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第3話「本日の特選肉」

翌朝。


焼肉アホミートの厨房には、妙な緊張感が漂っていた。


調理台の上には、昨日ダンジョンから持ち帰った猪型魔物の肉が並んでいる。


深い赤身。

白く光る脂。

包丁を入れた断面は、普通の肉よりもずっとなめらかで、どこか生きているような力を感じさせた。


宮本紗世は、その肉を前に腕を組んでいた。


「問題は、これをどう出すかよね」


阿保駆は肉を見つめながら言った。


「そのまま、出す」


「そういう話じゃない」


「切って、出す。焼くのは、客だ」


「一段階増やしても同じなのよ」


紗世は深くため息をついた。


昨日、二人はこの肉を食べた。

そして、分かってしまった。


これは売れる。


売れるなんてものではない。

客が一口食べれば、確実に忘れられない味になる。


それくらい、昨日の肉は常識外れだった。


ただし、問題も山ほどある。


仕入れ先を聞かれたらどうするのか。

安全性をどう説明するのか。

値段はいくらにするのか。

そもそも、冷蔵庫の向こうがダンジョンだと知られたらどうなるのか。


紗世は頭の中で、危険な未来を想像した。


保健所。

警察。

ダンジョン管理局。

税務署。

銀行。

近所の噂好きのおばちゃん。


最後の一つが、地味に一番怖かった。


「駆。絶対に、冷蔵庫のことは誰にも言わないで」


「分かってる」


「本当に?」


「冷蔵庫の奥にダンジョンがあることは言わない」


「今そのまま言ったわよね?」


「ここには客がいない」


「客が来た時に言うなって話!」


駆は真面目な顔でうなずいた。


「じゃあ、仕入れ先は秘密」


「そう。それでいい」


「秘密の山で獲れた肉」


「言い方が危ない」


「知り合いの猟師から」


「誰よ、その猟師」


「俺と、死んだじいちゃん」


「片方、急に重い!」


紗世は額を押さえた。


この男に説明を任せたら、十秒で終わる。

店が。

人生が。


だから、紗世は決めた。


客への説明は全部自分がする。


メニュー名は無難にした。


――本日の特選肉。数量限定。


産地も、種類も、細かい説明も書かない。


価格は迷った。


安すぎると怪しい。

高すぎると開店二日目の店では誰も頼まない。


結果、紗世は普通の上カルビより少し高い値段をつけた。


「本当はもっと取れる気がするけど……まずは食べてもらうことが先ね」


駆は首をかしげた。


「全部出せばいいだろ」


「出さない」


「なんで」


「数量限定にした方が特別感が出るの。あと、いきなり全部売ると説明が大変」


「なるほど」


「分かってなさそうな顔で言わないで」


開店時間になった。


昨日と同じように、二人は入口に立った。


紗世は笑顔を作る。

駆はまた拳を軽く握った。


「だからその構えやめて」


「今日は少し柔らかめの構えだ」


「接客に構えの種類はいらない」


しかし、客は来なかった。


昨日ほどではないにしても、感染症の影響は大きい。

商店街を歩く人も少ない。

予約もほとんど入っていない。


昼を過ぎても、店内は静かなままだった。


駆は厨房で包丁を研ぎながら言った。


「肉はある」


「客がいないのよ」


「俺が食うか?」


「売上にならない」


「紗世が食うか?」


「もっと売上にならない」


「じゃあ、肉が寂しがるな」


「肉の感情を勝手に作らないで」


その時だった。


カラン。


入口のベルが鳴った。


紗世は反射的に顔を上げた。


入ってきたのは、くたびれたスーツ姿の男性だった。


年齢は四十代くらい。

髪は少し乱れ、顔には疲れがにじんでいる。

手にはコンビニの袋を持っていた。


男性は店内を見回し、少し気まずそうに言った。


「……やってます?」


紗世の目が輝いた。


「はい! やってます! ものすごくやってます!」


勢いが強すぎたのか、男性は一歩引いた。


駆も厨房から顔を出す。


「肉、焼けます」


「それは焼肉屋ならそうでしょうね」


紗世は小声でツッコみながら、男性を席へ案内した。


客。

本物の客だ。


