第6話「常連一号」
翌朝。
宮本紗世は、店のカウンターでノートを開いていた。
表紙には、太いマジックでこう書かれている。
――予約表。
その下に、小さく付け足した。
――冷蔵庫に頼りすぎない。
阿保駆は、それを横からのぞき込んだ。
「肉の予定表か」
「予約表」
「肉を食べる人の予定表だろ」
「間違ってはいないけど、言い方が獣寄りなのよ」
紗世は昨日の売上伝票を見た。
特選肉は、昼も夜も完売。
口コミも増えた。
街は、まだ本調子には遠かった。感染症の波は続き、外出を控える空気も、重いままだ。それなのに――と、紗世は思う。なぜか、うちの店の周りだけ、人が集まってくる。派手な行列じゃない。疲れ切った人が、夜更けの口コミを頼りに、こっそり、でも確実に、この路地裏へ流れてくる。まるで、秘密基地みたいに。自粛だ何だと言いながら、一度あの肉を食べた人が、また暖簾をくぐる。誰かを連れて、来てくれる。
魔素の抜けない肉は、体を作る。……もしかしたら、鬱屈して縮こまった人の、生き物としての芯みたいなものを、そっと突ついているのかもしれない。うまいものを食って、また明日も生きよう、と思わせる何かを。
考えすぎ、かもしれない。でも、しぼんだ商店街の片隅で、うちの店だけが、確かに少しずつ、灯りを増やしていた。長い自粛が明けるのは、まだ先の話だ。それでも、この小さな店は、暗がりの中で、動き始めていた。
店としては、間違いなく良い流れだった。
ただし、良い流れだからこそ問題が出てきた。
客が来る。
肉が足りない。
駆が冷蔵庫へ行こうとする。
紗世が止める。
このままでは、焼肉屋ではなく、営業中に店主が異世界へ消える不審店舗になってしまう。
先週、店内用の靴のまま雪原に飛び込んだ、自分のことを思い出す。
あの無茶は、もう二度としない。
紗世はペンを持ち、ノートの一ページ目に大きく書いた。
一、営業中に仕入れへ行かない。
二、特選肉は数量限定。
三、聞かれても冷蔵庫のことは言わない。
駆が読んだ。
「四、肉は裏切らない」
「勝手に足さない」
「大事だぞ」
「経営に必要なルールを書いてるの!」
「肉も経営だ」
「それはそうだけど、あんたが言うと全部危ないのよ」
紗世は深く息を吐いた。
昨日、冷蔵庫の向こうが雪原に変わっていることが分かった。
つまり、あのダンジョンは毎日同じではない。
狩場が変わる。
魔物も変わる。
肉の種類も変わる。
それは店にとって大きな魅力だった。
日替わりの特選肉。
聞くだけなら最高だ。
しかし、仕入れ担当が毎朝命がけで冷蔵庫に入るとなると、話は別である。
「今日は、開店前に少しだけ確認します」
紗世は冷蔵庫の前に立った。
「十五分じゃなくて、三十分。開店前だから余裕はある。でも、奥には行かない。危険なら戻る。肉がなくても戻る」
駆はうなずいた。
「肉がなくても戻る」
「そう」
「でも、肉は獲る」
「戻ることを優先!」
駆が、冷蔵庫の扉を開ける。
今日は、白い風ではなかった。
広がっていたのは、朝露に濡れた草原だった。
青い空。
柔らかい風。
遠くには低い丘。
草の匂いが、厨房まで流れ込んでくる。
紗世は、詰めていた息を、そっと、吐いた。
「昨日よりは安全そうね」
駆は足元を見た。
草の上に、細い蹄の跡がある。
「赤身だな」
「また足跡だけで肉質を言ってる」
「走るやつだ。脂は少ない。うま味は濃い」
「もう占い師みたいね。肉占い」
「当たるぞ」
「当たるのが嫌なのよ」
二人は草原へ入った。
今日は昨日ほど寒くない。
足元も悪くない。
紗世はスマホのタイマーを確認しながら、駆の少し後ろを歩いた。
五分ほど進んだところで、草むらが揺れた。
姿を現したのは、鹿に似た魔物だった。
ただし、普通の鹿ではない。
体は大きく、赤茶色の毛並みが朝日に光っている。
角は黒く、枝分かれした先端に小さな火花のような光が走っていた。
紗世は小声で言った。
「……鹿?」
駆はうなずいた。
