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第5話「今日の仕入れは雪原でした」

冷蔵庫の向こうに、雪原が広がっていた。


昨日までの土の通路はない。

草の匂いもしない。

かわりに吹き込んでくるのは、頬を刺すような白い風だった。


宮本紗世は、業務用冷蔵庫の扉を握りしめたまま固まっていた。


「……閉めていい?」


阿保駆は雪原の奥を見つめたまま言った。


「肉がいる」


「私の質問に答えて」


「いい肉がいる」


「答えの種類を増やさないで!」


紗世は店内を振り返った。


入口には、さっき出したばかりの札がある。


――仕込みのため、十五分だけ休憩します。


十五分。


たった十五分だ。


お客様がまた来るかもしれない。

口コミを見た人が、店の前で待つかもしれない。

営業中に店主と店長が冷蔵庫の向こうへ消える焼肉屋など、普通に考えて終わっている。


いや、そもそも普通の焼肉屋は冷蔵庫の向こうへ消えない。


紗世はスマホのタイマーを起動した。


「十五分。絶対に十五分で戻るからね」


「分かった」


「本当に分かってる?」


「十五分で肉を獲る」


「肉を獲ることが目的じゃなくて、十五分で戻ることが目的なの!」


駆は首をかしげた。


「肉なしで戻るのか?」


「それはそれで困るけど!」


紗世は頭を抱えた。


この男と話していると、正論が雪に埋まっていく。


それでも、行くしかなかった。


特選肉は完売。

夜営業の分も、明日の分もない。


店がようやく動き始めた今、「今日はありません」を連発するのは痛すぎる。


本当は、行くべきじゃない。頭では、分かっている。


でも、今日だけは。今日だけは、目をつぶる。


紗世は覚悟を決め、冷蔵庫の向こうへ足を踏み入れた。


「寒っ!」


足元は雪だった。


厨房の床から、一歩で雪原。

あまりに現実感がない。


しかも、紗世は店内用の靴のままだ。

防寒着もない。

手袋もない。

持っているのはスマホと、危機感だけである。


一方、駆は平然としていた。


「いい冷え具合だな」


「私は肉じゃないのよ」


「転ぶなよ」


「誰のせいでこんな場所に来てると思ってるの!」


雪原は、見渡す限り白かった。


遠くには針葉樹の森。

空は灰色。

風が吹くたび、細かい雪が地面を流れていく。


そして、その白い地面には、大きな足跡が残っていた。


紗世はしゃがみ込み、足跡を見た。


自分の靴がすっぽり入るどころではない。

鍋でも置けそうな大きさだった。


「……これ、何の足跡?」


駆は真剣な顔で答えた。


「肉付きがいいやつ」


「動物名で答えて」


「四本足。重い。たぶん草食。脂が乗ってる」


「なんで雪の足跡から脂の情報まで分かるのよ」


「沈み方がうまそうだ」


「その感性、どこの学校で習うの?」


その時、遠くで雪が舞い上がった。


白い霧の向こうに、巨大な影が見える。


低い鳴き声が雪原を揺らした。


グオオオオオ……。


姿を現したのは、巨大な牛のような魔物だった。


全身は白い毛に覆われている。

肩の高さだけで、駆の身長を軽く超えている。

頭には氷のように透き通った二本の角。

吐く息は白く、足元の雪がそのたびに凍りついていく。


紗世は声を失った。


「……牛?」


駆はうなずいた。


「焼肉向きだ」


「感想が早い!」


巨大な白い牛は、二人に気づいた。


角を低く構える。

地面を前足でかく。

雪が跳ねる。


明らかに突進の構えだった。


紗世の背筋が凍る。


「駆、戻る!」


「十五分ある」


「今使う言葉じゃない!」


次の瞬間、白い牛が突進してきた。


雪原が揺れた。


重い。

速い。

巨大な体が、白い壁みたいに迫ってくる。


紗世は足が動かなかった。


だが、駆は一歩前に出た。


「いい重心だ」


「褒めてる場合!?」


駆は紗世の襟首をつかみ、ひょいと横へ引いた。


「きゃっ!」


白い牛の角が、ついさっきまで紗世が立っていた場所を通過する。


風圧で雪が吹き飛んだ。


紗世は雪の上に尻もちをついた。


「ちょっと! もっと優しく避難させてよ!」


「転ばなかっただろ」


「転んでる!」


「生きてる」


「基準が低い!」


牛の魔物は勢いのまま少し進み、雪を巻き上げながら向きを変えた。


二度目の突進が来る。


駆は厨房から持ってきた解体包丁を抜いた。


紗世は目を見開いた。


「それ、厨房の包丁!」


「解体用だ」


「場所が厨房じゃない!」


「肉は肉だ」


白い牛が再び突っ込んでくる。


駆は走らない。


ただ、待った。


角が届く寸前、体を半歩ずらす。

白い巨体の横に入り、手のひらで首元を打つ。

さらに、包丁の背で角の根元を正確に叩いた。


鈍い音がした。


牛の魔物の巨体が、雪の上で大きく傾く。


そのまま、ドォン、と倒れた。


雪煙が舞い上がる。


紗世は口を開けたまま固まった。


「……倒した?」


「倒した」


「今の、包丁で斬ったんじゃないの?」


「斬ると肉が荒れる」


「戦闘中に肉質を気にしないで!」


駆は倒れた魔物のそばにしゃがみ込む。


そして、真剣な顔で毛並みと筋肉を確認した。


「いいな」


「何が」


「寒い場所の肉だ。締まってる。でも脂はある。これは焼いたら化ける」


紗世はスマホを見た。


残り、九分三十二秒。


「駆、時間!」


「すぐ解体する」


「すぐって、これ冷蔵庫に入る大きさじゃないでしょ!」


白い牛は巨大だった。


どう考えても、丸ごと厨房には戻せない。


入口で詰まる。

冷蔵庫に牛が詰まる。

そんな店は、飲食店としても物語としてもかなり終わっている。


駆は当然のように言った。


「ここで分ける」


「ここで?」


「雪で冷えてる。ちょうどいい」


紗世は言い返そうとして、やめた。


たしかに、今は雪原だ。

下手な場所より冷えている。

衛生面を考えると色々言いたいことはあるが、この状況自体がすでに衛生面以前の問題だった。


駆は、牛の胸に手を入れ、核を引き抜いた。


パキ、と乾いた音がして、巨体が、部位ごとにほどける。もう、見慣れた光景だった。


ほどけた肉に、駆は包丁を入れた。


そこからの動きは、また異常だった。


毛皮を必要な分だけ開く。

肉を傷つけずに筋を見つける。

骨の位置を確かめ、無駄なく切り分ける。


寒さも、雪も、時間制限も関係ない。


駆の手元だけが、厨房にいる時と同じ速度で動いていた。


その間、紗世は、ただ、突っ立っているしかなかった。


いや、突っ立っている、というのも、もう怪しかった。


店内用の、薄いスニーカー。ソールを通して、雪の冷たさが、直接、足の裏に食い込んでくる。さっき尻もちをついたときに濡れたズボンの裾が、氷みたいに、脛に貼りついていた。


