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第4話「売れたら売れたで困る」

翌朝。


宮本紗世は、店のカウンターでスマホを握りしめていた。


画面には、昨日の口コミ投稿が表示されている。


《商店街にできた新しい焼肉屋、正直すごかった。 本日の特選肉、今まで食べた肉で一番うまい。 体まで軽くなった気がする。 店主夫婦の掛け合いも面白い。 絶対また行く。》


投稿自体はありがたい。


ありがたいどころではない。


開店初日に客がほぼゼロだった店にとって、初めての口コミは命綱みたいなものだった。


ただし、問題はその下だった。


《この店どこ?》

《本日の特選肉って何?》

《夫婦漫才気になる》

《今日行ってみようかな》

《肉うますぎて、これ魔物肉なんじゃ(笑)》


紗世の指が止まった。


「……最後のコメント、消えてくれないかな」


少し考えて、紗世は店の公式アカウントから、そのコメントにだけ返信した。


《コメントありがとうございます! 特別な仕入れルートで手に入れた、希少なお肉なんです。毎日必死に仕込んでますので、ぜひ確かめに来てくださいね!》


魔物肉、と書かれたコメントには、そう返した。笑い話にして、流す。事実を否定はしない。ただ、噂の方向を、ずらすだけ。


これくらいの火消しは、慣れている。


でも、と紗世は思う。


もう一つの勘違いのほうには、指一本、触れなかった。


《店主夫婦の掛け合いも面白い》。《夫婦漫才気になる》。


若い夫婦がやっている、街の小さな焼肉屋。人が勝手に、そういう物語を、貼りつけていく。


紗世は、そのコメントを、ただ、スクロールして流した。返信もしない。訂正も、しない。


嘘は、つかない。融資の紙にも、面と向かった相手にも、嘘だけは、書かない、言わない。それが、自分の、たった一つの筋だった。


でも――こっちから仕掛けてもいない勘違いを、わざわざ正しに回る義理も、ない。触らなければ、嘘にはならない。ただ、黙って、放っておく。それだけだ。


面と向かって聞かれたら、反射で「違います」と言ってしまう。それは、もう直らない。それで、いい。


考えてみれば、これも、始めた覚えのない「偽装」だった。自分から仕掛けたわけじゃない。いつのまにか、二人ぶんの看板を、背負わされていた。


「……勝手に応援してくれるぶんには、止めないけどね」


厨房では、阿保駆が包丁を研いでいた。


シャッ。


シャッ。


妙にいい音がする。


「何かあったのか」


「口コミが伸びてる」


「いいことだな」


「いいことよ。いいことなんだけど、すでに危ない」


「肉がか?」


「情報がよ!」


紗世はスマホを駆に見せた。


駆は画面を見て、真面目な顔でうなずいた。


「夫婦漫才って書いてある」


「そこじゃない」


「夫婦じゃないのにな」


「そこでもない!」


紗世が指でコメント欄を叩く。


「ここ。冗談でも、“魔物肉”って単語が出てる」


駆は首をかしげた。


「実際、魔物の肉だろ」


「だから言っちゃだめなの!」


世界にダンジョンはまだ少ない。


日本で確認された例はごくわずかで、そのどれもが国や認可団体の管理下にある。私有地に湧いたダンジョンなど、前例が一つもない。


魔物肉は存在する。


しかし、一般の焼肉屋が気軽に出せるような食材ではない。


高級店や研究機関、特別なルートを持つ業者に限られる。


だからこそ、商店街の新規開店の焼肉屋が、開店二日目から最高品質の魔物肉を出しているなど、知られていいはずがなかった。


紗世は深呼吸した。


「今日から説明を統一します」


「説明」


「お客様に聞かれたら、本日の特選肉は“特別な仕入れルートの希少肉”です。産地や詳細は言えません。数量限定です。以上」


駆はうなずいた。


「特別な仕入れルート」


「そう」


「冷蔵庫」


「違う」


「冷蔵庫は特別だぞ」


「事実を足すな!」


紗世は頭を抱えた。


この男を表に出すのは危険だ。


しかし、この男がいないと肉は切れない。


店の最大戦力が、店の最大リスクでもある。


焼肉アホミートは、開店三日目にしてすでに経営の難しさを凝縮したような状態になっていた。


その日の特選肉は、昨日の残りを慎重に切り分けた八人前だけだった。


紗世はメニュー札に、いつもより大きく書いた。


――本日の特選肉。数量限定。


その下に、小さく付け足す。


――詳細は店主に聞かないでください。


駆がそれを見た。


「聞かれたらどうする」


「私が答える」


「俺は?」


「黙って肉を切る」


「分かった」


「本当に?」


「黙って肉を切る」


「そう。それでいい」