「焼いたらうまい鹿」
「名前に感想を入れないで」
鹿の魔物は、こちらを見ると一瞬で走り出した。
速い。
昨日の牛のような重さではない。
草原を跳ねるように駆け、あっという間に距離を取る。
紗世は少しほっとした。
「逃げた?」
「回ってくる」
「え?」
駆の言葉通り、鹿の魔物は大きく円を描いて戻ってきた。
角を低く構え、横から突っ込んでくる。
速さがある分、怖い。
紗世は思わず身を縮めた。
しかし、駆は草の上を滑るように動いた。
魔物の進路を読み、真正面には立たない。
角を避け、首元に手刀を入れ、足の動きを一瞬だけ止める。
次の瞬間、鹿の魔物は草の上に静かに倒れた。
駆はすぐにしゃがみ込む。
「いい赤身だ」
紗世はタイマーを見た。
残り二十三分。
「今日は早いわね」
「足が速い肉は、逃がすと面倒だからな」
「肉が走ってる前提なのね」
駆は手早く解体を始めた。
草原の鹿肉は、昨日の白い牛とはまるで違った。
脂は少ない。
だが、赤身が美しい。
深い赤色で、切った断面から澄んだ肉汁がにじむ。
香りは軽く、どこか草のような清涼感があった。
紗世は思わず見入った。
「これは……昨日とは全然違う」
「今日は赤だな」
「また色でいくの?」
「分かりやすいだろ」
紗世は少し考えた。
本日の特選肉・白。
昨日はそれで通った。
今日が赤なら、客にも日替わり感が伝わる。
「……悔しいけど、分かりやすい」
「だろ」
「腹立つ顔しないで」
胸元から取り出した魔石は、小さめだった。
色は赤みがかった琥珀色。
ほんのり温かい。
紗世はそれを受け取り、ハンカチで包んだ。
「これは?」
「走りそうな石だ」
「説明が雑」
「たぶん火力か、保温」
「それ、ロースターに使えるかも……」
口に出してから、紗世ははっとした。
また考えてしまった。
この魔石を設備に使えば、他店ではできないことができる。
でも、それにはお金がかかる。
工事も必要になる。
秘密も増える。
そして、駆はたぶん何も考えずに言う。
全部ください、と。
紗世は魔石をポケットにしまった。
「これは、まだ使わない」
「焼けるぞ」
「焼かない」
「肉も焼ける」
「そういう意味じゃない!」
二人は時間内に厨房へ戻った。
今日は床が雪で濡れることもない。
紗世は小さく拳を握った。
「よし。今日は計画的」
「肉もある」
「そう。肉もある。営業中に冷蔵庫へ行かない。今日はこれでいく」
駆はうなずいた。
「足りなくなったら?」
「行かない」
「客が泣いたら?」
「行かない」
「肉が呼んだら?」
「病院」
開店時間になった。
店の前には、昨日より早く人が来ていた。
多いわけではない。
行列というほどでもない。
けれど、開店初日に誰も来なかった店にとっては、奇跡みたいな光景だった。
紗世は笑顔で扉を開けた。
「いらっしゃいませ」
最初に入ってきたのは、昨日の客たちではなかった。
SNSを見たらしい若い女性二人組。
次に、近所の作業服姿の男性。
そして、少し遅れて、あのスーツ姿の男性がやって来た。
三日連続で来ている、最初の客だった。
今日は、顔色が少し良い。
最初に来た時のような、今にも机に倒れ込みそうな疲れはない。
男性は店に入るなり、少し照れたように笑った。
「今日も来ちゃいました」
紗世は自然に笑顔になった。
「ありがとうございます。今日も特選肉、あります」
「よかった。昨日から、それを楽しみに仕事してました」
駆が厨房から顔を出した。
「肉で仕事をしてるな」
「違うようで、ちょっと合ってます」
男性は笑った。
紗世は水を出しながら、ふと思った。
名前を知らない。
この人は、開店して初めて特選肉を食べてくれた客だ。
口コミを書いて、店に人を連れてきてくれた。
三日連続で来てくれている。
なのに、まだ名前を知らない。
紗世は少し緊張しながら尋ねた。
「あの、もしよろしければ、お名前を伺ってもいいですか? 今後、予約表も作ろうと思っていて」
男性は少し驚いた後、背筋を伸ばした。