足の指の感覚が、もう、ない。


指先も、かじかんで、スマホの画面を、うまくタップできない。何度も、押し間違える。


歯の根が、合わなくなっていた。かちかち、と、勝手に鳴る。


「……さ、さむ……」


声が、震えて、続かない。


吹き込む風は、さっきより強くなっていた。灰色の空から、細かい雪が、また、降り始めている。


――まずい。これ、たぶん、本当に、まずいやつだ。


頭の隅で、そう思う。でも、体が、うまく、言うことを聞かない。


それでも、紗世は、震える指を、無理やり動かした。


紗世はスマホのタイマーを見ながら叫ぶ。


「残り七分!」


「ロース」


「時間の話!」


「残り六分でカルビ」


「部位で返事しない!」


駆は大きな肉の塊を次々に切り出した。


赤身は濃い。

脂は白い。

ただし昨日の猪とは違う。


雪のように細かい脂が、肉の中に静かに入っている。


紗世は思わずつぶやいた。


「……霜降り」


駆がうなずいた。


「雪原だけにな」


「今の、もしかして駄洒落?」


「肉の説明だ」


「腹立つくらい合ってるのが嫌」


その時、駆が、さっき胸から抜いておいた核を、紗世に、ぽんと放って寄こした。青白い、石だった。


手のひらほどの大きさ。

内側で冷たい光が揺れている。


紗世は目を細めた。


「それ、魔石?」


「たぶん冷えるやつだ」


駆が持っているだけで、周囲の空気が少し白くなっている。


紗世の経営者としての頭が、反射的に動いた。


冷える魔石。

冷蔵。

冷凍。

保存。

鮮度維持。


この店にとって、喉から手が出るほど欲しいものだった。


「それは持って帰る」


「角は?」


「いらない」


「かっこいいぞ」


「店に飾ったら一発で怪しまれるでしょ!」


スマホが鳴った。


ピピピピッ。

ピピピピッ。


十五分のタイマーだった。


紗世の顔色が変わる。


「時間!」


駆は肉を抱えた。


「戻るぞ」


「今さら冷静!」


二人は冷蔵庫の入口へ走った。


いや、駆は走った。

紗世は雪に足を取られながら必死に追いかけた。


厨房へ戻った瞬間、空気が変わった。


雪の匂いが消え、ステンレスとタレの匂いに戻る。


駆は肉の塊を調理台に置いた。


そして――紗世が、その場に、へたり込んだ。


「……あれ」


膝に、力が入らない。立とうとしても、足の裏の感覚がなくて、床を、うまく踏めなかった。全身が、自分の意思と関係なく、がくがくと震えている。歯が鳴って、言葉が、切れ切れになった。


