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冷蔵庫の奥はダンジョン!?偽装新婚で挑む、極上魔物肉の爆笑焼肉屋経営!

業務用冷蔵庫の奥から、獣の声が聞こえた。


グルルルル……。


普通なら、すぐに扉を閉める。

警察を呼ぶ。

あるいは、管理会社に電話する。


しかし阿保駆は違った。


「肉の気配がする」


その目は、開店初日に客が一人も来なかった男の目ではなかった。

借金数千万円を背負った男の目でもなかった。


完全に、狩りに行く男の目だった。


宮本紗世は、そんな駆の横顔を見て、全力で嫌な予感がした。


「待って。絶対待って。今、あんたの中で何か始まったでしょ」

「始まったかもしれん」

「終わらせて」


紗世は冷蔵庫の扉を閉めようとした。


だが、駆はすでに片足を冷蔵庫の中へ突っ込んでいた。


「確認だけだ」

「あんたの確認って、だいたい事件になるのよ!」

「大丈夫。危なかったら戻る」

「危ないかどうかを判断する頭が危ないの!」


紗世の必死の制止もむなしく、駆は冷蔵庫の奥へ進んでいく。


仕方なく、紗世もスマホのライトをつけて後を追った。

一人で残る方が怖かったからだ。


冷蔵庫の中は、もう冷蔵庫ではなかった。


ステンレスの壁は途中で消え、足元は土になっていた。

天井は高く、薄暗い通路が奥へ続いている。

空気は冷たく、草と獣の匂いがした。


紗世は震える声で言った。


「……これ、どう見てもダンジョンよね?」

「だな」

「なんでそんなに冷静なの?」

「冷蔵庫に入ったらダンジョンだっただけだろ」

「“だけ”で済ませられる人生送ってないのよ、普通の人間は!」


ダンジョン。


数年前から世界各地に出現した、魔物が住む謎の空間。

日本で確認されているものも数えるほどで、そのすべてが国や認可団体の管理下にある。私有地にできた例など、ひとつもないと言われている。


魔物肉は高級食材として限定的に流通し、魔石は希少なエネルギー資源として使われている。

だから、紗世もダンジョンの存在自体は知っていた。

ただし、それは、そうした限られたダンジョンから出るとされる特別な資源であり、一般の焼肉屋が気軽に扱えるものではなかった。


だが、問題はそこではない。


なぜ、自分たちの店の冷蔵庫とつながっているのか。

なぜ、昨日までは普通の冷蔵庫だったのか。

なぜ、開店初日に店が終わった直後なのか。


そもそも、この冷蔵庫は、店の備品ですらなかった。駆が「じいちゃんの形見だ」と言って、どうしても持ち込んだ、古い一台。……そのなんの変哲もないはずの冷蔵庫が、今、見知らぬ通路につながっている。


