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第9話「原価計算と値上げ問題」

朝、九時。


まだ開店前の店内で、紗世は電卓を握りしめていた。


テーブルの上には、ノート、仕入れの伝票、返済予定表、そして昨日までの売上メモが並んでいる。


紗世は昨日、自分に宣言したのだ。


今日は、原価計算をする、と。


「駆。ちょっと座って」


厨房から駆が出てきた。


手には包丁を持っている。


「原価の話だな」


「そう。よく覚えてたわね」


「原価は肉だ」


「一秒で崩さないで」


紗世は電卓を叩いた。


「いい? 原価っていうのは、この一皿を出すために、いくらお金がかかってるかってこと。それが分からないと、値段が正しいのか分からないの」


駆は真剣な顔でうなずいた。


そして、言った。


「特選肉の原価はゼロだ」


紗世の電卓を持つ手が止まった。


「……なんで」


「冷蔵庫から獲ってくる。金を払ってない」


理屈は分かる。


分かるのだが、腹は立つ。


「確かに、肉そのものにお金は払ってない。でも、それを原価ゼロにしたら、この店、いつまで経っても値段が滅茶苦茶なままなの」


「うまいのに、なんで滅茶苦茶なんだ」


「うますぎて、安すぎるの!」


紗世はノートに、思いつく限りの費用を書き出していった。


家賃。


電気代。


普通のお肉やお米、野菜の仕入れ。


調味料。


炭。


水道。


そして――融資の返済。


「これ全部、毎月出ていくのよ。特選肉がタダでも、店はタダじゃないの」


駆はノートを覗き込んだ。


そして、真顔で一項目を指さした。


「命が抜けてる」


「え?」


「あの冷蔵庫の向こうは、危ない。俺が獲ってくる。命がけだ。……命は、タダなのか」


紗世は、言葉に詰まった。


冗談みたいな言い方だった。


でも、間違ってはいなかった。


昨日も、一昨日も、駆はあの霧の森で、巨大な鳥に飛びかかられた。


その前は雪原で、その前は草原で。


毎日、当たり前みたいに、危ない場所へ行っている。


それを紗世は、いつの間にか「日常」として処理していた。


「……そうね。あんたの命は、原価より高い」


駆はうなずいた。


「肉より高いか?」


「そこは比べないで!」


紗世は電卓を置いた。


はっきりしてきたことがある。


特選肉は、材料費こそゼロに見えるが、実際には駆の危険と、時間と、この店の全部が乗っている。


それなのに、今の値段は――安すぎる。


近所の普通の焼肉屋と、そう変わらない値段で出している。


「これ、値上げしないとダメだわ」


言ってから、紗世は自分の言葉に少しひるんだ。


値上げ。


嬉しいはずの言葉なのに、胸がざわざわする。


常連の顔が、頭に浮かんだ。


三島の顔も。


「でも、高くしたら……来てくれる人が、来られなくなるかもしれない」


駆は首をかしげた。


「うまい肉は高い」


「それは分かってる」


「でも、三島には食わせたい」


紗世は顔を上げた。


駆は、当たり前のことを言うみたいに続けた。


「あいつ、疲れてた。肉で元気になった。だから食わせたい。金がなくても」


短い言葉だった。


でも、そこには駆なりの筋が通っていた。


紗世はしばらく黙って、それからノートに小さく書いた。


――特選肉は本物の値段。


――でも、疲れた人が来られる店であること。


この二つを、どうやって両立させるか。


それが、今日の宿題だった。


「とりあえず、仕入れね」


紗世は立ち上がった。


「今日は特選肉、何が出るか分からないけど……原価の話をしたあとに獲りに行くって、なんだかすごい店ね」


「普通の店だぞ」


「普通の店は冷蔵庫の中で獲物を探さないの」


駆が、冷蔵庫の扉を開ける。


今日の向こう側は、これまでと違っていた。


岩だった。


灰色の岩が、そびえるように連なっている。


風が強い。


ところどころに、薄く雪が残っている。


空は高く、白い。


紗世は身を縮めた。


「寒い……。雪原とも違う。岩の、高いところ?」


駆は鼻を動かした。


そして、静かに言った。


「今日の肉は、いいぞ」


「毎日いいって言ってるじゃない」


「今日は、特別にいい」


駆の声が、いつもより低かった。


紗世は少しだけ、背筋が寒くなった。


寒さのせいだけではなかった。


岩陰から、それは現れた。


牛に似ていた。


だが、これまでの肉とは、明らかに格が違った。