「さ、む……手、うご、かな……」


指先が、白を通り越して、蝋みたいな色になっていた。握ろうとしても、開こうとしても、遠い。


そこで、駆の手が、止まった。


肉から、離れた。


「――紗世」


いつもの、とぼけた声じゃなかった。


駆は大股で近づいてきて、紗世の手を、両手で包んだ。


「冷たい」


「あ、たり、まえ……雪、だし……」


「動くな」


駆は、着ていた上着を脱いで、紗世の肩にかけた。それから、厨房の湯を湯呑みに注いで、震える手に、持たせる。指がうまく閉じないので、上から、駆の手が、支えた。


「肉より、こっちだ」


「……さっきは、肉が先、って」


「あれは、お前が、立ってたときの話だ」


紗世は、湯呑みの熱を、手のひらで、じわじわと感じながら。


なぜか、少し、泣きそうになった。


寒さのせいだ、と、自分に言い聞かせた。


店を再開できたのは、それから、三十分も、あとだった。


紗世の指が、動くようになるまで。足に、感覚が、戻るまで。その間、駆は、黙って、湯を、二回、注ぎ足した。


濡れた床は、結局、紗世が、まだ少し震える手で、拭いた。駆が「やる」と言ったのを、「あんたは、肉」と、押し返して。


開店三日目。


店長の仕事一覧に、また一つ、ろくでもない項目が増えた。接客、会計、秘密保持、危機管理、雪原帰りの厨房清掃。そして――凍えかけた自分の、介抱。


人生で、こんな業務一覧を書く日が来るとは、思わなかった。


そして、モップを握りしめたまま、紗世は、はっきりと、思った。


もう、二度と、御免だ。


営業中に、あの扉を開けて、店主も店長も、二人して消える。あんな綱渡りは、二度と、しない。


今日は、たまたま、うまくいっただけだ。駆が牛を一撃で倒して、肉を抱えて、動けなくなった自分を引きずって、帰ってこられた。ただ、それだけ。


もし、あの牛が、もう一頭いたら。もし、駆が、かすり傷でも負っていたら。もし、帰り道の入口が、雪で、分からなくなっていたら。


――たぶん、私は、あの雪原で、動けなくなっていた。そのまま。


そう思うと、今ごろになって、背筋が、寒さとは別の理由で、震えた。


紗世は、夜営業用の小さなメニュー札を新しく作った。


――本日の特選肉・白。数量限定。


駆がそれを見て言った。


「雪原牛」


「書かない」


「白角牛」


「書かない」


「冷蔵庫牛」


「絶対書かない!」


夜になると、昼に特選肉を食べ損ねた客が数人やって来た。


昨日のスーツ姿の男性も、また来た。


「今日の特選肉、昼で売り切れたって聞いたんですけど」


紗世は笑顔で答えた。


「少しだけ、夜の分をご用意できました」


「昨日と同じ肉ですか?」


その質問に、紗世は一瞬だけ迷った。


同じではない。

でも、正直に言いすぎると危ない。


だから、こう答えた。


「日によって、内容が変わります」


男性の目が輝いた。


「日替わりなんですか?」


紗世は内心でしまったと思った。


日替わり。


言葉にした瞬間、期待値が上がる。

明日も、明後日も、違う肉が出ると思われる。


しかし、もう遅い。


駆が厨房から言った。


「今日は白い」


「情報を足さない!」


客たちは笑った。


また夫婦漫才だと思っている。


違う。


これは情報漏洩を防ぐための戦いだ。


本日の特選肉・白が焼かれる。


ジュウウウウウッ。


昨日の猪とは、香りが違った。


甘い。

だが重くない。

脂の香りがきれいで、どこか澄んでいる。


雪原の空気を閉じ込めたような、不思議な肉だった。


客が一口食べる。


また、止まった。


昨日と同じ沈黙。

でも、表情は少し違う。


男性は目を閉じ、ゆっくり息を吐いた。


「……昨日の肉は力が出る感じでしたけど、今日のは体が軽くなる感じですね」