「三島修平です」
「三島さんですね」
紗世は予約表に丁寧に書いた。
三島修平。
その文字を見て、男性――三島は少し嬉しそうにした。
「じゃあ、僕は常連一号ってことでいいですか?」
紗世はペンを止めた。
常連。
その言葉が、胸にじんわり広がった。
店を始める前は、当たり前にできると思っていた。
常連が来る店。
「また来たよ」と言ってくれる客がいる店。
けれど開店初日、客はほぼゼロだった。
借金だけが残り、店は終わったと思った。
その店に今、常連になりたいと言ってくれる人がいる。
紗世は少しだけ声を詰まらせた。
「……はい。常連一号でお願いします」
駆が厨房から言った。
「常連一号には肉を多めにするのか?」
「しない」
「なんで」
「他のお客様と公平にするの!」
三島は笑った。
「大丈夫です。ちゃんと払います」
「そういう問題じゃなくてですね」
「でも、少し多めだと嬉しいです」
「三島さんまで乗らないでください!」
店内に笑いが起きた。
その空気は、昨日までより少し柔らかかった。
単に珍しい肉を食べに来る場所ではない。
客が笑って、店主と話して、また来たいと思う場所。
焼肉アホミートが、少しずつ店になっていく。
今日の特選肉は、赤。
紗世はメニュー札を出した。
――本日の特選肉・赤。数量限定。
三島はそれを見て、目を輝かせた。
「今日は赤なんですね」
「はい。日によって内容が変わります」
「昨日が白で、今日は赤。明日は何色なんですか?」
紗世は笑顔のまま固まった。
分からない。
本当に分からない。
明日の冷蔵庫に聞くしかない。
駆が言った。
「明日、あの冷蔵庫の中身が――」
紗世は、駆の背中を、軽く、つついた。
「……黙って、肉を切る」
三島は、こらえきれずに、笑った。
「息、ぴったりですね」
「夫婦じゃありません」
「違うぞ」
「常連一号の前でもそこは揃うんですね」
三島が言うと、他の客まで笑った。
紗世は顔が熱くなるのを感じた。
違う。
本当に違う。
付き合っていない。
結婚もしていない。
ただ、店を一緒に始めて、借金を一緒に背負って、冷蔵庫の向こうで魔物を一緒に見ているだけだ。
そこまで考えて、紗世は思った。
普通の幼馴染よりは、だいぶ変な関係かもしれない。
赤い特選肉が焼かれる。
ジュウウウウウッ。
昨日の白とは違う香りが立った。
脂の甘さではなく、赤身の強い香り。
草のような爽やかさと、噛む前から分かる濃いうま味。
三島は最初の一枚を、昨日と同じように塩で食べた。
そして、ゆっくりとうなずいた。
「……今日は、力が入る感じですね」
紗世は目を細めた。
昨日の白い肉は、体が軽くなると言っていた。
一昨日の猪肉は、疲れが抜けると言っていた。
今日の赤身は、力が入る。
やはり、肉によって体感が違う。
ただし、これは絶対に宣伝文句にしてはいけない。
疲労回復。体が軽くなる。力が出る。
そんなことを店のメニューに書いた瞬間、別の意味で終わる。
紗世は心の中で赤字で書いた。
効能は言わない。
絶対に言わない。
三島は肉を食べながら、ぽつりと言った。
「実は、最近ずっと仕事がきつくて」
紗世は顔を上げた。
三島は少し恥ずかしそうに笑った。
「会社と家の往復で、食事もコンビニばかりで。昨日も一昨日も、ここに来る前は正直、何を食べても同じだと思ってたんです」
駆は黙って聞いていた。
紗世も、何も言わなかった。
三島は焼けた肉を見つめながら続けた。
「でも、この店で肉を食べたら、なんか……明日も来ようって思えたんですよ。変な言い方ですけど、仕事を頑張る理由じゃなくて、仕事が終わった後に行く場所ができた感じで」
紗世の胸が、少し熱くなった。
世界一の焼肉屋。
借金を返すための店。
冷蔵庫ダンジョンの秘密を守るための店。
そう思っていた。
でも、三島にとっては少し違う。
ここは、疲れた体で帰ってこられる場所になり始めている。
駆が言った。
「じゃあ、明日もうまい肉を出す」