体は岩のように大きく、背中には白い霜のような毛が生えている。


一歩踏み出すたび、地面が低く鳴る。


角は太く、ねじれ、先が銀色に光っていた。


紗世は思わず後ずさった。


「……大きい」


「霜降りだ」


「品評会じゃないの!」


牛型の魔物が、こちらに気づいた。


低く、唸る。


そして、想像を超える速さで突進してきた。


紗世は悲鳴を上げる間もなかった。


駆は動いた。


正面から受けなかった。


半身をずらし、角の軌道から体を外す。


同時に、魔物の首の付け根に、掌を打ち込んだ。


ドン、と鈍い音がした。


魔物の巨体が、一瞬、止まる。


だが、倒れなかった。


これまでの獲物とは違った。


一撃では、終わらなかった。


「駆っ」


紗世が叫んだ。


駆は表情を変えなかった。


魔物がもう一度、角を振る。


その角が、駆の肩をかすめた。


服が裂ける。


紗世の心臓が跳ねた。


だが駆は、その一瞬に踏み込んでいた。


魔物の懐へ。


一番、力の乗る場所へ。


そこから放たれた一撃は、音すらしなかった。


ただ、魔物の巨体が、ゆっくりと傾いた。


そして、岩の上に崩れ落ちた。


静かだった。


風の音だけが残った。


駆は肩を軽く回した。


服は裂けていたが、肌には浅い赤い線が一本あるだけだった。


「傷んでない」


「あんたの話! 肉じゃなくて、あんたの肩の話をしてるの!」


「かすっただけだ」


「かすらせないで!」


紗世は駆の肩に触れた。


血は、ほとんど出ていない。


それでも、手が震えた。


さっきまで、原価計算をしていた。


命は原価に入らない、なんて話をしていた。


でも、今、目の前で、その「命」が、本当に危なかった。


「……もう、一撃で倒せない相手には、行かないで」


紗世の声は、小さかった。


駆は、めずらしく、すぐには「肉」と言わなかった。


少しだけ黙って、それから言った。


「分かった」


その「分かった」は、いつもより、ちゃんと聞こえた。


駆は魔物の解体を始めた。


これまでで、一番慎重な手つきだった。


現れた肉は、これまでとまるで違った。


深い赤の中に、白い脂が細かく、網の目のように広がっている。


霜が降りたようだった。


包丁を入れると、脂がわずかに透けて光る。


紗世は、思わず息をのんだ。


「……きれい」


「霜降りだ」


「今日は、本当にその名前でいいわね。本日の特選肉・霜」


「いい名前だ」


魔物の体から取り出した魔石は、これまでと違って、透き通っていた。


白く澄んでいて、氷ではないのに、内側で静かに何かが循環しているように見える。


手に持つと、氷よりも、ずっと冷たかった。芯まで凍りつくような、特別な冷たさだった。


紗世は、それを見て、直感した。


これは、たぶん、ものを、氷よりも冷たく、特別な状態で保つための石だ。


いつか、特別な冷凍の設備に、使えるかもしれない。


「これも、保存」


「焼くか?」


「魔石を焼くなって、何回言わせるの」


タイマーが鳴る前に、二人は厨房へ戻った。


肩の傷は、店に戻ってから消毒した。


駆は「大げさだ」と言ったが、紗世は真剣だった。


そして、少しだけ、決心が固まっていた。


開店時間。


最初に来たのは、やはり三島だった。


「常連一号、参りました」


「いらっしゃいませ、三島さん」


駆が厨房から顔を出す。


「今日は、霜だ」


「霜……?」


三島の目が輝いた。


紗世は本日の特選肉・霜を、一皿だけ、まず三島の前で焼いた。


網の上に、赤と白の入り混じった肉を置く。


ジュウウウウウッ。


これまでとは、音からして違った。


脂が、静かに、しかし確かに溶けていく。


網の目から、白い煙がふわりと立ち上がる。


甘い匂いが、店中に広がった。


肉の縁が、少しずつ、飴色に変わっていく。


紗世でさえ、生唾を飲んだ。


三島は、一枚目を塩で食べた。


そして、しばらく、動かなかった。


「……宮本さん」


「はい」


「これは、いくらですか」


紗世は、どきりとした。


まさに、今日一日、悩んでいたことだった。


「正直に言います。今の値段は……たぶん、安すぎるんです」


三島は、静かにうなずいた。


「でしょうね」


「え?」


「前から、思ってました。この肉、この値段でいいのかって。むしろ、こっちが心配になるくらい安い」


紗世は、言葉を失った。


三島は、少し笑った。