隣の客がうなずく。


「脂があるのに、全然重くない」


「これ、本当に何の肉ですか?」


紗世は笑顔を貼りつけた。


「特別な仕入れルートの希少肉です」


「どこから仕入れてるんですか?」


「企業秘密です」


「店長さん、笑顔が怖いです」


「気のせいです」


駆が厨房から、何か言いかけた。


「あの、冷たい――」


紗世が、間髪入れずに、被せた。


「駆」


「……黙って肉を切る」


「今度は、早かったわね」


客席でまた笑いが起きた。


その笑い声を聞きながら、紗世は思った。


危ない。

本当に危ない。


でも、楽しい。


客が肉を食べて驚く。

笑う。

また来ると言う。


それは、開店初日に客が一人も来なかった店には、あまりにもまぶしい光景だった。


夜の特選肉も、すぐに完売した。


紗世はメニュー札を裏返す。


――本日の特選肉、売り切れ。


その瞬間、客席から小さなため息が漏れた。


「明日は何の肉ですか?」


誰かが言った。


紗世は答えに詰まった。


明日。


明日の肉。


そんなもの、紗世にも分からない。


冷蔵庫を開けなければ、どこにつながっているか分からないのだ。


駆は平然と言った。


「明日、冷蔵庫に聞く」


紗世は目を閉じた。


「……そういうことを、客前で言わない」


客たちは笑った。


冗談だと思っている。


今は、それでいい。


店を閉めた後、紗世はレジを締めた。


今日の売上は、昨日の比ではなかった。


まだ借金の額を考えれば、小さな一歩だ。

それでも、確かな一歩だった。


紗世は売上表を見つめ、少しだけ口元を緩めた。


「……売れた」


駆は厨房で肉の状態を確認しながら言った。


「明日も獲る」


「その前に、ルールを増やす」


「またか」


「またよ。今日で分かった。あのダンジョン、毎日場所が変わる。つまり、毎回リスクが違う」


「肉も違う」


「そこは分かってる」


紗世は冷蔵庫を見た。


ただの業務用冷蔵庫。

駆の、じいちゃんの形見。

そして今は、焼肉アホミートの心臓部。


この冷蔵庫が開くたび、仕入れが決まる。

メニューが決まる。

売上が決まる。


もしかしたら、店の未来まで決まるのかもしれない。


紗世はスマホを開いた。


口コミは、また増えていた。


《今日の特選肉、昨日と違った》

《日替わりらしい》

《白い肉、うますぎ》

《明日は何が出るんだろう》

《店主夫婦のやり取りもクセになる》


紗世は最後の一文を見て、眉間を押さえた。


「また夫婦って書かれてる……」


駆が横からのぞき込む。


「違うのにな」


「違うわよ」


二人の声は、また揃った。


誰もいない店内で、紗世はため息をついた。


焼肉アホミートは、少しずつ知られ始めている。


本日の特選肉。

日替わりの希少肉。

元気になる焼肉。

夫婦漫才の店。


どれも間違っているようで、完全には間違っていない。


そして、そのすべての中心にあるのは、厨房の業務用冷蔵庫だった。


扉の取っ手は、今日も、氷のように冷たいままだった。


明日、その向こうに何が広がっているのか。

紗世には分からない。


ただ一つだけ分かることがある。


売れたら売れたで困る。


でも、売れないよりは、ずっといい。


紗世は冷蔵庫に向かって小さく言った。


「明日は、できれば安全なところでお願いします」


駆は笑った。


「肉がいればどこでもいい」


「その考えが一番危ないのよ」


冷蔵庫の向こうで、何かが遠く鳴いた気がした。


明日の仕入れ先は、まだ誰にも分からない。


ただ、焼肉アホミートの“日替わり特選肉”は、この日から少しずつ噂になり始めた。

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