?汚れたり破れてるなら、あの2人に弁償させないと。ほら、確認して」
促されたが、ナサニエルは動かなかった。
そんなことよりも、気持ちが沈んでいた。
エヴェデールはじっとしたままのナサニエルを心配そうに見上げる。
「どうしたの?やっぱり吐き気する?」
「いや…。そうじゃなくて……」
「なに?めまい?頭痛い?」
「いや、怪我とは関係なくて…」
「じゃぁ何?」
ナサニエルは情けない気持ちを打ち明けるか、葛藤した。男としてのプライドか、エヴェデールを心配させたくない気持ちか——
結局、エヴェデールの不安げな顔と揺れる瞳に負けて、心中を告白した。
「かっこ悪いな、と思って——」
「え?」
「だって…せっかくのデートですごくいい時間が過ごせたのに…。最後になって絡まれてボロボロになって——あまつさえエヴァに助けてもらって、介抱までしてもらってさ…。情けない…」
エヴェデールは顔をこわばらせた。
どこか痛そうに唇を歪めると、
「やっぱり、こんな女の子は嫌だよね…」
呟いた。
「え?」
今度はナサニエルが驚く番だった。
(嫌?何のこと?)
「男の子より強い女の子なんて…。可愛くないよね——」
影を落として沈む表情に、ナサニエルは慌てた。
「ち、違うよ!そんなことない!」
ガシッとエヴェデールの両肩をつかむと、
「助けてくれて嬉しかったよ!カッコよかったし、すごく綺麗な闘い方だった!男なのに戦えない僕を笑うこともしなかった!怪我の心配もしてくれて優しいし、服が汚れることなんて気にせず、手当てしてくれてる!ハンカチだって気にせず使ってくれた!エヴァはすごく可愛くて、優しくて素敵な女の子だよ!!」
呆気にとられたエヴェデールは、じっとナサニエルを見上げた。
「でも……」
「でも——なに?」
「その……スカートでかかと落としをするのはやめたほうがいい…」
「へ?」
「女の子なんだから!スカートの時は禁止だよっ」
顔を赤らめて言うと、エヴェデールは泣き笑いのような表情になった。
そしてくすくす笑った。
「そこなの?」
「だって…」
「うん……うん……そうだね…。スカートの時は、スパッツ履くようにする」
「そうじゃないよ!」
「見えなければいいんでしょ?」
「違うって!スパッツ履いてても、スカートがめくれたら男は期待しちゃうんだって!」
「ネイトも?」
「……」
「見えちゃった?」
「……見てない」
「ふふっ……ふふっ……ふふふふっ」
ナサニエルの表情をみれば、一目瞭然だったのだろう。でもエヴェデールは怒らなかった。
むしろ、
「分かった。スカートの時はスパッツ履いてても、かかと落としはしないよ」
笑った。
ツボに入ったのか、エヴェデールは腹を抱えて肩を震わせている。
どうにも釈然とせず、ナサニエルは「そんなに笑わなくても…」と苦虫を噛み潰したような顔をした。
「ごめんごめん。でも……ネイトはカッコいいね」
「どこが?」
「全部」
なんと返事をすればいいのか、女性との会話経験が少なすぎるナサニエルは何も返せなかった。
ハンカチを頬に当てたまま、釈然としない顔をするナサニエルに、エヴェデールは「ありがとう」と言った。
「私、かっこよかった?」
「うん」
「そっかそっか…。嬉しい」
「……うん」
「ネイトの騎士になれて光栄だよ」
◆
頬の腫れがだいぶ引くと、帰路についた。
あたりは暗くなり始め、学校へと続く石畳の道を街灯の淡い光が照らしている。
コツコツとリズムを刻みながら、そこを2人で歩いた。
手は繋いだままだった。
「あのベルト、エヴァが改良したの?」
「ハーフルナックルのこと?」
「そう」
「我が家の習慣というか…。常に武器を身に着けておけって言われてるの。この髪飾りも、実はナイフになるんだよ?」
「ええっ?!」
ナサニエルはハーフアップにされた髪に付いている白い髪飾りを見た。
「花の部分を押すと隠しナイフが出てくるの。戦闘用というより、ロープを切ったり、手枷を外すくらいしかできないんだけど…。襲われた時の緊急用みたいな小型武器だね」
「もしかして、これでハンカチを切り裂いたの?」
「えっ?……——ああ、うん!そうそう!ナイフでね!もちろんナイフで!役に立ったよ!」
急に慌てだしたエヴェデールだったが、ナサニエルは違うことを考えていた。
最後に買ったシュシュの袋を握りしめる。