三島は笑った。
「お願いします」
紗世は慌てて言った。
「数量限定ですからね。必ずあるとは限りません」
「じゃあ、予約します」
三島は真面目な顔で言った。
「明日、一人。仕事終わりに」
紗世は予約表を開いた。
初めての予約欄に、名前を書く。
三島修平 一名。
時間は十九時。
紗世は、予約表の文字を、もう一度、見た。
店が、明日につながった気がした。
その後も、客は少しずつ入った。
本日の特選肉・赤は、昼過ぎには完売した。
普通の肉も売れた。
客の何人かは、帰り際に予約表を見て名前を書いた。
「明日も来ます」
「特選肉、予約できますか?」
「色は分からなくてもいいので、一人前お願いします」
紗世は一件ずつ丁寧に受け付けた。
もちろん、内心では冷や汗をかいていた。
予約が入る。
ありがたい。
でも、明日の肉はまだ存在しない。
冷蔵庫の向こうに、何があるかも分からない。
飲食店の予約というより、もはや未来の狩猟予定である。
夕方、三島が会計を済ませた。
「ごちそうさまでした。今日もおいしかったです」
「ありがとうございます」
「本当に、ここができてよかったです」
三島は少し照れたように言って、店を出ていった。
入口のベルが鳴る。
紗世はしばらく、その扉を見つめていた。
駆が隣に来る。
「常連一号だな」
「うん」
「肉を多めにしなくていいのか」
「しない」
「でも、嬉しそうだったぞ」
「……それは、まあ」
紗世は予約表を見た。
三島修平。
その下に、数人分の名前が並んでいる。
まだ少ない。
でも、確かに増えている。
店の未来が、白紙ではなくなっていく。
その夜。
閉店後、紗世はスマホで店名を検索した。
また新しい投稿があった。
投稿者は、三島だった。
《焼肉アホミート、三日連続。勝手に常連一号を名乗りました。今日の特選肉は赤。昨日の白とは全然違う。日替わりの楽しみがある。疲れてる人、一回行ってほしい。あと、店主夫婦は今日も夫婦じゃないと言ってました。》
紗世は最後の一文を見て、額を押さえた。
「そこ、広めなくていいのに……」
駆が横からのぞく。
「常連一号」
「嬉しそうね」
「いい響きだ」
「そうね」
紗世は小さく笑った。
その時、店の電話が鳴った。
二人は同時に電話を見た。
開店してから、営業電話以外で鳴ることはほとんどなかった電話だ。
紗世が受話器を取る。
「はい、焼肉アホミートです」
少し間があった。
そして、相手の声が聞こえた。
『明日の夜、四人で予約したいんですけど。本日の特選肉って、まだありますか?』
紗世は予約表を見た。
三島、一名。
ほかに数名。
そして、今の電話で四名。
まだ店としては小さな予約数だ。
でも、紗世には十分すぎるほど大きく見えた。
「はい。数量限定ですが、ご用意できるようにします」
そう答えながら、紗世は冷蔵庫を見た。
普通の業務用冷蔵庫。
けれど、明日の予約を埋めるには、その向こうへ行かなければならない。
電話を切った後、駆が言った。
「明日は多めに仕入れだな」
紗世は予約表を閉じた。
「多めに、でも安全に」
「安全な肉か」
「違う。安全に仕入れるの」
「肉はだいたい危ないところにいるぞ」
「知ってるわよ!」
冷蔵庫が低く唸っている。
常連一号ができた。
予約表に名前が入った。
焼肉アホミートは、少しずつ人の居場所になり始めている。
ただし、その居場所を守るためには、明日もまた、冷蔵庫の向こうへ行かなければならない。
紗世は予約表を抱え、ため息をついた。
「世界一の焼肉屋って、もしかして毎朝命がけなの?」
駆は当たり前のように答えた。
「うまい肉は、だいたい命がけだ」
「名言っぽく言えば許されると思わないで」
それでも、紗世は笑っていた。
開店初日、終わったと思った店に、常連ができた。
明日の予約が入った。
そして、二人にはまだ、冷蔵庫の向こうがある。
焼肉アホミートの一日は、少しずつ、昨日より忙しくなっていた。




