愛称
馬術訓練が始まって1ヶ月。
「そうそう。体が一直線になるように意識して…。耳、肩、お尻、かかとが地面と一直線になるイメージだよ。骨盤を立てて……あっ、 背中は反らさないで。オヘソの下に力を入れて、腹筋を使うの……そうそう!体はリラックスだよ」
ナサニエルはエヴェデールに紐で引っ張ってもらいつつではあるが、馬に乗れるようになっていた。
馬に触ることはおろか、近づくことすらできなかったナサニエルにとって、これはかなりの成長だった。
「恋だ」
「恋だな」
地方行政クラスの中でも仲がいいナサニエルの友人、エンレストとラプスは、彼の練習風景を遠目で見ながらそう言った。
「あの色白のナサニエルが、今日はやけに頬を染めているぞ、ラプス」
「発熱じゃないなら、恋だな」
教室では見せない笑顔で、ナサニエルはエヴェデールを見下ろしている。
地方行政クラスのグループワークで、女子生徒3対ナサニエル1人のメンバーとなった時でさえ、あんな表情はしていなかった。
「まぁ、相手がオリビエ嬢なら無理もない…」
「やっかみと嫉妬の視線が凄いけどな」
2人はナサニエルと同じ班になっている男子生徒達を見た。
騎士学生も文官学生も、ナサニエルを射殺しそうな形相をしている。邪念のオーラと呼ぶにふさわしい空気だ。
「うーん…。友として恋は見守るべきなんだが…。正直、あの視線は浴びたくないな」
「でも馬具にイタズラでもされたら、大怪我するかもしれないぞ?」
「そこまでたちが悪いことをするか?授業中だぞ?」
「そうなんだが…。男といえど、嫉妬すると何をするか分からないから…」
意味ありげに言うラプスに、「思い当たることでもあるのか?」と驚きの声を上げた。
ラプスは見目がいい。整った顔立ちで、父は王宮の筆頭文官、爵位は侯爵の身分だ。なのに面倒見がよく、嫌味にも大人な対応でさらりと流すものだから、敵は少ないと思っていたのに。
「ほら、俺、去年婚約したろう?あの時、一悶着あってさ…」
「パティスリー・ジョエル子爵令嬢と?」
「違う違う。パティに好意を持ってた男だよ。幼馴染で仲が良かったって…。パティと婚約するのは自分だと、長年思い込んでたみたいで。俺との婚約が決まった途端、うちに乗り込んできてさ…」
「侯爵家に?!」
声が裏返るほど驚いたエンレストを制するように、
「シーッ!!」
ラプスはとっさに口を押さえた。
2人と同じ班の生徒から、じとりと非難めいた視線を向けられる。雑談しているのを快く思っていない目だ。
「ご、ごめん…」
モゴモゴと言うエンレストに「大声出すなよ」と釘を差す視線を向けると、こくこく頷いた。
同級生の視線が授業に戻ったのを確認すると、ラプスは手を離してくれた。
「そんな話し、初めて聞いたぞ?!」
小声で詰め寄るエンレストに「父上から口止めされてたんだ」と、ラプスも小声で返した。
「解決する前に良からぬ噂が広がったら全員が困るから…」
「……それほどの相手、ってことか?」
「——公爵家なんだ…」
「まさか…ケイオスか?」
黙って頷くラプスを見て、「うわぁ…」とエンレストは同情の視線を向けた。
ケイオス・オーガスト・ビオーレ。
公爵家長男であるが15歳にして女性グセが悪いとされ、廃嫡の危機にある令息だった。
「幸いにも王立学校に通ってるから、ケイオスは寮生活でさ。俺もパティもこっちにいるから、俺たちに大した被害はなかったんだが…。実家には苦情の手紙だの、嫌がらせの贈り物だのが届いて、いろいろあったらしい」
「幼馴染って…。ジョエル嬢とはそんなに親しかったのか?」