渡そうか悩んで、でも手元に置いておくには心残りがありすぎる気がして、仕方なく、くしゃくしゃになった紙袋を突き出した。
「なら……これは隠し武器にはならないかも……」
エヴェデールはきょとんとしつつも、紙袋をガサガサと開けた。
中身は無事で、白いシュシュはスパンコールを街灯に反射させてキラキラと光りながら出てきた。
「エヴァの髪色に似合うと思って…。夏だし、そういう色もいいかなって——」
まじまじと見つめると、
「このスパンコール、ネイトの目の色と同じだね…」
「え?」
言われて初めて気がついた。
そう言われてみれば、確かにアイスブルーのスパンコールはナサニエルの瞳の色と似ていた。
急に体温が上がったような気がして、頭が沸騰しそうだった。
「いや!そこまで考えてなくて!嫌なら捨ててもらっても——」
「そんなことしない」
エヴェデールは花の髪飾りを外すと、手慣れた手つきで髪をひとくくりにした。
思ったとおり、シュシュの白はオレンジブラウンの髪に合い、頭を振るとスパンコールがキラキラ輝いた。
「どう?似合う?」
「うん…」
「これ付けて授業受けるね。校則違反にはならない色だから」
「う、うん…」
「隠し武器には向かないけど、武器だらけにならないようにするには、ちょうどいいよ。他にもブーツとか日傘とかコルセットとか扇子とか、色々あるから」
「そうなんだ…」
知りたくなかったような、知れて良かったような複雑な気分だった。
「それ、エヴァが自分で作るの?」
「うーん…簡単なものはね。でも傘とか髪飾りとかは出来ないから、お抱えの職人に頼むの。家の武器や防具を設えてくれる職人にね」
そんな技術まであるのか。
さすがは代々続く武人の家系だ。
「すごいね。その職人、腕が良さそう」
「うん。でも高齢だから、後継者をそろそろ育てないといけないんだけど…親方のお眼鏡にかなう人がなかなかいなくてさ…」
「ああ…職人気質な人はこだわりがあるものね」
「そうなの。ネイトの周りでいない?」
「うーん…会長——父さんに聞いてみれば、もしかするかもしれないけど…」
「ほんと?!」
握った手をグイッと力強く引っ張られる。
期待に満ちた顔に見上げられ、ナサニエルは一気に惹きつけられた。
細い指に柔らかい腕。髪から香る華やかな匂い。大きなヘーゼル色の目。日焼けした健康的なハリのある肌。ふっくらした唇。
キスできそうな近さにエヴェデールの顔がある。
「う、うん」
「やった!お父さんから返事が来たら教えて!」
「分かった」
ドキドキする心臓をなんとか抑え込み、抱きしめたい邪な気持ちを無視した。
もうすぐ分岐路だ。
あそこさえ通り過ぎれば、この本能から逃げ切れる。
耐えろ、ナサニエル。
理性を保て……
「明日の乗馬、鞍の設置から全部やる?来週には馬術の試験だし」
「そうする」
「オッケー。あっ!帰ったら傷の消毒、ちゃんとしてね。あと教員に寮長にも、ちゃんと説明してね。明日じゃダメだよ!その服を見せて。証拠なんだから」
「分かってる」
なんとか分岐路まで来ると、2人は立ち止まった。
街灯の真下。
照らされたエヴェデールは名残惜しそうに、さみしげに笑っていた。
「今日は楽しかったよ。最後は…ちょっとアレだったけど——」
「そうだね…。でも忘れられない初デートになったよ」
「確かにね」
繋いだ手を、どちらも離さなかった。
言い訳を探すようなおかしな沈黙が流れる。
また明日——24時間もせずに会えるのに……
こんなにも離れたくないなんて——
「……そろそろ行くね」
「うん」
「おやすみ、ネイト」
「おやすみ、エヴァ」
するりと手が離れる。
心地よかったエヴェデールの体温が離れていく。
カツカツと、軽快な靴音が遠ざかる。
ライトブルーのワンピース姿が小さくなる…。
(見えなくなるまで見届けよう…)
騎士学校の門へと続く角を曲がる時、エヴェデールは一度だけ振り返って大きく手を振った。
ナサニエルも振り返す。
大きく大きく振り替えした。
エヴェデールが振り返ってくれた。
僕がまだ見ていると思って、振り返ってくれたんだ——
それだけで、最後の暴行事件がチャラになってお釣りが来るくらい、気分が良くなった。
怪我なんて痛くない。
明日もエヴェデールに会える。
それだけで体も心も軽くなった。