「値上げしても、僕は来ますよ。というか、値上げしてください。じゃないと、この店、続かないでしょう」


隣の席の客も、口を挟んだ。


「同感。この肉、倍の値段でも通う」


「三倍でもいい」


「いや、三倍は困る」


店内に、小さな笑いが起きた。


紗世は、胸の奥が、じんと熱くなった。


値上げは、怖かった。


お客さんが離れるのが怖かった。


でも、そのお客さんたちが、値上げを望んでくれている。


こんな値上げが、あるのか。


その時、駆が厨房から言った。


「特選肉は、上げろ」


紗世は振り返った。


「……いいの?」


「本物の肉だ。本物の値段でいい」


そして、駆は続けた。


「でも、ご飯と、普通の肉は、上げるな」


紗世は、少し驚いた。


「なんで?」


「疲れた奴が、特選肉を食えない日もある。そういう日は、安い肉と、白い飯でいい。それでも、来られる店にしとけ」


店内が、静かになった。


駆は、いつもの真顔だった。


本人は、いいことを言った自覚が、まったくないようだった。


紗世は、しばらく駆を見て、それから、小さく笑った。


「……あんた、たまに、ちゃんとしてるわね」


「肉のことは、ちゃんとしてる」


「肉じゃなくて、人の話をしたの、今」


紗世は、ノートを開いた。


さっき書いた宿題の答えが、もう出ていた。


特選肉は、本物の値段にする。


でも、普通のメニューは、据え置く。


だから、財布が寂しい日でも、この店に来られる。


疲れた人が、白い飯と、安い肉と、店の空気で、少し元気になれる。


そして、余裕のある日は、本物の特選肉を食べればいい。


「駆」


「なんだ」


「原価計算、終わったわ」


「命は入れたか」


「入れた。一番高い項目にしといた」


「そうか」


駆は満足そうにうなずいて、厨房へ戻った。


本日の特選肉・霜は、その日、これまでで一番高い値段がついた。


それでも、夕方を待たずに完売した。


いや、値段を上げたのに、むしろ売れた。


「本物の肉を、本物の値段で」――そのことが、客に伝わったのかもしれない。


普通の肉も、白い飯も、いつも通りの値段で、いつも通り売れた。


疲れた顔で入ってきた客が、帰るときには少しだけ背筋を伸ばしていた。


紗世が思い描いた、あの二つのことが、同じ店の中で、ちゃんと両立していた。


閉店後。


紗世はレジを締め、電卓を叩いた。


今日の売上を、今日の費用で引く。


原価に、駆の危険という「見えない項目」も、心の中で足した。


それでも――数字は、はっきりとプラスだった。


しかも、これまでで一番大きなプラスだった。


「……このままいけば」


紗世は、返済予定表を見た。


来月。


もしかしたら、来月には。


初めての、黒字。


そう思うと、指先が少し震えた。


嬉しいのに、怖い。


いつもの、あの感覚だった。


その時、紗世のスマホが鳴った。


留守番電話だった。


再生すると、やけに明るい声が流れてきた。


『あー、宮本さん、白石です。いやあ、噂で聞きましたよ、値上げされたとか。いい判断です。ここからですよ。次はですね、思い切って会員制。富裕層向けの、完全予約の高級店化。ぜひ一度、ご提案を――』


紗世は、無言でメッセージを削除した。


「駆」


「なんだ」


「うちは、高級店にはしない」


駆は、少し考えて言った。


「三島が来られなくなるからか」


「……そう」


「なら、しなくていい」


紗世は、少しだけ笑った。


高級店の話は、確かに魅力的に聞こえる。


お金持ちだけを相手にすれば、もっと楽に、もっと儲かるのかもしれない。


でも、それは、この店じゃない。


焼肉アホミートは、疲れた人が、帰ってこられる場所だ。


紗世は、そう決めた。


冷蔵庫が、低く唸っている。


その向こうには、明日の肉がある。


明日の値段がある。


明日の危険もある。


そして、たぶん、来月には――初めての黒字がある。


紗世は、返済予定表を、そっと閉じた。


「駆」


「なんだ」


「来月、たぶん、黒字になる」


駆の目が、きらりと光った。


紗世は、その光を、よく知っていた。


嫌な予感がした。


「……なんで、今、目が光ったの」


「黒字になったら、何か買えるな」


「買わないわよ!」


「まだ何も言ってないぞ」


「言う前から却下!」


冷蔵庫の唸りが、少しだけ、大きくなった気がした。


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