第7話「予約表と、明日の肉」
翌朝。
焼肉アホミートのカウンターには、昨日までとは違うものが置かれていた。
予約表である。
宮本紗世は、そのノートを開いたまま、腕を組んで固まっていた。
三島修平 一名 十九時。
会社員四名 二十時。
女性二名 十八時半。
近所の作業服の男性 二名 時間未定。
まだ満席にはほど遠い。
それでも、開店初日に客がほぼゼロだった店からすれば、名前が並んでいるだけで奇跡だった。
紗世は小さくつぶやいた。
「……店っぽい」
厨房では、阿保駆が包丁を研いでいた。
シャッ。
シャッ。
「最初から店だろ」
「違うのよ。店っていうのは、お客様が来て、予約が入って、明日の準備が必要になるものなの」
「肉がいるな」
「そう。肉がいる」
紗世はうなずきかけて、すぐに眉をひそめた。
「……今の返事だけ聞くと、あんたと話してるんじゃなくて、冷蔵庫と会議してる気分になるわね」
「冷蔵庫は大事だ」
「大事すぎるのよ」
予約が入るのは、嬉しい。
とても嬉しい。
だが、予約が入るということは、責任が生まれるということでもある。
昨日までは、特選肉が売り切れても「すみません、数量限定で」で済んだ。
しかし、予約して来てくれる人が増えれば、そうはいかない。
わざわざ時間を決めて、特選肉を楽しみに来てくれる人がいる。
紗世は予約表の横に、赤ペンで大きく書いた。
――特選肉は予約確約しない。
駆がのぞき込む。
「予約したのに、肉がないのか」
「肉がない可能性があるから、確約しないの」
「獲ればある」
「毎朝、命をかければある、みたいな仕入れを、当たり前にしないで!」
その時、店のポストに、何かが落ちる音がした。
カタン。
紗世は入口へ向かい、封筒を取った。
差出人を見た瞬間、表情が少し曇る。
金融機関からだった。
封を開ける。
中には、返済予定の案内が入っていた。
――創業融資返済予定のお知らせ。
紗世は無言で、紙を見つめた。
駆が横からのぞく。
「肉の注文か」
「借金の現実よ」
「現実は重いな」
「肉みたいに言わないで」
開業資金。内装費。厨房設備。ロースター。看板。
そして、よく分からないまま契約させられた、創業支援サービス料。
焼肉アホミートは、ようやく客が入り始めた。
だが、借金はまだ、山のように残っている。
昨日の売上で返せるのは、せいぜいロースターの片側くらいだった。
紗世は返済予定表を見て、深く息を吐いた。
「浮かれちゃだめ。予約が入ったくらいで安心したら、終わる。まずは返済。無駄遣い禁止。怪しい話は、全部断る」
「分かった」
「本当に?」
「怪しい肉は断る」
「怪しい肉じゃなくて、怪しい話!」
紗世は、予約表をもう一度見た。
今日の夜、この席が埋まる。
だとしたら、今やることは、一つだった。
「駆。仕入れよ。今日は夜に予約が入ってる。昼のうちに、確実に肉を用意しておきたい」
「分かった」
「今日は深追いしない。大物狙い禁止。危なかったら戻る。二十分」
紗世は冷蔵庫の前で、スマホのタイマーを二十分に設定した。
「小さくてうまい肉だな」
「勝手に条件を、肉へ変換しないで」
駆が、冷蔵庫の扉を開ける。
今日の向こう側は、森だった。
ただし、普通の森ではない。
湿った土。濃い霧。太い木々。
葉の間から、朝なのか夕方なのか分からない、薄い光が差している。
紗世は顔をしかめた。
「……視界が悪い」
駆は鼻を動かした。
「香りがいい」
「森の匂い?」
「肉の匂い」
「その鼻、もう犬より怖いわ」
二人は、冷蔵庫からあまり離れないように進んだ。
紗世は何度も、後ろを振り返る。
入口は見えている。
大丈夫。
今日は、奥へ行かない。
「いた」
駆が低く言った。
霧の向こうで、羽音がした。
バサッ。
バサッ。
現れたのは、巨大な鳥の魔物だった。
鶏に似ている。
だが、体は大きな犬ほどあり、羽は黒く、首元には金色の毛が輪のように生えている。
鋭いくちばしで地面をつつくたび、湿った土から小さな火花が散った。
紗世は思わず、後ずさった。
