表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
1/9

第1話「開店初日で終わった店」

阿保駆は、武術だけなら天才だった。


殴れば倒せる。

蹴れば止められる。

包丁を持てば、肉の筋も骨の位置も、見ただけで分かる。


ただし、それ以外は壊滅的だった。


銀行の説明は三分で眠くなる。

契約書は最初の一行で目が泳ぐ。

金利という言葉を聞くと、「筋肉に関係あるやつか?」と表情も変えずに聞く。


そんな男が、なぜか焼肉屋を開くことになった。


きっかけは、商店街の空き店舗の前で出会った一人の営業マンだった。


「阿保さん、あなたは飲食で成功します」


スーツ姿の営業マンは、やけに白い歯を見せて笑った。


駆は首をかしげた。


「俺が?」


「はい。格闘技経験者。圧倒的な肉体。しかも刃物さばきも一流。焼肉屋に必要な才能、全部そろっています」


「俺、肉を焼けるのか?」


「焼けます。むしろ肉の方が、あなたに焼かれたがっています」


「なるほど」


「なるほどじゃない!」


横で聞いていた宮本紗世は、即座に止めた。


紗世は駆の幼馴染だった。


駆が何も考えずに突っ走り、紗世が後ろから全力で首根っこをつかむ。

二人は昔から、だいたいそんな関係だった。


紗世は営業マンから名刺を受け取り、会社名を見て、眉をひそめた。


「飲食店開業支援……創業融資サポート……ずいぶん都合のいいことばっかり書いてありますね」


「もちろん、夢のあるお話ですから」


「夢で借金は返せません」


紗世は冷たく言った。


普通なら、ここで話は終わっていた。


だが、相手は駆だった。


営業マンは、そんな駆の単純さを一瞬で見抜いたらしい。


「阿保さん。自分の店、持ちたくありませんか?」


駆の目が光った。


紗世はその光を見て、嫌な汗をかいた。


この目はまずい。

昔、駆が道場の壁に向かって「この壁、倒せる気がする」と言った時と同じ目だった。


「駆、待って。絶対に待って。今、あんたの中で何か始まったでしょ」


「俺の店か……」


「始まってる!」


営業マンはさらに畳みかける。


「今なら若者向けの創業融資も使えます。自己資金が少なくても開業を目指せます」


「融資ってなんだ?」


「夢への応援です」


「借金です」


紗世が即座に訂正した。


しかし、駆はもう聞いていない。


「俺の店……肉……焼肉……」


「単語だけで人生を決めるな!」


紗世は必死に止めた。

止めた。本当に止めた。


けれど営業マンは、最後にとんでもない一言を放った。


「しかも、お二人でやれば話題性がありますよ。若い新婚夫婦が始めた焼肉屋。これは絶対に応援されます」


「新婚?」


駆と紗世は同時に顔を見合わせた。


付き合っていない。

もちろん結婚もしていない。

ただの幼馴染である。


紗世は営業マンをにらんだ。


「違います」


駆も言った。


「違うぞ」


「そこだけ息ぴったりなの腹立つわね」


だが、営業マンは笑顔を崩さなかった。


「いえいえ、雰囲気がもう完全にご夫婦ですよ」


「違います」


「違うぞ」


「だからそこだけ即答するな!」


紗世は断るつもりだった。


絶対に断るつもりだった。


しかし駆は、すでに空き店舗の中をのぞき込んでいた。


「ここにロースターを置くのか」


「置かない」


「こっちは厨房か」


「入らない」


「店名はどうする?」


「始めない!」


紗世は頭を抱えた。


このまま駆を一人にしたら、間違いなく契約書に判子を押す。

いや、判子がなければ親指に朱肉をつけてでも押す。


駆はそういう男だった。


だったら、自分が横にいるしかない。

契約書を読む。

数字を見る。

止めるところは止める。


そう思った。


その判断が、運の尽きだった。


気づけば紗世は、創業計画書を書かされていた。

気づけば駆は、店の前で腕を組んでうなずいていた。

気づけば周囲には、「若い新婚夫婦が焼肉屋を始めるらしい」という噂が広がっていた。


ただ、一つだけ。書類の上でだけは、紗世は一文字も嘘を書かなかった。創業融資の申請書に記したのは、「共同経営者・阿保駆(幼馴染)」。新婚でも、夫婦でもない。あの営業マンは「面接では夫婦っぽくしておいたほうが、融資、通りやすいですよ」と、しれっと言ってきたが、紗世は、そこだけは、はっきり断った。世間が勝手に噂するのは、止められない。でも、金を貸してくれる相手に、面と向かって嘘をつくことだけは――絶対に、しない。……流されていく中で、それだけが、紗世に残った最後の理性だった。