「いや…。幼い頃、親の仕事の都合で数回顔を合わせただけみたいだ。特に家同士での婚約の話もなくて、ケイオスの一方的な思い込みだな…」
「よくケイオスが引っ込んだな」
「スーザン・マルティン嬢が間に入ってくれたんだ。公爵家には公爵家…パティと親友で助かったよ…」
はぁ…と深い溜息を漏らすラプスは、珍しく疲れた顔をしていた。
(どんなに課題レポートを出されても、厄介事を頼まれても表情を崩さないラプスが、溜息をついてる…)
相当にゴチャゴチャしたのだろう。
思い返せば1年前、何かと実家に帰っていたと思い至り、エンレストは気の毒になった。
「婚約の準備だと思っていたのに…。実は大変だったんだな」
「まぁな…。これまで言えずにすまなかった」
「それはいいんだが……あとでナサニエルにも教えてやれよ」
「分かってる。まぁ、そんなわけで、男と言えど嫉妬に駆られると何をしでかすか分からないんだ。ましてや、今年から実家通いの生徒も全員寮生活になった」
文官学校では実習が始まる5年生を前に、実践的な授業が増える。そのため環境を同じにするべく、4年生から寮生活が始まるのだ。
「授業とはいえ、ナサニエルに危害を加えようとする輩はいるかもしれない」
経験があるラプスが言うと、重みが違う気がしてきたエンレストは、馬上にいるナサニエルを見る。
「ケイオスほど女遊びが酷い生徒がいないと信じたいけど…。ナサニエルには身辺に注意するよう伝えておこう」
「だな。俺たちも目を光らせよう。友人の恋は応援しないとな」
友人2人が温かい目と気持ちでいることなどつゆ知らず、ナサニエルは馬から降りようとしていた。
エヴェデールに補助してもらい地面に降り立つと、
「かなり良くなったね」
にっこりされた。
「ありがとう。オリビエ嬢のおかげだ」
「坐骨(お尻の骨)で体重を支える感覚を覚えるといいよ。毎晩股関節のストレッチもして、脚や膝に余計な力が入らないようにすると騎乗姿勢を体が覚えるから、もっと安定してくるはず」
「分かった」
さり気なくやることが増えたのだが、ナサニエルにとってはエヴェデールの提案を蹴る選択肢などない。
「筋トレも回数増えてるし、筋肉ついてきたんじゃない?」
エヴェデールがまじまじとナサニエルの体を見る。
「そうかも…」
週に一回、鏡でボディチェックしているナサニエル自身も、体つきが変わってきたと思っていた。
腕が太くなったし、ズボンも緩くなった。
「朝の目覚めが良いし、疲れにくいんだ」
「うんうん!歩く姿勢も良くなったしね。体幹が整ってきた証拠だよ!机仕事する時も下腹部に力を入れてね。姿勢よく書き物ができるし、肩コリと腰痛予防になるよ!」
自分事のように嬉しそうに笑うエヴェデールは、可愛かった。
(こんなヒョロヒョロ文官に親身になってくれるなんて…いい子だな)
ナサニエルはエヴェデールへの恋心を自覚していたが、周囲もそれに気がついているとは思っていなかった。
エヴェデールと話す時、どんな表情をしているのか。
どんな優しい声になっているのか。
相手と話している自分を客観的に見ることは難しい。
それでも男子学生からの視線を集めていることは気がついていた。
(見た目弱々しい僕が、こんな美人にちやほやと目をかけられてちゃ、仕方ないよな…)
色白のナサニエルは、キャラメル色の色素薄い髪色も相まって、病弱と思われがちだ。実際にはそんなことないのだが、出会って間もない頃は皆から体調を心配されることが多い。
(風邪も滅多に引かない丈夫さなんだけど)
エヴェデールはどう思っているだろう。
儚げに見えるから、少しでも体力をつけてほしくて筋トレに付き合ってくれているんだろうか?
