無力
試験初日の午後は中央政治の歴史の試験だった。
歴史が苦手なエヴェデールだが、ナサニエルと行った博物館のおかげで、歴代国王の名前も騎士団長の名前も覚えられた。
(博物館に行って歴史に直に触れるって、勉強になるんだな…)
全部ナサニエルのおかげだ。
博物館に行く楽しみも、歴史を知るきっかけも教えてくれた。
いつものエヴェデールなら、筋トレやトレーニングをして週末を過ごすだけだったろう。
(ネイトにデートに誘ってもらって良かった…)
それに——
(ネイトは私をかっこいいって言ってくれた…。騎士としてかっこいいって…)
女だてらにとか、女の子が武術なんてとか、批判的なことは一切言わなかった。
それどころかエヴェデールの好みや習慣に合わせて喫茶店を見つけてくれた。
(夏季休暇……1ヶ月もある——)
長い。
ナサニエルに会えない時間が長すぎる…。
(手紙…書いてもいい…よね……?)
毎日会って、一緒に乗馬もする仲だもの。
デートもしたし、おかしくないよね?
「残り5分だぞー。最後の見直ししろよ」
教員の声にはっと我に返った。
珍しく早めに終わってしまい、空想に耽っていた。
(試験中なのに…)
汗が滲む額を拭って、慌てて見直しをした。
初めて全部の解答欄を埋めた答案用紙を提出した。
◆
「ああー!なんとか埋めた!」
「よかったね、アメリア」
「赤点は回避したいー!」
「あはは!エヴァは?どうだった?」
「うん!バッチリ!」
友人2人——アメリア•ボーンズとミア•テイラー——は驚いて目を点にした。
「え?」
「あのエヴェデールが?」
「うん!全部埋めたよ!正解の自信ある!」
「え?」
「あのエヴェデールが?」
「……なんかデジャブ」
「だって!あのエヴェデールだよ!」
「実技は満点、座学はからっきしのエヴァが?!」
「酷くない?!」
プリプリして頬を膨らませると、今度はニヤニヤされた。
「もしかしてぇ…」
「例の彼の影響ですか?」
「影響でしょうね?」
「影響ですね」
二人はエヴェデールがナサニエルとデートしたことを知っている。
そしてエヴェデールが好意を寄せていることも。
「もうっ!からかうことばっかり言わないでよ!」
「だってぇ。いよいよエヴァも婚約するかもしれないんだよ!?」
「これはスキャンダルだよ!」
アメリアはすでに婚約している。
ミヤはまだだが、興味はあるものの気になる相手がいないので今は恋愛したい気分ではないらしい。
「あの武術大会覇者のエヴェデール•マフィ•オリビエを射止めるのが、一際人気の文官学校のナサニエル•セドール!」
「夢しかないわぁ!!」
そう。ナサニエルは騎士学校では女子に人気なのだ。
細い四肢に白い肌。色素の薄いキャラメル色のサラサラ髪も相まって、いかにも儚げで、女騎士からすると「守ってあげたい!」と母性をくすぐられるらしい。
「いやー!エヴァがついに!!」
「あたし達としては感無量だよぉ!」
「あんなに小さかったエヴァが…」
「こんなに大きく立派に強くなって…」
「親戚みたいなこと言わないでよ…」
3人は笑い合った。
試験の合間の楽しいお喋りは尽きない。
「夏季休暇、どうするの?」
「セドール家に行くの?」
「行かないよ!」
「「ええーっ!!」」
そろって不満そうに悲惨な声を上げた。
「せっかくの夏季休暇なのにぃ!?」
「2人の距離を縮めるチャンスじゃん!」
「だって……誘われて——ないし……」
もじもじすると、
「はーん?」
「誘って欲しかったんだ?」
またニヤニヤされた。
「はうっ!!」
真っ赤になったエヴェデールを見て、
「そうかそうか!誘って欲しかったのかぁ」
「でもね、エヴァ。ずっと待ってるだけじゃダメッ。自分からも誘わないと!」
「そうそう!デートも乗馬練習も、きっかけはセドールくんなんでしょ?」
「誘われっぱなしはねぇ…」
容赦ない言葉が飛んできた。
「真面目な話、セドールくんは人気だからね。うかうかしてると他の女に取られるよ」
「ううっ…」
「いくらエヴェデールといってもね、恋は先が読めないの!恋は唐突!何もアクション起こさなかったら、セドールくんが心変わりするかもしれないでしょ?恋はするもんじゃなく、落ちるものなんだから!」
「そうそう!横取りされたくない、他を見て欲しくない!ってなら、明日にでもエヴァから誘いなって!」
(確かに…)
エヴェデール達の試験期間は今日から1週間。
それが終われば夏季休暇になってしまう。
ナサニエルの通う文官学校は一足先に試験が始まっているから、夏季休暇も早く始まってしまうのだ。
そうなれば完全に会えなくなる。
「分かった。明日の朝、ネイトに言ってみる!」
「頑張れ、エヴァ!」
「応援してるぞ!」
「婚約したら教えてね!」
「キスしたら教えてね!」
「もしその先もあったら教えてね!」
「もうっ!!」
調子に乗った友人2人を小突こうとした時、勢いよく教室の扉が開いた。
「馬術試験で事故だ!」
息を切らした男子生徒が叫んだ。
「男子生徒が意識不明の重体らしいぞ!」
教室は一気に騒がしくなった。
「馬術……?」
呟くエヴェデールはドキドキした。
不安が頭をもたげ、心に影が差す。
「事故って、何があったんだよ?」
「詳しくは分からんが、落馬したらしい」
「なら意識不明にまでならないだろう?」
「それが、そのあと馬が暴れたらしくてさ」
「まさか、踏まれたのか?」
「ああ」
話を聞いていた全員が蒼白になった。
大きな馬なら、体重は500キロを超える。踏まれ方によっては体重と同じ圧力がかかり、最悪の場合、死に至る。
「…その男子生徒って?」
「えーっと…セドール……?とか言ってたな」
聞こえた言葉が落雷になって、脳を突き抜けた気がした。
声も出ず、周囲の音が消え、あんなにも感じていた教室の暑さも分からなくなった。
気がつくと、エヴェデールは窓を開けていた。
次の瞬間、足をかけ、躊躇なく飛び降りる。
「エヴァ?!!」
「ここ3階——!」
友人2人の声など、聞こえていなかった。
目の前の木の幹に掴まると、重力を殺して地面に着地する。
そのまま全力疾走して馬術試験が行われている騎士学校のグラウンドに向けて走った。
校舎を横切り、校庭を抜ける。まだ試験が続くので学生はほとんど外に出ていない。その分、通行人がいないので走りやすかった。
グラウンドは校舎から離れた場所にある。真っ直ぐに伸びた道をひたすらに、疾風の如く突っ走る。
クラスで——いや、校内で一番早いとされるエヴェデールだったが、自分の足の遅さにイライラした。
なんでもっと速く進めないの?