「肉が話しかけてきたら?」


「それは病院に行く」


開店時間になった。


紗世は入口に立ち、表情を整えた。


昨日は一人。


駆の予想では、今日は二人。


紗世の予想では、三人来れば上出来。


それくらいに考えていた。


カラン。


ベルが鳴った。


入ってきたのは、昨日のくたびれたスーツ姿の男性だった。


今日は一人ではない。


同じ会社の人間らしい男女を二人連れている。


「こんにちは。昨日の肉、まだありますか?」


紗世の顔に笑顔が浮かんだ。


「はい。数量限定ですが、ご用意できます」


男性は後ろの二人に言った。


「ほら、言っただろ。ここ」


同僚の女性が店内を見回す。


「本当に普通の焼肉屋ですね」


「普通じゃないのは肉です」


男性が、表情を変えずに言った。


紗世は内心で少し震えた。


普通じゃない。


その言葉は、宣伝としては最高だった。


しかし、秘密を抱える側としては心臓に悪い。


駆が厨房から顔を出した。


「昨日の人か」


「はい。今日も来ました」


「肉、あるぞ」


「それを食べに来ました」


紗世はすぐに間に入った。


「本日の特選肉ですね。三人前でよろしいですか?」


「お願いします」


三人前。


残り五人前。


紗世は頭の中で在庫を数えながら、注文を通した。


駆が肉を切る。


包丁が走るたびに、肉の断面が美しく揃っていく。


赤身は深く、脂は白く、皿の上で静かに光っているように見えた。


同僚の男性が、運ばれてきた皿を見て眉を上げる。


「これ、写真撮っていいですか?」


紗世は一瞬迷った。


写真。


宣伝になる。


でも、広まりすぎる。


ありがたい。


怖い。


ありがたい。


怖い。


頭の中で天秤が高速で揺れた結果、紗世は笑顔で言った。


「お料理の写真は大丈夫です。ただ、仕入れについては秘密でお願いします」


「秘密なんですね」


「はい。秘密です」


駆が厨房から言った。


「冷蔵――」


紗世は振り返らずに言った。


「駆」


「……黙って肉を切る」


「そう」


客たちが笑った。


また夫婦漫才だと思われている顔だった。


違う。


これは店の存亡をかけた情報統制である。


肉が焼ける。


ジュウウウウウッ。


音がした瞬間、三人の表情が変わった。


香りが店内に広がる。


甘い脂。


香ばしい赤身。


それなのに重くない、澄んだ匂い。


昨日の男性は、慣れたように塩を取った。


「最初は塩です」


駆が満足そうにうなずく。


「分かってるな」


「昨日、教わりましたから」


同僚二人も真似をして、焼けた肉に塩をつける。


そして、食べた。


三人とも、止まった。


紗世はその反応を見て、昨日と同じだと思った。


人は本当にうまいものを食べた時、すぐには騒がない。


まず、黙る。


口の中で起きていることに、頭が追いつかなくなるのだ。


同僚の女性が、ゆっくり目を開けた。


「……何これ」


同僚の男性は、ご飯を注文した。


まだ一枚しか食べていないのに。


昨日の男性は、なぜか誇らしげにうなずいた。


「だから言っただろ」


「これは言葉じゃ伝わらないです」


「でしょ」


紗世はレジの数字を、もう一度、見返した。


指先が、少しだけ、震えている。


ふっと、肩の力が、抜けた。


自分たちの店で出した肉を、客が本気で喜んでいる。


開店初日に終わったと思った店が、今、確かに動いている。


だが、喜びは長く続かなかった。


カラン。


またベルが鳴った。


今度は若い男女二人組。


「すみません、SNSで見たんですけど、本日の特選肉ってまだありますか?」


紗世の笑顔が少し固まった。


「はい。残り少しですが」


二人前。


残り三人前。


カラン。


さらに一人。


「ここ、昨日バズってた焼肉屋ですか?」


バズってはいない。


まだ小さく燃え始めただけだ。


ただし、紗世の胃にはすでに大火災だった。


「本日の特選肉、ありますか?」


一人前。


残り二人前。


その後、最初の三人が追加注文をした。


「すみません、特選肉、追加できますか?」


紗世は伝票を見た。


残り二人前。


客席を見る。


みんな期待した顔をしている。


厨房を見る。


駆が平然と包丁を持っている。


冷蔵庫を見る。


扉は静かに閉まっている。


紗世は笑顔を保ったまま言った。


「……二人前まででしたら」


最後の二人前が出た。


焼かれた。


食べられた。


そして、消えた。


本日の特選肉、完売。


開店から一時間も経っていなかった。


紗世はメニュー札を裏返した。