そう思うと筋トレが日課になりつつあるナサニエルの心はソワソワした。
(もう大丈夫と思われたら、こんな親しげに話してくれることはなくなるんだろうか…)
ズキン、と痛む心がある。
(妄想だけで傷つくとか…。重症かもしれない…)
まだ出会って1ヶ月なのに、ナサニエルの中でエヴェデールは大きな存在になっていた。
恋に落ちるのに、時間は関係ない。
隣を歩くエヴェデールを見て、ナサニエルはそう痛感していた。
15才は貴族として、婚約者を見つける時期に入っている。
そしてナサニエルにも、実家から「学校でいい人はいないのか」と手紙が来ていた。
(卒業までに相手を見つければいい。僕にはそこまで多くの縁談は来ないだろう…。でも——)
午後の太陽に眩しく光るエヴェデールの姿。
(彼女は引く手数多だろうな)
エヴェデールに婚約者ができたとは聞かない。もしそうなれば、騎士学校だけでなく、文官学校にも噂は広がるだろう。なにせ高嶺の花だ。
筋トレを教えてもらっているはいえ、特別な立ち位置にいるとは思えない。なにせ出会って1ヶ月だ。相性どころか、名前で呼ぶ仲にもなっていない。
(そろそろエヴェデールと呼びたいけど…きっかけが分からない…)
婚約者がいるラプスに、後で助言を求めようかと考えてると、
「あっ…シャツの襟が変になってる。馬に引っかけたのかな?」
隣を歩いていたエヴェデールが足を止めた。
「え?どこ?」
「いいよ、直してあげる」
ナサニエルの正面に立つと爪先立ちになり、手を伸ばし、ナサニエルの首元に触れる。
彼女の顔が近づく。
瞳の中に自分が映る。
唇の艶やかさ、潤いが分かる距離。
彼女の香りが強くなる。
息遣いが肌に届く。
その感覚に鳥肌が立ち、全身がゾクゾクした。
ナサニエルはとっさに顔を逸らした。直視できるはずがない。喉を生唾が通る。下腹部が疼く。
慌てて爪を立て、拳を握り込んだ。
そうでもしないと、抱きついてしまいそうだった。
「直ったよ」
「……ありがと」
「どういたしまして」
ナサニエルが——思春期の男子がどんな思いか知る由もなく、エヴェデールはにっこりした。
「馬術の制服も板についてきたね。やっぱり筋肉がつくとたくましく見えるし、かっこいいぞ!だからちゃんと身だしなみは整えないと」
かっこいい。
その一言で、ナサニエルは次の馬術訓練での嫉妬の視線にも耐えられると思った。
「…気をつけるよ」
「うん。来週はいよいよ単独騎乗の練習開始だね。自分の体重をお尻にのせて『止まれ』の合図を送れるように、体を垂直にするイメージを固めておいてね」
「分かった」
「次は私、手綱持たないんだから。しっかり自分で馬を乗りこなしてよ」
君になら僕の手綱を預けてもいい。
そんな馬鹿みたいな台詞が頭をよぎった。
(いやいや!さすがにバカすぎるだろう!)
心の中でブンブンと頭を振ると、
「あのさ…」
「ん?トレーニングの質問?」
「いや、そうじゃなくて……」
ナサニエルはガシガシと頭の後ろをかいた。
名前で呼んでもいい?
そう尋ねたいだけなのに、緊張して声が喉で止まってしまう。
異様に後ろ頭をかきなぐるナサニエルに、エヴェデールは首を傾げた。
「どうしたの?虫に噛まれた?」
「いや、大丈夫」
「じゃぁ何?」
ナサニエルは数回深呼吸して、顔を上げた。
「エヴェデール…って——呼んでもいいだろうか…」
きょとんとした瞳がナサニエルを見返す。
そんな表情も可愛らしく、顔が真っ赤になった。
「いつまでもオリビエ嬢だと……と、友達…とは……言えない気がして……。呼び捨てが嫌ならエヴェデール嬢でも——」
「いいよ」
エヴェデールはにこりとした。
「クラスのみんなはエヴェデールとかエヴァって呼ぶし。どっちでもいいよ、ナサニエル」
「じゃあ……エヴァ……で」
「ナサニエルは?愛称あるの?」
「いや…。みんなナサニエルって呼ぶな」
「家族も?」
「両親や乳母はネイトって…」
「じゃあ、私はネイトって呼ぶね。いい?」
「ああ、もちろん!」
そこで終業のベルが鳴った。
こんなにもタイミングが悪いベルは初めてだった。
「じゃあね、ネイト!また来週!!」
「ああ、また。エヴァ」
家族しか呼ばない愛称をエヴェデールは尋ねてきた。
みんなが呼んでるナサニエルではなく、家族しか呼ばない愛称を。
幼児のようでずっと気に入らなかった『ネイト』呼びが、一気に格上げされた。
「おーい、ナサニエル!次の授業に遅れるぞ!早く学校に戻ろう!」
エンレストとラプスが手招きしている。
「ああ!今行く!」
ナサニエルは足取りが軽かった。
生まれて初めて感じる軽さだった。
だから気が付かなかった。
睨見つけるようにナサニエルの背中を見る視線に。