一刻も速く——速く——
「ナサニエルッ!!」
◆
何時間も走ったような気がした。
やっとグラウンドが見えると、そこは騒然としていた。
医療班と教員がごちゃ混ぜになって、誰が誰だか分からなかった。
学生は一箇所に集められ、隅でかたまっている。
「急げ!!」
「もっとガーゼをっ!」
「文官学校には連絡がついたのか?!」
「はいっ!」
「すぐに家族に連絡を!!」
「とにかく馬を引き離せっ」
エヴェデールは一番人が多い場所へと走った。
ドク、ドクと心臓が脈打っているが、走ってきたことと関係がないと分かっていた。
ガヤガヤと怒声が飛び交う中、大人の体を押しのけて進む。
キャラメル色の髪が地面にチラリと見えた。
「ナサニエルっ!!!」
エヴェデールはさらに人をかき分け、全力で道を切り開くと先頭に飛び出た。
腕がおかしな方向に曲がったナサニエルが倒れていた。
吐血したのか、口周りは真っ赤だった。
目は閉じ、意識はないようだ。
荒かった呼吸の音が凍りつき、周囲の空気が完全に凝固した。エヴェデールの目はナサニエルに釘付けになった。
「ナサニエル!!!」
エヴェデールは救護する大人の中に押し入った。
「ナサニエル!!ナサニエル!!!」
ピクリともしないナサニエルは、いつもより肌の色が白く生気がなかった。
腹部に馬蹄の跡がある。
息をしているのか、胸の上下運動があるのか、ナサニエルには生きているのか、エヴェデールには分からなかった。
「オリビエ!何にしきた!?」
教員の誰かがエヴェデールの肩を掴んだ。
「こんな所に来るんじゃない!」
しかしその力に負けない勢いで掴んだ手を振り払う。そして、
「ナサニエルの両親は王都の『白鹿亭』にいますっ!」
エヴェデールは叫ぶように言った。
数日前、ナサニエルがそう言っていた。
せっかく王都に来たから、息子が夏季休暇に入るまで王都内の視察と市場調査をするんだと。
「すぐに伝言を!一番足の早い馬で!」
返事をする前に、教員の一人が動いた。
乗馬が最も得意なラード先生だと分かった。
エヴェデールは視界の隅でそれを見たが、気持ちはナサニエルのことでいっぱいだった。
吐血したナサニエルは、窒息防止で顔を横に向けられていた。
折れた腕は応急処置で当て木がされている。
他にも馬蹄で踏まれたらしい跡があったが、どう見ても重症なのは腹部だ。
きっと内臓が損傷している…。
複数の臓器が破裂でもしていたら……ナサニエルは——
エヴェデールは息をしているの分からなかった。
手が震え、涙がこぼれ、歯がガチガチと鳴った。
「どうしよう」「ナサニエルが死んじゃう」「嫌だ」
その3つがぐるぐる回って爆風のように頭の中を駆け巡り、噴煙のようにもうもうと立ち込めて混ざり合い、思考を奪った。
すぐ上の兄が戦地で負傷したと知らせを聞いた時でさえ、こんなパニックにはならなかった。
だって兄は騎馬隊に所属する軍人だ。
だから戦地に行くと聞いた時から、いざという時の覚悟もしている。
でもナサニエルは違う。
ただの学生で、今朝まで普通に喋っていた。
夏季休暇の予定を話し合って、明日の朝、休暇中に会おうと誘うつもりだったのに——
「オリビエ!動かないなら教室に戻りなさい!」
校医に一喝され、エヴェデールは涙をいっぱいに溜めた目で彼女を見た。
「ここにいたいなら手伝って!!」
血が出るほど唇を噛むと、エヴェデールはぐいと涙を拭って、新しいガーゼを校医に手渡した。
口周りを拭い、少しでも呼吸がしやすいように口腔内の血も取り除く。
校医が汚れたガーゼを投げ捨てたら、エヴェデールが新しいガーゼを渡す。
そんな単純な作業が繰り返されながらも、目からは途切れることなく涙が溢れ、体は震えた。
何もできない——
ナサニエルを助けたいのに…何も……
そのうち担架が運ばれてきた。ナサニエルの体は慎重に動かされ、王都の病院へと救急搬送されていった。
エヴェデールはそれに付いていくことしかできなかった。
止める教員はいなかった。




