第92話 迷宮都市の休日
翌朝、バベルの東の郊外にある俺たちのマイホームは、清々しい朝日と冷たい空気に包まれていた。
「クロウ殿! この度の歓待、誠に感謝申し上げる! 次は必ずや、国を挙げてのパレードの準備を整えてお迎えに上がりますぞ!」
「クロウ様! また絶対に、絶対にお会いしましょうね! わたくし、いつまでも王都でお待ちしておりますわ!」
豪華な装飾が施された馬車の窓から身を乗り出し、ちぎれんばかりに手を振るアルバート伯爵とシャルロッテお嬢様。
俺は苦笑いを浮かべながら、見えなくなるまで彼らに手を振り返した。
「気をつけて帰れよー」
ガタゴトと車輪の音を響かせながら、伯爵家の馬車は朝靄の中へと消えていった。
「……ふぅ。本当に、嵐のような人たちだったな」
俺が小さく息を吐き出して呟くと、背後でエントランスの柱に寄りかかっていたタマモが、三本の尻尾をゆらゆらと揺らしながら鼻を鳴らした。
「ふんっ、騒がしい人間どもじゃったが、置いていった王都の銘菓とやらは悪くない味じゃったぞ! わらわの寛大な心に免じて、あの騒々しさは許してやろう!」
「タマモちゃん、お菓子を食べる時だけはすごく大人しかったものね。……でも、伯爵様たちも本当にクロウさんのことが大好きなんですね。少しだけ、シャルロッテお嬢様の熱意には圧倒されてしまいましたけど」
レイアが少しだけジトッとした目を俺に向けながら、苦笑交じりに言う。
「ガハハ! 旦那様は世界で一番強いオスだからな! 王都の貴族の娘が惚れ込むのも無理はない! だが、旦那様の隣は私たちがしっかり守っているから安心しろ!」
レオナが自慢げに胸を張り、俺の肩をバンバンと豪快に叩いた。
「レオナの言う通りね。さて、嵐も過ぎ去ったことだし……今日はどうしましょうか、クロウ。依頼も受けていないし、完全なオフの日よ」
シルヴィアが、美しい白銀の髪をかき上げながら尋ねてくる。
俺が今日の予定を考えようとした、まさにその時だった。
「ご主人様! レオナさん! バベルの街の方から、すごく美味しそうな匂いが風に乗ってきてますよ!」
庭の柵の上にひらりと飛び乗っていたセツナが、狼の耳をピクピクと動かして目を輝かせた。
その言葉に、一番に反応したのはレオナとタマモだった。
「おおっ!? そういえば、バベルの街は今、迷宮が活性化している影響で冒険者や商人が押し寄せて、大層な活気になっているとギルドの連中が言っていたな! 旦那様、せっかくの休みだ! 私たちも街を見て回りたいぞ!」
「うむうむ、大賛成じゃ! 帝都の屋台も美味かったが、バベルの迷宮都市ならではのジャンクな飯も食ってみたかったのじゃ! さあクロウ、わらわを街へ連れて行くのじゃ! 存分に案内を許すぞ!」
レオナは目を輝かせ、タマモは俺の服の裾を引っ張ってぴょんぴょんと飛び跳ねている。
「街歩き、ですか。……いいですね。最近は霊峰の探索や帝都での修行ばかりで、この街をゆっくり見て回る余裕もありませんでしたから」
レイアが嬉しそうに微笑み、シルヴィアも「そうね、たまには息抜きも必要だわ」と頷いた。
「……よし、決まりだな。タロウには留守番を頼んで、今日は一日、みんなでバベルの街を遊び尽くそう」
俺の言葉に、四人と一匹がパァッと花が咲いたような笑顔を見せ、「はいっ!」と元気よく声を揃えた。
バベルの中央区は、レオナが言っていた通り、かつてないほどの熱気と喧騒に包まれていた。
迷宮の活性化により、深層から未知の素材やドロップ品が次々と持ち出されているらしく、メインストリートには色とりどりの天幕を張った露店がひしめき合っている。
武具を売り込むドワーフの鍛冶師、珍しい魔石を並べる商人、そして食欲を暴力的に刺激する匂いを漂わせる屋台の数々。
「おおおっ! クロウ、あっちの肉串、ものすごく巨大じゃぞ! 早く買うのじゃ! わらわの胃袋が鳴っておる!」
「こっちの香草焼きも美味そうだな! 旦那様、私はあの鉄板で焼いてる分厚い肉がいい!」
タマモとレオナが、左右から俺の腕を引っ張って屋台へと突進していく。
「お、おい、引っ張るな。順番に買うから待てって。……おやじさん、その特大串と香草焼き、五人分頼む」
俺が銀貨を渡して受け取った熱々の肉串を渡すと、二人は「あむっ!」「ガハハ、美味い!」と幸せそうな声を上げてかぶりついた。
15年間、無人島で俺が作っていた泥臭いサバイバル飯も悪くはないが、やはりこうして大勢の活気の中で食べるジャンクな味には、心を満たす特別なスパイスがある。