昨日から数えて、ほぼ初めての客と言っていい。


紗世は水とおしぼりを出しながら、丁寧に頭を下げた。


「ご来店ありがとうございます」


男性は疲れた顔でメニューを開いた。


「昨日オープンでしたよね。前を通ったんですけど、なんか大変そうだったから」


「あ、はい。まあ、少しだけ」


「少しだけ?」


紗世の背後で、駆が言った。


「客がゼロだった」


「言わなくていい!」


男性は一瞬驚き、それから少し笑った。


「正直ですね」


「すみません、この人、正直というか、情報の出し方が下手で」


「夫婦でお店って大変ですね」


「夫婦じゃありません」


「違います」


またしても二人は同時に否定した。


男性は二人を見て、少しだけ目を細めた。


「息ぴったりですね」


「違います」


「違うぞ」


「だから、そこだけ息ぴったりなのやめて!」


男性は今度こそ声を出して笑った。


その笑い声が、静かだった店内に少しだけ温度を戻した。


男性はメニューを見ながら言った。


「じゃあ、おすすめをもらえますか。昨日からまともに食べてなくて」


紗世は一瞬迷った。


いきなり裏メニューを出していいのか。


でも、この店に今必要なのは、普通の焼肉屋として無難にやることではない。

客の記憶に残ることだ。


紗世は小さく息を吸った。


「でしたら、本日の特選肉があります。数量限定です」


男性は顔を上げた。


「特選肉?」


「はい。仕入れ先は詳しく言えないんですが、かなり良いお肉です」


「怪しいですね」


「自分でもそう思います」


紗世は正直に言った。


男性はまた笑った。


「じゃあ、それで」


厨房で駆の目が光った。


「来たな」


「狩りに行く顔しないで。もう肉はあるから」


駆は魔物肉を取り出した。


包丁が入る。


昨日と同じように、肉は美しく切り分けられていく。

一枚一枚の厚さが揃い、脂の入り方まで計算されている。


駆は勉強ができない。

契約書も読めない。

金利も分からない。


でも、肉だけは分かる。


そのことを、紗世は誰よりも知っていた。


皿に盛られた特選肉は、開店二日目の小さな焼肉屋には似合わないほど見事だった。


男性も、運ばれてきた皿を見て表情を変えた。


「……これ、本当にこの値段でいいんですか?」


紗世は内心で思った。


たぶん、よくない。


でも、笑顔で言った。


「開店記念です」


「なるほど」


駆は、肉を一枚、ロースターに乗せた。


ジュウウウウウッ。


音がした瞬間、空気が変わった。


香ばしい匂いが、店内に広がる。

脂が焼ける甘い香り。

それでいて、しつこさがない。

鼻から入った匂いだけで、体が少し前のめりになるような力があった。


男性は目を見開いた。


「……匂いがすごいですね」


駆はうなずいた。


「いい肉は、焼ける前からうまい」


「それは名言っぽいけど、たぶん勢いだけよ」


駆は、頃合いを見て、肉をひっくり返し、焼き上がった一枚を、皿に、乗せて出した。


男性はタレをつけようとした。


その瞬間、駆が言った。


「最初は塩で」


男性の手が止まる。


紗世も驚いて駆を見た。


いつもの駆なら、「好きに食え」と言いそうなものだ。


だが、駆の顔は真剣だった。


「最初の一枚は、塩がいい」


男性は少し笑い、肉に塩を軽くつけた。


そして、口に入れた。


その瞬間。


男性の動きが止まった。


箸を持つ手。

背中。

表情。


全部が止まった。


紗世は不安になった。


「……あの、大丈夫ですか?」


男性は何も言わない。


駆はじっと見ている。


男性はゆっくりと、肉を噛んだ。


一回。

二回。

三回。


そして、目を閉じた。


「……うまい」


小さな声だった。


けれど、その声には、嘘がなかった。


男性はもう一度言った。


「うまい……なんだこれ」


そこからは早かった。


駆が、二枚目を焼いた。

三枚目も、焼いた。

男性は、米を頼んだ。

追加で肉を頼んだ。

さらに米を頼んだ。


紗世は少し心配になった。


「そんなに一気に食べて大丈夫ですか?」


男性は箸を止めずに言った。


「大丈夫です。なんか、体が起きてきました」


「体が?」