考えることは山ほどあった。


しかし、駆は目の前の地面を見ていた。


「足跡がある」

「え?」

「四本足。重い。たぶん肉付きがいい」

「だから判断基準が肉なのやめて!」


その時だった。


通路の奥から、何かが飛び出してきた。


巨大な猪だった。


ただの猪ではない。

肩の高さだけで大人の胸ほどある。

牙は包丁のように鋭く、背中には黒い毛が鎧のように生えている。


紗世は悲鳴を上げた。


「出たああああああ!」

「いい肉だ」


駆は笑った。


次の瞬間、巨大猪が突進してきた。


地面が揺れる。

冷たい空気が割れる。

紗世は腰を抜かしそうになった。


しかし駆は、逃げなかった。


一歩前に出る。


猪の牙が届く寸前、駆の体がふっと消えたように見えた。


次の瞬間。


ドンッ。


重い音が響いた。


巨大猪は、駆の横をすり抜けるように倒れた。

首元に一撃。

無駄のない動き。

まるで最初から、倒れる場所まで決まっていたみたいだった。


紗世は口を開けたまま固まった。


「……倒した?」

「倒した」

「今の、何したの?」

「ちょっと急所を叩いた」

「“ちょっと”で巨大猪が沈む世界、私は知らない」


「なんで、急所が分かるの。魔物なんて、あんたも初めて見たでしょ」


駆は、こともなげに言った。


「じいちゃんに、仕込まれた。獣の急所だ。……魔物も、たぶん、同じ場所だろ」


「じいちゃん!?」


駆が、じいちゃんの話をこんな真剣にするのは、珍しかった。でも、今は、それどころじゃなかった。


駆は倒れた魔物のそばにしゃがみ込む。


そして真剣な顔で、肉の状態を確認し始めた。


「いいな。脂が乗ってる。筋肉も締まってる。これは焼いたらうまい」

「普通はまず、安全確認でしょ!」

「安全だ。もう動かない」

「そういう意味じゃない!」


紗世は頭を抱えた。


だが、倒れた魔物を見て、少しずつ冷静になっていく。


これは、現実だ。

冷蔵庫の奥にダンジョンがあり、そこには魔物がいて、駆はそれを倒した。


そして目の前には、今まで見たこともないほど立派な肉の塊がある。


紗世の頭の中で、経営者としての計算が動き始めた。


魔物肉。

高級食材。

通常は探索者が討伐し、運搬され、検査を受け、流通に乗る。


その間に鮮度は落ちる。

魔力も抜ける。

だから、最高級品はとんでもない値段になる。


でも、ここなら。


討伐場所から厨房まで、歩いて数十秒。


紗世はごくりと唾を飲んだ。


「……これ、持って帰れるの?」

「持てる」

「そういう筋肉の話じゃなくて」

「筋肉の話なら、かなり持てる」

「今いらない情報!」


結局、駆は巨大猪を軽々と担いだ。


昔から、この男の力は、どこかおかしかった。「じいちゃんの肉、食って育ったからな」と、本人は事もなげに言う。冗談だと、紗世は思っていた。


そのじいちゃんは、山奥の猟師小屋に、一人で住んでいた。駆は、長い休みのたびに、そこへ預けられていたらしい。紗世が、その人に会ったのは、数えるほど。どんな肉を食わせていたのかも、紗世は、知らない。


紗世はその後ろを、何度も振り返りながら歩いた。


幸い、入口まで戻る間に他の魔物は現れなかった。

冷蔵庫の扉を抜けると、そこは見慣れた厨房だった。


内側の銀色の鉄板を、駆が肩で押す。扉は、カチャリと静かに閉まった。土の匂いも、冷たい風も、その一枚で、ぷつりと途切れる。……外から見れば、ただの、少し古い業務用冷蔵庫。この中に、世界がまるごと一つ隠れているなんて、誰も思わない。


さっきまでの土の匂いが嘘のように、ステンレスの調理台が光っている。


駆は魔物を調理台に置いた。


紗世は冷蔵庫の扉を見つめる。


普通に閉まっている。

普通の業務用冷蔵庫に見える。


だが、その奥はもう普通ではない。


「……どうするの、これ」

「さばく」

「いや、そうじゃなくて」

「焼く」

「だから、そうじゃなくて!」


紗世のツッコミを聞き流し、駆は、まず猪の胸に手を差し入れた。


そして、拳ほどの、透きとおった石を、引き抜く。淡く光る、魔石だった。


その瞬間、パキ、パキ、と乾いた音がした。


硬く張っていた皮が、骨が、まるで最初からそういう作りだったように、部位ごとに、すっとほどけていく。


「……なに、それ」


「核を抜くと、こうなる。……あとは、仕上げだ」


そこからの作業が、異常だった。


ほどけた塊から、傷ひとつつけず、最上の部位だけを選り出していく。筋を断たず、肉を潰さず、脂を逃がさず、まるで肉の方から切られにいっているみたいに、包丁が進む。核が下ごしらえを終わらせ、その先を極上の一皿に変える――その仕上げの包丁こそが、駆の独壇場だった。