「……鶏?」
駆は真剣な顔で、うなずいた。
「焼き鳥にもできる」
「焼肉屋よ、うちは!」
「鶏も焼ける」
「そうだけど!」
鳥の魔物が、こちらを向いた。
黒い目が光る。
次の瞬間、ものすごい速度で飛びかかってきた。
紗世は悲鳴を上げた。
駆は半歩、前へ出る。
くちばしが届く寸前、駆の手が首元を押さえた。
同時に、体をひねる。
鳥の勢いを利用して、ふわりと地面に倒す。
ドサッ。
音は軽かった。
駆はすぐに確認する。
「傷んでない」
「私の心臓は、傷んだわ」
駆は手早く、解体を始めた。
今日の肉は、これまでとまったく違っていた。
淡い桜色。
脂は少ないが、皮の下に、香りの強そうな薄い層がある。
包丁を入れるだけで、ふわっと甘い香りが立った。
「……香りがすごい」
「今日は、香りの肉だな」
「本日の特選肉・香?」
「いいな」
魔石は小さく、金色に光っていた。
手に持つと、ほんのり温かく、煙のようなものが内側で揺れている。
紗世は、それを見て直感した。
換気。煙。ロースター。
焼肉屋にとって、煙と匂いは大事だ。
この魔石も、いつか設備に使えるかもしれない。
「これも、保存」
「焼くか?」
「魔石を焼くな!」
タイマーが鳴る前に、二人は厨房へ戻った。
今日は、計画通りだった。
「よし。今日は完璧」
「肉もある」
「そう。営業前に仕入れて、営業中は店にいる。これが、普通の飲食店よ」
「普通の飲食店は、冷蔵庫の森に行かないぞ」
「それを私が言うならまだしも、あんたが言うな!」
開店時間。
予約の客が、少しずつやって来た。
最初に来たのは、三島だった。
「常連一号、来ました」
「いらっしゃいませ、三島さん」
駆が厨房から顔を出す。
「今日は、香りだ」
「香り?」
三島の目が輝く。
「本日の特選肉・香です。昨日の赤とは、また違うタイプです」
「毎日違うの、楽しいですね」
「楽しいですけど、こちらの胃は、毎日痛いです」
本日の特選肉・香が焼かれた。
ジュウウウウウッ。
音は、軽い。
しかし、香りは強かった。
脂で押してくるのではない。
鼻を抜ける甘さ。
炭火のような香ばしさ。
少しだけ山椒にも似た、食欲を刺激する匂い。
客席の視線が、一斉にロースターへ集まった。
三島は一枚目を、塩で食べた。
そして、目を閉じた。
「……今日は、香りだけで、ご飯が食べられますね」
隣の客が言った。
「肉を食べてください」
店内に、小さな笑いが起きた。
紗世は、その笑い声を聞いて、少し安心した。
昨日より、店が柔らかい。
常連がいて、初めての客がいて、みんなが同じ肉を楽しみにしている。
店らしい。
本当に、少しずつ、店らしくなっている。
その日の特選肉・香は、夕方前に完売した。
普通の肉も、よく売れた。
そして、営業中に、予約の電話が二件、入った。
明日の夜、二名。
明日の昼、三名。
電話を切るたびに、予約表に名前が増えていく。
閉店後。
紗世はレジを締め、売上を確認した。
昨日より、増えている。
確実に、増えている。
だが、返済予定表を重ねると、喜びは半分くらいに縮んだ。
「売上が増えても、借金は、まだ全然減った感じがしない……」
それでも、予約表を見ると、胸の奥が少しだけ温かくなる。
嬉しい。
怖い。
また、嬉しい。
その全部が、混ざっていた。
駆が冷蔵庫を見た。
「明日も、仕入れだな」
紗世もうなずいた。
「明日も、肉。明日も、予約」
その時だった。
店の電話が、鳴った。
閉店後の、この時間に。
紗世は、一瞬、身構えた。
こういう時間に鳴る電話は、だいたい、良い電話ではない。
受話器を取る。
やけに明るい声が、耳に飛び込んできた。
『お世話になっております! ドリームフード開業サポートの、白石です!』
紗世の表情が、すっと消えた。
その名前を、忘れるはずが、なかった。
焼肉アホミートは、もう、昨日までの誰も知らない店ではなくなり始めていた。
そして、そのことを一番、嗅ぎつけてほしくない男が、電話の向こうで、にこにこと笑っていた。