「昨日からずっとだるかったんですけど……食べてるうちに、背中が軽いというか」


紗世は目を細めた。


やっぱり。


昨日、自分たちも感じた。

疲れが抜けるような、体の奥に力が戻るような感覚。


この肉には、ただの栄養以上の何かがある。


駆は当然のように言った。


「いい肉だからな」


「説明が全部それで済むと思わないで」


男性は最後の一枚を大事そうに焼き、ゆっくり食べた。


そして、深く息を吐いた。


「ごちそうさまでした」


その顔は、入ってきた時とは別人のようだった。


くたびれていた目に、少しだけ光が戻っている。

背筋も伸びている。


男性は会計の時、財布を出しながら言った。


「正直、最初は空いてるから入っただけなんですけど」


紗世は少し緊張した。


「はい」


「明日も来ます」


その一言に、紗世の胸が跳ねた。


「本当ですか?」


「はい。あと、会社の同僚にも言います。最近みんな疲れてるんで」


紗世は笑顔になりかけて、すぐに冷静さを取り戻した。


口コミ。

これは大きい。


でも、広がりすぎるのも危険だ。


「ありがとうございます。ただ、特選肉は数量限定なので……」


「分かりました。早めに来ます」


男性は店を出る前に、もう一度振り返った。


「いいお店ですね。若いご夫婦で大変だと思いますけど、頑張ってください」


「夫婦じゃありません」


「違うぞ」


「最後までそこだけ揃いますね」


男性は笑いながら帰っていった。


入口のベルが鳴り、店内はまた静かになった。


けれど、昨日の静けさとは違った。


紗世はレジの前で、売上伝票を見つめていた。


たった一人分の売上。


それでも、確かに売上だった。


開店して初めて、店が店として動いた気がした。


駆は厨房から顔を出した。


「明日も仕入れだな」


紗世は冷蔵庫を見た。


普通なら、絶対に嫌だ。

冷蔵庫の向こうに魔物がいるなんて、考えるだけで胃が痛い。


でも。


今日、客が笑った。

肉を食べて元気になった。

明日も来ると言った。


その事実が、紗世の中で恐怖より少しだけ大きくなっていた。


「……明日も、少しだけね」


駆はうなずいた。


「少しだけ狩る」


「“少しだけ”の感覚が信用できないのよ」


その夜。


店を閉めた後、紗世は何気なくスマホを見た。


検索欄に、店名を入れる。


焼肉アホミート。


まだ何も出てこないはずだった。


そう思っていた。


けれど、ひとつだけ投稿があった。


《商店街にできた新しい焼肉屋、正直すごかった。

本日の特選肉、今まで食べた肉で一番うまい。

体まで軽くなった気がする。

店主夫婦の掛け合いも面白い。

絶対また行く。》


紗世の手が止まった。


「……投稿されてる」


駆が横からのぞき込む。


「店主夫婦?」


「そこじゃない!」


紗世は画面を見つめた。


いい口コミだ。

ありがたい口コミだ。


でも、同時に嫌な予感もした。


この投稿を見た人が来る。

特選肉を食べる。

さらに口コミが広がる。


それは店にとって最高のことだ。


最高のことのはずなのに。


「……明日、何人来ると思う?」


駆は真面目な顔で考えた。


「二人」


「なんで?」


「今日の倍だ」


「計算が雑!」


紗世はスマホを握りしめた。


その時、通知が鳴った。


《この店どこ?》

《本日の特選肉って何?》

《明日行ってみたい》

《夫婦漫才も気になる》


コメントが、少しずつ増えていく。


紗世の顔から血の気が引いた。


「駆」


「なんだ」


「明日、たぶん二人じゃ済まない」


駆は嬉しそうに笑った。


「じゃあ、いっぱい仕入れだな」


「だから、その仕入れ先が問題なのよ!」


厨房の奥で、業務用冷蔵庫が静かに唸っている。


その向こうには、今日も誰も知らないダンジョンが広がっている。


開店初日に終わったはずの店。

誰にも期待されていなかった焼肉屋。


その名前が、ほんの少しだけ、誰かの目に留まった。


焼肉アホミート。


最初の常連と、最初の口コミ。


世界一の焼肉屋への一歩は、たった一人の客の「うまい」から始まった。



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