第1話「開店初日で終わった店」
阿保駆は、武術だけなら天才だった。
殴れば倒せる。
蹴れば止められる。
包丁を持てば、肉の筋も骨の位置も、見ただけで分かる。
ただし、それ以外は壊滅的だった。
銀行の説明は三分で眠くなる。
契約書は最初の一行で目が泳ぐ。
金利という言葉を聞くと、「筋肉に関係あるやつか?」と表情も変えずに聞く。
そんな男が、なぜか焼肉屋を開くことになった。
きっかけは、商店街の空き店舗の前で出会った一人の営業マンだった。
「阿保さん、あなたは飲食で成功します」
スーツ姿の営業マンは、やけに白い歯を見せて笑った。
駆は首をかしげた。
「俺が?」
「はい。格闘技経験者。圧倒的な肉体。しかも刃物さばきも一流。焼肉屋に必要な才能、全部そろっています」
「俺、肉を焼けるのか?」
「焼けます。むしろ肉の方が、あなたに焼かれたがっています」
「なるほど」
「なるほどじゃない!」
横で聞いていた宮本紗世は、即座に止めた。
紗世は駆の幼馴染だった。
駆が何も考えずに突っ走り、紗世が後ろから全力で首根っこをつかむ。
二人は昔から、だいたいそんな関係だった。
紗世は営業マンから名刺を受け取り、会社名を見て、眉をひそめた。
「飲食店開業支援……創業融資サポート……ずいぶん都合のいいことばっかり書いてありますね」
「もちろん、夢のあるお話ですから」
「夢で借金は返せません」
紗世は冷たく言った。
普通なら、ここで話は終わっていた。
だが、相手は駆だった。
営業マンは、そんな駆の単純さを一瞬で見抜いたらしい。
「阿保さん。自分の店、持ちたくありませんか?」
駆の目が光った。
紗世はその光を見て、嫌な汗をかいた。
この目はまずい。
昔、駆が道場の壁に向かって「この壁、倒せる気がする」と言った時と同じ目だった。
「駆、待って。絶対に待って。今、あんたの中で何か始まったでしょ」
「俺の店か……」
「始まってる!」
営業マンはさらに畳みかける。
「今なら若者向けの創業融資も使えます。自己資金が少なくても開業を目指せます」
「融資ってなんだ?」
「夢への応援です」
「借金です」
紗世が即座に訂正した。
しかし、駆はもう聞いていない。
「俺の店……肉……焼肉……」
「単語だけで人生を決めるな!」
紗世は必死に止めた。
止めた。本当に止めた。
けれど営業マンは、最後にとんでもない一言を放った。
「しかも、お二人でやれば話題性がありますよ。若い新婚夫婦が始めた焼肉屋。これは絶対に応援されます」
「新婚?」
駆と紗世は同時に顔を見合わせた。
付き合っていない。
もちろん結婚もしていない。
ただの幼馴染である。
紗世は営業マンをにらんだ。
「違います」
駆も言った。
「違うぞ」
「そこだけ息ぴったりなの腹立つわね」
だが、営業マンは笑顔を崩さなかった。
「いえいえ、雰囲気がもう完全にご夫婦ですよ」
「違います」
「違うぞ」
「だからそこだけ即答するな!」
紗世は断るつもりだった。
絶対に断るつもりだった。
しかし駆は、すでに空き店舗の中をのぞき込んでいた。
「ここにロースターを置くのか」
「置かない」
「こっちは厨房か」
「入らない」
「店名はどうする?」
「始めない!」
紗世は頭を抱えた。
このまま駆を一人にしたら、間違いなく契約書に判子を押す。
いや、判子がなければ親指に朱肉をつけてでも押す。
駆はそういう男だった。
だったら、自分が横にいるしかない。
契約書を読む。
数字を見る。
止めるところは止める。
そう思った。
その判断が、運の尽きだった。
気づけば紗世は、創業計画書を書かされていた。
気づけば駆は、店の前で腕を組んでうなずいていた。
気づけば周囲には、「若い新婚夫婦が焼肉屋を始めるらしい」という噂が広がっていた。
ただ、一つだけ。書類の上でだけは、紗世は一文字も嘘を書かなかった。創業融資の申請書に記したのは、「共同経営者・阿保駆(幼馴染)」。新婚でも、夫婦でもない。あの営業マンは「面接では夫婦っぽくしておいたほうが、融資、通りやすいですよ」と、しれっと言ってきたが、紗世は、そこだけは、はっきり断った。世間が勝手に噂するのは、止められない。でも、金を貸してくれる相手に、面と向かって嘘をつくことだけは――絶対に、しない。……流されていく中で、それだけが、紗世に残った最後の理性だった。
「なんでこうなったの……」
紗世がつぶやく横で、駆は新品のロースターを見つめて満足そうに言った。
「俺たちの城だな」
「違う。これは借金で建てた砂の城よ」
そして、その砂の城は完成した。
店名は、焼肉アホミート。
紗世は最後まで反対した。
だが、駆が「阿保の肉だから分かりやすい」と言い張り、なぜか近所の子どもたちに大ウケしたため、そのまま採用されてしまった。
