第8話「危険物です」
電話の向こうの声は、どこまでも明るかった。
『いやあ、SNS拝見しましたよ! すごいじゃないですか! 本日の特選肉、店主夫婦の掛け合い、これは伸びます!』
「夫婦ではありません」
厨房から、駆も言った。
「違うぞ」
『またまた。そこがいいんですよ。否定する新婚夫婦。今の時代、そういう自然体が、一番バズります』
紗世は、受話器を握る手に、力を込めた。
白石。
商店街の空き店舗の前で、白い歯を見せながら、夢と借金を同じ袋に詰めて渡してきた男。
駆が焼肉屋開業に突っ込むきっかけになった、あの営業マンだった。
「……何のご用件ですか」
『実はですね、御店のような急成長店舗向けに、口コミ増幅パッケージというものがありまして』
「結構です」
『まだ金額を言ってませんよ』
「聞く前から、結構です」
『初期費用は、たったの八十万円で――』
「高い!」
駆が横で、首をかしげた。
「八十万円で、満席になるのか」
紗世は受話器を押さえて、叫んだ。
「駆! 興味を持たない!」
「満席は、いいことだろ」
「借金で、借金を宣伝する気!?」
『追加融資のご相談もできますよ。勢いがあるうちに、広告、設備、人材、全部入れてしまった方がいい。借金は、成長の燃料ですから』
駆が、真顔で言った。
「借金は、燃えるのか」
紗世は、即答した。
「燃えない。首が回らなくなるだけ」
『資料だけでも、お持ちしますよ。ちょうど、近くにおりますので』
「来なくていいです」
『本当に、資料だけです』
「その“資料だけ”で人生が動いた結果、今うちは、焼肉屋をしています」
白石は、一瞬、黙った。
それから、まったく悪びれずに言った。
『成功されてるじゃないですか』
「まだ、返済一回目も、来てません!」
紗世は、電話を切った。
深く、深く、息を吐く。
駆が聞いた。
「来るのか」
「来るわよ、ああいう人は。断っても“近くにいたので”って言いながら、来るの」
「肉を出すのか」
「出さない」
「客だぞ」
「お客様と、危険物は、違うの!」
翌日。
開店前の仕入れは、いつもより短時間で済ませることにした。
理由は、二つ。
予約があること。
そして、白石が本当に来るかもしれないこと。
紗世は冷蔵庫の前で、タイマーを十五分に設定した。
「今日は手早く。危なかったら、すぐ戻る」
「小さくてうまい肉だな」
「だから、条件を肉に変換するのを、やめて」
その日の仕入れは、幸い、あっさり終わった。
肉は、いつも通り、店に並んだ。
問題は、肉ではなかった。
開店して、しばらく。
最初に来たのは、やはり三島だった。
「常連一号、参りました」
「いらっしゃいませ、三島さん」
店が、いつもの空気になりかけた、その時。
カラン。
入口のベルが鳴った。
紗世は、顔を上げた。
そこに立っていたのは、やけに白い歯を見せる、スーツ姿の男だった。
白石である。
「いやあ、近くに来たものですから」
紗世は、笑顔のまま、固まった。
「……来なくていいと言いましたよね」
「資料だけです」
「その資料、置いたら帰ってください」
「せっかくなので、一人前いただこうかなと」
駆が厨房から言った。
「客だな」
紗世は、小声で返した。
「危険物よ」
白石は、店内を見回した。
「いいですねえ。お客様も入ってる。やっぱり、私の目に狂いはなかった」
紗世の眉が、動く。
「駆を乗せたことを、実績みたいに言わないでください」
「いやいや、成功の種を見つけるのも、仕事ですから」
「種を見つけた後に、借金の水をかけすぎなんですよ」
客席で、小さな笑いが起きた。
白石は、それすら宣伝材料だと思ったらしい。
「この掛け合い、やっぱりいい。夫婦経営ブランディング、絶対いけます」
「夫婦ではありません」
駆も言った。
「違うぞ」
白石は、メモを取った。
「否定のテンポ良し、と」
「メモしないで!」
白石は席に座り、本日の特選肉を注文した。
紗世は、出したくなかった。
しかし、客として来ている以上、露骨に断るわけにもいかない。
駆が、肉を切る。
白石は、その手元を、じっと見ていた。
「いやあ、すごい包丁さばきですね。これ、動画にしたら伸びますよ」
「撮らないでください」
「仕入れ風景も撮れたら、最高ですね」
紗世の笑顔が、消えた。
「撮れません」
「企業秘密ですか」
「企業秘密です」
白石は、肉を焼いた。
香りが立つ。
さすがの白石も、その瞬間だけは、黙った。
一口、食べる。
そして、目を見開いた。
「……これは」
もう一枚焼き、また食べた。
営業スマイルが、消えている。
本当に、驚いている顔だった。
そして、白石は、ふっと、声のトーンを落とした。
「……宮本さん。一つ、いいですか。開業のとき、うちのドリームフードは、仕入れの卸業者も、何軒か、ご紹介したはずだ。……でも、お宅は、ぜんぶ断った。私の知る限り、どこの卸とも、契約していない」
「……」
「なのに、この肉です。正直に、言いましょう。……これだけの肉を、この値段で回せる仕入れルートなんて、日本中どこを探しても、ありゃしない。市場にも、卸にも、ない。なのに、毎日、当たり前みたいに、出てくる。……どこから、引いてるんです?」
紗世の、背筋が冷たくなった。
「……企業秘密です」
「でしょうね。……いや、詮索は、しませんよ。保健所に駆け込む、なんて野暮も、しない」
白石は、また、にっこり笑った。