「なんでこうなったの……」


紗世がつぶやく横で、駆は新品のロースターを見つめて満足そうに言った。


「俺たちの城だな」


「違う。これは借金で建てた砂の城よ」


そして、その砂の城は完成した。


店名は、焼肉アホミート。


紗世は最後まで反対した。

だが、駆が「阿保の肉だから分かりやすい」と言い張り、なぜか近所の子どもたちに大ウケしたため、そのまま採用されてしまった。


開店初日。


店内はぴかぴかだった。


新品のテーブル。

新品のロースター。

壁には手書きのメニュー。

入口には開店祝いの花。


紗世は予約表を見ながら、何度も深呼吸をした。


「大丈夫。今日は満席。ここから売上を作って、借金を返して、ちゃんと軌道に乗せる」


一方その頃、駆は厨房で肉を切っていた。


いや、切っていたというより、肉が勝手に整列しているように見えた。


包丁が光る。

肉が並ぶ。

駆は無言。

動きだけが異常に速い。


紗世は厨房をのぞいて叫んだ。


「駆! 開店前から厨房を戦場にしないで!」


「大丈夫だ。肉は全部、俺に斬られたがってる」


「怖いこと言わないで!」


駆は真顔で言った。


「今日、満席なんだろ?」


「そうよ」


「じゃあ、全部うまく切る」


その言葉だけは、少し頼もしかった。


紗世は小さく笑った。


「そこだけは信用してる」


開店時間になった。


二人は入口に立った。


紗世は笑顔を作る。

駆はなぜか拳を軽く握った。


「何してるの?」


「いらっしゃいませの構えだ」


「普通に立って」


しかし、客は来なかった。


一人も来なかった。


理由は、その日の昼に流れたニュースだった。


感染症の急拡大。

外出自粛の呼びかけ。

飲食店への来店キャンセル。


予約の電話は、鳴れば鳴るほど減っていった。


一件。

また一件。

さらに一件。


紗世は電話を切るたびに、笑顔を失っていった。


「はい……承知しました。また落ち着きましたら、ぜひ……はい……ありがとうございます」


電話を置く。


沈黙。


また電話が鳴る。


駆は厨房から顔を出した。


「予約、増えたか?」


「減ってるのよ」


「肉が足りるな」


「店が足りなくなるわ!」


最初は、駆も冗談のつもりだった。


けれど、夕方になっても客は来なかった。


夜になっても、店内のロースターは一度も火を噴かなかった。


新品の網は、きれいなままだった。


開店初日の売上。


ほぼゼロ。


残ったのは、山ほどの肉。

誰にも座られなかった席。

そして、数千万円の借金だった。


閉店時間を過ぎても、二人はしばらく動けなかった。


店内の照明だけが明るい。

外の商店街は静かだった。


紗世は電卓を叩いていた。


何度計算しても、答えは変わらない。

変わらないどころか、見るたびに悪くなっている気がした。


「……終わったかも」


紗世が小さく言った。


駆は何も言わなかった。


いつもなら、意味の分からない自信で笑う。

「なんとかなる」と言う。

「俺が全部焼く」とか、何の解決にもならないことを言う。


でも、その日は言わなかった。


自分が営業マンに乗せられて始めた店。

自分一人ならまだいい。

でも、紗世まで巻き込んでしまった。


そのことだけは、駆にも分かった。


「悪い」


駆がぽつりと言った。


紗世は顔を上げた。


「……あんたが謝ると、逆に怖いんだけど」


「じゃあ取り消す」


「取り消すな!」


少しだけ、笑いがこぼれた。


でも、現実は何も変わらない。


借金はある。

客はいない。

明日の予約もほとんどない。


焼肉アホミートは、開店初日に終わった。


そう思った。


閉店後、二人は片付けを始めた。


紗世はホールを掃除し、駆は厨房で余った肉を冷蔵庫に戻していた。


業務用の大きな冷蔵庫。


店の設備は、ほとんどが中古の寄せ集めだった。けれど、この冷蔵庫だけは、違った。駆の、じいちゃんの形見だ。山奥の猟師小屋で、あの人が、長いこと使っていたものらしい。開業のとき、駆は「これだけは、これを使う」と、そこだけは、なぜか、譲らなかった。


駆はため息をつきながら、冷蔵庫の扉を開けた。


その瞬間。


冷たい風が吹いた。


ただの冷気ではなかった。


肌を刺すような、外の空気。

どこか土と草の匂いが混じった、生々しい風。


「……ん?」


駆は首をかしげた。


冷蔵庫の奥が、暗い。


いや、暗いだけではない。


奥行きがある。


昨日まで、確かにステンレスの壁だった場所に、細い通路のようなものが続いていた。


駆は冷蔵庫の中をのぞき込んだ。


「紗世」


「なに? 肉ならちゃんとしまって」


「この冷蔵庫って、こんなに奥行きあったっけ?」


「は?」


紗世が厨房へやって来る。


二人は並んで、冷蔵庫の中を見た。


そこには、冷蔵庫の奥とは思えないほど長い、暗い通路が広がっていた。


そして、その奥から。


グルルルル……。


獣のような低い声が聞こえた。


紗世は固まった。


駆は少しだけ目を輝かせた。


「……肉の気配がする」


「普通そこは危険の気配って言うのよ!」


冷蔵庫の向こうから、もう一度、冷たい風が吹いた。


開店初日に終わったはずの焼肉屋。


その厨房で、二人はまだ知らない。


この冷蔵庫の向こう側が、世界一の焼肉屋への入口だということを。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