開店初日。
店内はぴかぴかだった。
新品のテーブル。
新品のロースター。
壁には手書きのメニュー。
入口には開店祝いの花。
紗世は予約表を見ながら、何度も深呼吸をした。
「大丈夫。今日は満席。ここから売上を作って、借金を返して、ちゃんと軌道に乗せる」
一方その頃、駆は厨房で肉を切っていた。
いや、切っていたというより、肉が勝手に整列しているように見えた。
包丁が光る。
肉が並ぶ。
駆は無言。
動きだけが異常に速い。
紗世は厨房をのぞいて叫んだ。
「駆! 開店前から厨房を戦場にしないで!」
「大丈夫だ。肉は全部、俺に斬られたがってる」
「怖いこと言わないで!」
駆は真顔で言った。
「今日、満席なんだろ?」
「そうよ」
「じゃあ、全部うまく切る」
その言葉だけは、少し頼もしかった。
紗世は小さく笑った。
「そこだけは信用してる」
開店時間になった。
二人は入口に立った。
紗世は笑顔を作る。
駆はなぜか拳を軽く握った。
「何してるの?」
「いらっしゃいませの構えだ」
「普通に立って」
しかし、客は来なかった。
一人も来なかった。
理由は、その日の昼に流れたニュースだった。
感染症の急拡大。
外出自粛の呼びかけ。
飲食店への来店キャンセル。
予約の電話は、鳴れば鳴るほど減っていった。
一件。
また一件。
さらに一件。
紗世は電話を切るたびに、笑顔を失っていった。
「はい……承知しました。また落ち着きましたら、ぜひ……はい……ありがとうございます」
電話を置く。
沈黙。
また電話が鳴る。
駆は厨房から顔を出した。
「予約、増えたか?」
「減ってるのよ」
「肉が足りるな」
「店が足りなくなるわ!」
最初は、駆も冗談のつもりだった。
けれど、夕方になっても客は来なかった。
夜になっても、店内のロースターは一度も火を噴かなかった。
新品の網は、きれいなままだった。
開店初日の売上。
ほぼゼロ。
残ったのは、山ほどの肉。
誰にも座られなかった席。
そして、数千万円の借金だった。
閉店時間を過ぎても、二人はしばらく動けなかった。
店内の照明だけが明るい。
外の商店街は静かだった。
紗世は電卓を叩いていた。
何度計算しても、答えは変わらない。
変わらないどころか、見るたびに悪くなっている気がした。
「……終わったかも」
紗世が小さく言った。
駆は何も言わなかった。
いつもなら、意味の分からない自信で笑う。
「なんとかなる」と言う。
「俺が全部焼く」とか、何の解決にもならないことを言う。
でも、その日は言わなかった。
自分が営業マンに乗せられて始めた店。
自分一人ならまだいい。
でも、紗世まで巻き込んでしまった。
そのことだけは、駆にも分かった。
「悪い」
駆がぽつりと言った。
紗世は顔を上げた。
「……あんたが謝ると、逆に怖いんだけど」
「じゃあ取り消す」
「取り消すな!」
少しだけ、笑いがこぼれた。
でも、現実は何も変わらない。
借金はある。
客はいない。
明日の予約もほとんどない。
焼肉アホミートは、開店初日に終わった。
そう思った。
閉店後、二人は片付けを始めた。
紗世はホールを掃除し、駆は厨房で余った肉を冷蔵庫に戻していた。
業務用の大きな冷蔵庫。
店の設備は、ほとんどが中古の寄せ集めだった。けれど、この冷蔵庫だけは、違った。駆の、じいちゃんの形見だ。山奥の猟師小屋で、あの人が、長いこと使っていたものらしい。開業のとき、駆は「これだけは、これを使う」と、そこだけは、なぜか、譲らなかった。
駆はため息をつきながら、冷蔵庫の扉を開けた。
その瞬間。
冷たい風が吹いた。
ただの冷気ではなかった。
肌を刺すような、外の空気。
どこか土と草の匂いが混じった、生々しい風。
「……ん?」
駆は首をかしげた。
冷蔵庫の奥が、暗い。
いや、暗いだけではない。
奥行きがある。
昨日まで、確かにステンレスの壁だった場所に、細い通路のようなものが続いていた。
駆は冷蔵庫の中をのぞき込んだ。
「紗世」
「なに? 肉ならちゃんとしまって」
「この冷蔵庫って、こんなに奥行きあったっけ?」
「は?」
紗世が厨房へやって来る。
二人は並んで、冷蔵庫の中を見た。
そこには、冷蔵庫の奥とは思えないほど長い、暗い通路が広がっていた。
そして、その奥から。
グルルルル……。
獣のような低い声が聞こえた。
紗世は固まった。
駆は少しだけ目を輝かせた。
「……肉の気配がする」
「普通そこは危険の気配って言うのよ!」
冷蔵庫の向こうから、もう一度、冷たい風が吹いた。
開店初日に終わったはずの焼肉屋。
その厨房で、二人はまだ知らない。
この冷蔵庫の向こう側が、世界一の焼肉屋への入口だということを。