「クロウさん、私たちもいただきましょうか」
「ご主人様、あーんです」
隣を歩いていたレイアとセツナが、半分に分けた肉串を俺の口元へと差し出してきた。
「お、おう。ありがとう」
俺が照れくさく思いながらパクリと肉を咥えると、二人は顔を見合わせて嬉しそうにクスクスと笑い合った。
「もう、あなたたちったら。街中であんまりイチャイチャしすぎないの。……クロウ、こっちの冷たい果実水も美味しいわよ。ほら、一口どう?」
シルヴィアが、冷たく冷えたグラスを俺の唇にそっと押し当ててくる。
その氷のように涼やかな美貌とは裏腹の、甘く妖艶な微笑み。
周囲の冒険者や商人たちが、絶世の美女たちに囲まれている俺を見て、「なんだあの男……前世で国でも救ったのか?」と羨望と嫉妬の入り混じった視線を向けてきているのが肌で感じられた。
(前世はブラック企業で過労死しただけだが……今世では確かに、国も世界も救ったな)
俺は内心で苦笑しながら、冷たい果実水で喉を潤した。
こうして美味しいものを分け合い、肩を並べて歩く時間は、何物にも代えがたい幸福なひとときだった。
賑やかな大通りを進むうち、俺たちの視界に一軒の華やかな露店が飛び込んできた。
そこは食べ物ではなく、迷宮の浅層で採れた魔石や、色とりどりの宝石を加工した『アクセサリー』を専門に扱う店だった。
「わぁ……綺麗……!」
セツナが立ち止まり、宝石がキラキラと輝く陳列台を覗き込んだ。
レイアやシルヴィアも、女性らしい好奇心を隠しきれずに足を止めている。
「むむっ、これはなかなか良い細工じゃな。わらわの毛並みにもよく映えそうじゃ!」
「ああ、この牙のペンダント、すごく強そうでかっこいいぞ!」
タマモとレオナも、それぞれ興味のある品を手に取って目を輝かせている。
俺はみんなのその様子を見て、ふと柔らかな気持ちになり、財布の入ったアイテムボックスへと手を伸ばした。
「……みんな。いつも俺を支えてくれて、背中を任せてくれてありがとう。もし良かったら、好きなものを選んでくれないか? 今日は俺からのプレゼントだ」
俺がそう告げると、みんなは驚いたように目を見開いた後、パァッと顔を輝かせて俺を囲み込んできた。
「ほ、本当ですかクロウさん!? ……じゃあ、私、これがいいです。この緋色の石のペンダント。……クロウさんの瞳の奥にある炎みたいな、強くて優しい色だから」
レイアが少し頬を赤らめながら、小さな赤い宝石があしらわれた銀のペンダントを胸元に当てて見せる。
「私はそうね……この深緑の髪飾りにしようかしら。エルフの森を思わせる色合いで、とても落ち着くわ」
シルヴィアは、自身の白銀の髪にとてもよく似合う、精緻な葉の意匠が施された髪留めを手に取った。
「私はこのブレスレットがいいです! これなら、暗殺の動きの邪魔にもなりませんし、いつでもご主人様からの贈り物を身につけていられますから!」
セツナが嬉しそうに、細身で軽い銀の腕輪を腕に通し、尻尾をパタパタと揺らす。
「ガハハ! 私はやっぱりこれだ! この魔狼の牙を使ったワイルドなチョーカー! これをつけて闘技場に出れば、もっと強そうに見えるだろう!」
レオナは武骨だが彼女の逞しさにぴったりと合う、荒々しいデザインのチョーカーを首に巻いて誇らしげに笑った。
「ふふん! わらわはこれじゃ! この黄金の狐火を模したような、絢爛なかんざし! これを挿せば、わらわの美貌がさらに限界突破してしまうのじゃー!」
タマモは一番高価そうな黄金色のかんざしを手に取り、ドヤ顔で三本の尻尾をふんぞり返らせた。
「ああ、みんなすごくよく似合ってるよ」
俺が心からの言葉を伝えて代金を支払うと、そこかしこから幸せそうな溜息が漏れた。
まるでお揃いの宝物を見つけた子供のように、みんなが自分の選んだアクセサリーを見せ合い、互いに褒め合っている。
その賑やかな喧騒と、俺に向けられる無数の温かい愛情の眼差し。
15年間、誰もいない絶海の無人島で、ただ泥水をすすり、生き残ることだけを考えていたあの頃の俺が見たら、きっと幻覚だと疑うだろう。
俺は今、大切で、愛おしくて、絶対に手放したくない最高の家族たちに囲まれている。
(……まるで、みんなでのデートだな)
俺は、青く澄み渡ったバベルの空を見上げながら、深く、そして穏やかに微笑んだ。
世界を救うサバイバルは終わった。
だが、この愛すべき仲間たちと共に歩む、平和で賑やかな「日常」という名の新しい旅は、まだ始まったばかりなのだ。