――本日の特選肉、売り切れ。


それを見た駆が言った。


「足りないな」


「足りないわね」


「獲ってくる」


「行かない」


「すぐだ」


「営業中!」


「五分で戻る」


「五分で魔物を倒して解体して戻ってくる前提がおかしいの!」


駆は不思議そうな顔をした。


「できるぞ」


「できるかどうかじゃないの! やっていいかどうかなの!」


客席から笑い声が起きた。


また夫婦喧嘩だと思われている。


違う。


これは、まだ誰にも知られていないダンジョンへの、無許可の即時再仕入れを止める、極めて重要な危機管理である。


紗世は、普通の肉の注文を勧めた。


もちろん、普通の肉も悪くない。


駆が切っているから、そこらの焼肉屋よりずっとおいしい。


だが、特選肉を食べた客は、もう知ってしまっている。


あの肉の味を。


あの体の奥から温まるような感覚を。


同僚の女性が申し訳なさそうに言った。


「普通のお肉もおいしいです。でも、さっきのが忘れられなくて」


紗世は笑顔で答えた。


「ありがとうございます。明日も数量限定でご用意する予定です」


明日。


自分で言いながら、紗世は思った。


明日の分を、今夜また獲りに行くのか。


冷蔵庫の向こうへ。


あの巨大な魔物がいる場所へ。


怖い。


でも、売れた。


客が喜んだ。


店が動いた。


数字も動いた。


今日の売上は、昨日までとはまるで違う。


紗世はレジ横の伝票を見て、少しだけ泣きそうになった。


それくらい、売上というものは現実的で、ありがたかった。


ランチ営業が落ち着いた頃、紗世は店の入口に小さな札を出した。


――仕込みのため、十五分だけ休憩します。


駆が目を輝かせた。


「仕入れだな」


「仕込み」


「仕入れ込み」


「新しい言葉を作らないで」


紗世は客席を片付け、厨房に戻った。


本当は、絶対に営業中に行くべきではない。


だが、明日の分がない。


今日の夜にもう一度客が来たら、出せる特選肉もない。


しかも、口コミは今も少しずつ広がっている。


紗世は冷蔵庫の前で駆をにらんだ。


「ルールを決めます」


「ルール」


「一つ。今日は奥に行きすぎない」


「分かった」


「二つ。危ないと思ったらすぐ戻る」


「分かった」


「三つ。変なものを勝手に持って帰らない」


「肉は?」


「肉は目的だからいい」


「魔石は?」


「……状態が良ければ持って帰る」


「角は?」


「いらない」


「かっこいいぞ」


「いらない!」


駆は少し残念そうにした。


紗世は、扉に手をかけ――ようとして、やめた。


そういえば、この冷蔵庫は。紗世が開けても、ただの冷蔵庫だった。冷たい庫内に、昨日の残りのタレと、白い飯が、あるだけ。向こうに、あの世界が広がるのは、駆が開けたときだけ。……どうして、と聞かれても、分からない。いつからか、そうなっていた。ただ、そうなっている。


「駆。開けて」


「ん」


駆が、冷蔵庫の扉を開けた。


昨日と同じはずだった。


冷たい風。


土の通路。


薄暗い奥。


巨大な猪の気配。


そう思っていた。


だが、扉を開けた瞬間。


白い風が吹き込んできた。


「……寒っ!」


紗世は思わず声を上げた。


昨日とは違う。


冷蔵庫の奥にあったはずの土の通路は消えていた。


その代わりに広がっていたのは、一面の雪原だった。


白い地面。


灰色の空。


遠くに見える針葉樹の森。


そして、雪の上に残る大きな足跡。


駆はその足跡を見て、嬉しそうに笑った。


「今日は違う肉だな」


紗世は冷蔵庫の扉を握りしめたまま固まっていた。


「……待って。昨日と場所、違わない?」


「違うな」


「なんでそんなに落ち着いてるの?」


「日替わり仕入れだ」


「そんなランチメニューみたいに言わないで!」


その時、雪原の奥から、低い鳴き声が聞こえた。


昨日の猪とは違う。


もっと重く、もっと冷たい声。


グオオオオ……。


白い霧の向こうで、巨大な影が動いた。


駆は包丁を握り直した。


刃を立てるのは、皮を切るためじゃない。分厚い皮の下にある、急所を、探すための一振りだ。


紗世は顔を引きつらせた。


「駆」


「なんだ」


「十五分で戻るからね」


「努力する」


「そこは約束して!」


冷蔵庫の向こうは、昨日とは違う狩場になっていた。


焼肉アホミートの仕入れは、どうやら毎日同じでは済まないらしい。


そして、雪原の奥で待つその魔物が、明日の特選肉になるかもしれなかった。

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