紗世は、思わず見入ってしまった。


駆は昔から変な男だった。

勉強はできない。

計算もできない。

書類は読まない。


けれど、体を使うことだけは天才だった。その天性の上に、さっき本人が口にした“じいちゃん”に山で叩き込まれたものが、まるごと乗っているらしかった。


特に刃物を持った時の集中力は、恐ろしいほどだった。


数分後、調理台には美しい肉が並んでいた。


赤身は深く、脂は白く輝いている。

普通の肉とは違う、ほのかな光のようなものが表面に残っていた。


「……きれい」


紗世は、思わずつぶやいた。


駆は肉を一枚つまみ上げる。


「焼くぞ」

「待って。検査とか、安全性とか、いろいろあるでしょ」

「俺が食う」

「そういう問題じゃ――」


言い終わる前に、駆は肉を焼き始めた。


ジュウウウウウッ。


音がした瞬間、厨房の空気が変わった。


香ばしい匂い。

濃厚な脂の甘さ。

それなのにしつこくない、澄んだ肉の香り。


紗世の腹が鳴った。


「……今のは違うから」

「何が?」

「お腹、鳴ってないから」

「鳴ってたぞ」

「鳴ってない!」


駆は焼けた肉を一切れ取り、何の迷いもなく口に入れた。


そして、黙った。


紗世は不安になる。


「ちょっと、どうなの? 大丈夫なの?」

「……」

「駆?」

「……うまい」


駆は、珍しく真面目な顔をしていた。


「今まで食べた肉で、一番うまい」


そう言ってから、駆は、ふと付け加えた。


「……いや。じいちゃんの肉に、似てる。子どものころ、よく食った」


紗世は、聞き流した。ただの、昔話だと思った。……そのときは。


その言葉に、紗世も箸を伸ばした。


本当は食べるべきではない。

安全確認もしていない。

経営者として、そんな軽率なことをしてはいけない。


正体不明の、魔物の肉だ。寄生虫がいるかもしれない。毒があるかもしれない。一口で店主が二人とも倒れたら、それこそ、開店二日目で、本当に終わる。


頭では、分かっている。分かっているのに――。


この、暴力的なくらい甘い匂いは、なんだ。鼻の奥から、胃の底を、直接、掴んでくる。


そう思った。


でも。


匂いに負けた。


紗世は小さく肉を口に入れた。


瞬間、目を見開いた。


柔らかい。

でも、頼りない柔らかさではない。

噛むほどに旨みが出てくる。

脂は甘いのに重くない。

体の奥に、温かい力が広がっていくような感覚がある。


疲れきっていた頭が、少しずつ晴れていく。

開店初日の絶望で沈んでいた胸が、ほんの少し軽くなる。


「……なにこれ」


紗世は、もう一枚食べた。


そして、もう一枚食べた。


駆が言った。


「鳴ってない腹に、ずいぶん入るな」

「うるさい」


紗世は肉を見つめた。


これは、ただ美味しいだけじゃない。

食べた瞬間、体が分かる。

この肉は普通じゃない。


もし、これを店で出せたら。


客が来る。

借金を返せる。

店を続けられる。


いや、それどころか。


「……世界一になれるかも」


紗世の口から、そんな言葉がこぼれた。


駆はきょとんとした顔で聞き返す。


「焼肉でか?」

「焼肉でよ」

「いいな」


駆は笑った。


その笑顔は、何も考えていないようで、妙にまっすぐだった。


「じゃあ、明日も仕入れだな」

「待って。まずは確認。安全性、保存方法、メニュー化、価格設定、あと絶対にダンジョンのことは秘密」

「分かった」

「本当に分かってる?」

「秘密の肉だな」

「言い方!」


紗世は肉の皿を見て、いちばん引っかかっていたことを、もう一度口にした。


「ねえ、真面目な話。あの肉、本当にお腹を壊さないの? 検査も通してない、獲ったばかりの魔物なのよ。寄生虫とか、変な菌とか……」


駆は、意外そうな顔をした。


「魔素が濃いうちは、菌も虫も寄らない。腐りもしない」


「え? なんで、そんなこと知ってるのよ」


「さっき言った、じいちゃんだ。山の猟師でな。俺は、じいちゃんっ子で、物心つく前から、そばで肉を捌くのを、手伝ってた。……ときどき、変わった獣が、獲れた。その捌き方も、核を抜くとほどけることも、獲りたてを食ってもあたらないことも、ぜんぶ、じいちゃんに叩き込まれた。解体ノートにも、書いてある。……だから、この魔物も、同じだ。手が、勝手に、動く」


「……その“変わった獣”って、なんだったの」


「知らん。じいちゃんの、山の獲物だ。深くは、聞かなかった。……うまかった。それだけ、覚えてる」


「そこ、もうちょっと詳しく!」


紗世は頭を抱えた。でも――金利も契約も分からないこの男が、肉のことになると、急に、誰よりも信用できる。その理由の、片鱗を見た気がした。何十年ぶんの、山の手つき。


「……じゃあ、いつまでも平気ってこと?」


「まさか。魔素が抜けたら、ただの肉だ。そうなりゃ、普通に傷む。……だから、抜ける前に食わせる。それだけだ」


紗世は、しばらく黙った。それから、焼く前の肉を、もう一度、手に取った。


断面は、ぞっとするほど瑞々しい。饐えた匂いも、血なまぐささも、しない。ただ、清潔な肉の香りだけ。さっき一枚食べたあとの、体の芯が軽くなった感覚も、気のせいじゃなかった。


「……色も、匂いも、完璧。断面も、申し分ない」


紗世は、顔を上げた。


「これなら、出せる。――出す。ただし、私は毎日、この目で確かめる。色、匂い、断面。少しでも変だったら、その日は、絶対に出さない。お客さんに何かあってからじゃ、遅いんだから」


目先の金に、飛びついたわけじゃない。疑って、確かめて、納得して、その上で決めた。それが、経営者としての、最初の覚悟だった。


「それでいい」


駆はうなずいた。


「お前が、確かめろ。俺が、獲る」


獲る駆と、見張る紗世。いちばん大事な役割が、ひとつ決まった。


紗世は深く息を吐いた。


店は開店初日に終わった。

そう思っていた。


でも、もしかしたら違うのかもしれない。


終わったのではなく、ここから始まるのかもしれない。


厨房の冷蔵庫。

その向こうに広がる、誰も知らないダンジョン。


そして、世界最高品質かもしれない魔物肉。


紗世は冷蔵庫を見た。


怖い。

正直、かなり怖い。


でも、それ以上に。


「……明日、裏メニューを作るわよ」


駆が目を輝かせた。


「名前は?」

「そうね……」


紗世は少し考え、焼かれた肉を見た。


そして言った。


「本日の特選肉。ただし、仕入れ先は絶対秘密」


駆は満足そうにうなずいた。


「いいな。秘密っぽい」

「秘密なのよ」


その夜、焼肉アホミートのメニュー表に、小さな紙が一枚追加された。


――本日の特選肉。数量限定。


開店初日に客が来なかった店。

借金だけが残った店。

誰にも期待されていない店。


けれど、その厨房の冷蔵庫の向こうには、世界一の肉が眠っていた。


そして翌日。


その肉を最初に食べることになる客が、店の前に立つことになる。


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