「むしろ、逆です。そういう“表に出せない仕入れ”ほど、私みたいな人間の、出番なんですよ。どこにも出せない出所を、うまく“物語”で包んで、堂々と売る。……お手伝いできることが、山ほど、ある。そういう、ことです」
営業スマイルは、戻っていた。でも、その目の奥だけは、笑っていなかった。
紗世は、ぞっとした。開店のとき、夢だの応援だのと、軽い言葉で駆を焚きつけた、あの安っぽい営業マン。……あの軽さは、ただの皮だったのかもしれない。本物の獲物を前にした今、皮の下から顔を出したのは、もっと冷たくて、もっと目ざとい、別の生き物だった。バカを乗せるのは世渡りの手管で、こっちが、素の白石なのだ。
この男は、気づいている。うちの肉が、まっとうなルートの肉じゃないことに。そして、それを、しっかり“弱み”として、覚えて帰る。
危険物、どころじゃ、なかった。いちばん油断ならない種類の――まだ、名前のつかない何かだった。
「阿保さん、宮本さん。これは――広告を打つべきです」
紗世は、即答した。
「打ちません」
「なぜですか。これだけの商品力があれば、初月から一気に広げられる。追加融資を引いて、二号店の物件を押さえましょう」
駆の目が、光った。
「二号店」
紗世は、駆の前に立った。
「光らない」
「でも、二号店だぞ」
「今、本店の返済一回目すら、まだなの!」
白石は、資料を広げた。
そこには、やけに派手な文字が、並んでいた。
――急成長飲食店向けブランディング。
――夫婦経営ストーリー広告。
――二号店展開パッケージ。
駆は、資料の写真を見ていた。
そこには、黒く光る高級車が、写っている。
「これは」
白石は、にこやかに言った。
「成功者の、移動手段です」
紗世は、資料を閉じた。
「帰ってください」
「まだ、提案の途中です」
「その車の写真で、うちの店主の目が、危険な光り方をしました」
駆は、表情を変えずに言った。
「肉を運べるか」
「運ばない!」
客席から、笑い声が上がった。
白石は、その空気を見て、ますます乗ってきた。
「やはり、この店はキャラクターが強い。商品力もある。ストーリーもある。借金もある」
「最後を、魅力みたいに言わないでください」
「苦難からの成功は、人を惹きつけます」
「苦難を増やしに来てる人が、言わないで!」
その時だった。
紗世が、資料を押し返そうとして、足元の段ボールに、つまずいた。
「あっ」
体が、傾く。
次の瞬間、駆が横から腕を伸ばし、紗世の腰を支えた。
ほんの一瞬。
距離が、近くなる。
紗世の顔のすぐ横に、駆の肩があった。
駆は、当然のように言った。
「危ないぞ」
紗世は、固まった。
「あ、ありがと……」
客席から、なぜか拍手が起きた。
三島が、笑顔で言う。
「ご主人、ナイスフォローです」
「ご主人じゃありません!」
「違うぞ」
駆も即答したが、紗世の腰に手を置いた、ままだった。
紗世は、耳まで赤くなって、叫んだ。
「あと、手! もう大丈夫だから!」
駆は、素直に手を離した。
白石は、すかさずメモを取る。
「自然なボディタッチ。広告素材として、強い」
「帰れ!」
その後、白石はしぶとく粘ったが、紗世は契約書に、一切サインしなかった。
駆が二号店と車に反応するたび、紗世が睨んだ。
そのたび、駆は黙って、肉を切った。
白石は、最後まで営業スマイルを崩さず、資料を置いて、帰っていった。
去り際、彼はこう言い残した。
「宮本さん。この肉、今の値段は、安すぎますよ。倍でも、売れる。……もったいない」
紗世は、その言葉を、聞き流そうとした。
聞き流そうとして――できなかった。
閉店後。
紗世は、白石が置いていった資料を、カウンターの下にしまった。
捨てようかと思ったが、あえて残すことにした。
危険物として。
「駆」
「なんだ」
「今後、白石さんから何を言われても、私に相談するまで、返事しないで」
「分かった」
「二号店も」
「分かった」
「車も」
「……分かった」
「今、間があった」
「肉を運べるか、考えてた」
「考えない!」
紗世は、レジ締めの手を、止めた。
白石の、あの最後の一言が、頭から離れなかった。
――この肉、今の値段は、安すぎますよ。
悔しいが、あの男の言葉の中で、それだけは、無視できなかった。
紗世は、これまで一度も、ちゃんと計算していなかった。
この一皿を出すのに、本当は、いくらかかっているのか。
冷蔵庫の肉は、タダに見える。
でも、店は、タダではない。
家賃も、電気も、返済も、そして――駆が毎朝、命をかけて獲ってくる、あの危険も。
それを全部ちゃんと数えたら、今の値段は、正しいのか。
安すぎるのか。
分からなかった。
分からない、ということ自体が、経営者として、まずかった。
「駆」
「なんだ」
「明日は、肉も大事だけど……原価計算をする」
駆は、首をかしげた。
「原価は、肉だろ」
「それを、数字にするの!」
「数字は、苦手だ」
「でしょうね」
紗世は、ため息をついた。
それでも、少しだけ、目つきが変わっていた。
予約表が、埋まり始めた。
借金の返済も、始まる。
怪しい営業も、戻ってきた。
店は順調なのか、危険なのか、もう分からない。
ただ一つ、確かなことがある。
明日、紗世は初めて、この店の「本当の値段」と、向き合う。
冷蔵庫の扉が、今日も静かに、そこにあった。
その向こうに、明日の肉がある。
そして、明日は――数字と、向き合う日だった。




