第89話 女帝との密約と、胃痛持ちのギルド長
「……逃げ出すと言うのだな、クロウ」
祝賀パーティーの喧騒からこっそりと抜け出し、皇城の奥にある私室のバルコニー。
夜風に銀糸のような美しい髪を揺らしながら、女皇帝カテリーナは呆れたように、しかしどこか楽しげな笑みを浮かべて俺を見た。
「すみません、カテリーナ陛下。……俺、どうやら大地の底の怨念よりも、貴族たちの相手をする方が向いてないみたいでして。これ以上あの場にいたら、レオナかレイアのどっちかが、貴族の首を物理的に刎ね飛ばしそうだったんです」
俺が肩をすくめて正直に答えると、カテリーナは扇子で口元を隠し、クスクスと上品に笑った。
「無理もない。余の臣下たちとはいえ、少しばかり欲をかきすぎたな。……数千年の脅威を払った世界最強の英雄を、己の家の小さな鳥籠に閉じ込めようなどと、正気の沙汰ではないというのに」
カテリーナは、夜空の月を見上げてふっと表情を和らげた。
帝国の頂点に立つ彼女は、貴族たちのような浅ましい損得勘定ではなく、物事の道理を正確に理解している。
「そもそも、お主らは我が帝国の臣民ではなく、迷宮都市バベルを拠点とする誇り高き冒険者だ。今回の件も、帝国がお主らに『依頼』をしたに過ぎない。……すべてが終わった今、余にお主らをこの国に引き止める権利などないさ」
カテリーナの言葉に、俺は少しだけホッとして息を吐いた。
話の分かるトップで本当に助かる。
「帝国としては、名誉公爵の地位さえ受けてくれたのならそれで十分だ。お主らが他国ではなく、この帝国に好意を抱いてくれているという事実だけで、十分すぎるほどの抑止力になる。……行け、クロウ。そして気高き戦士たちよ。お主らの帰るべき場所へ。煩い貴族たちには、余から上手く伝えておこう」
「……感謝します。またいつか、美味い飯でも献上しに来ますよ」
俺が深く一礼すると、カテリーナは「ふふ、楽しみに待っているぞ」と優雅に頷いた。
俺は即座に別荘へと戻り、荷物をまとめている仲間たちと合流した。
「クロウさん! 陛下とのお話は……?」
「ああ、完璧だ。俺たちはバベルの冒険者なんだから、帝都にずっといる義理はないって分かってくれた。……さあ、息苦しい貴族社会の生活はこれでおしまいだ。俺たちのホームグラウンドに帰るぞ」
レイア、シルヴィア、セツナ、レオナ、そして伝説の妖狐・タマモ。
俺は全員が揃っていることを確認すると、自身の魔力を空間の座標へと接続した。
「――『長距離転移』。目的地は、迷宮都市バベルだ」
視界がぐにゃりと歪み、次の瞬間、俺たちは帝都の豪華な別荘から、見慣れた石造りの街並みへと一瞬にして降り立っていた。
◆ ◇ ◆
「……はぁ。空気が美味いな」
転移の光が収まった直後、俺は大きく深呼吸をした。
そこは、世界最大のダンジョンがそびえ立つ迷宮都市『バベル』の裏路地だ。帝都の洗練された香水の匂いではなく、鉄と血と、冒険者たちの熱気が混ざったような泥臭い空気。
俺たちが冒険者としての第一歩を踏み出した、始まりの街。
「帰ってきましたね……!」
レイアが、懐かしそうに周囲の街並みを見渡す。
「ええ。帝都の綺麗な空気も悪くないけれど、やっぱり私たちにはこっちの少し埃っぽい風の方が性に合っているわね」
シルヴィアも、窮屈だったドレスからいつもの軽装に着替えており、心底リラックスしたように背伸びをした。
「ガハハッ! さっそくギルドに行って、美味いエールでも引っかけようぜ!」
レオナが豪快に笑い、セツナも「早く宿のベッドにダイブしたいです……」と獣耳をパタパタと揺らしている。タマモも「ふふ、ようやく肩の力が抜けるというものじゃ」と尻尾を心地よさそうに揺らしていた。
「あぁ、そうだな。……だが、まずはギルドに顔を出して『報告』しておかないとな。あの胃痛持ちのギルド長に」
俺たちは、バベルの中央に位置する巨大な冒険者ギルドへと向かった。
◆ ◇ ◆
バベル冒険者ギルド本部、最上階のギルド長執務室。
そこには、分厚い書類の山に囲まれながら、死んだ魚のような目で白湯をすすっている初老の男――ギルド長バルガスの姿があった。
彼の机の端には、常備薬である『特濃胃腸薬』の瓶がずらりと並んでいる。
俺たちがこの街で規格外のやらかし(未踏破階層の破壊、神代のボスの瞬殺など)をするたびに、その後始末と本部への報告書のせいで、彼の胃壁は常に限界を突破し続けていた。
コンコン、とノックをして、俺は返事を待たずにドアを開けた。
「よっ、バルガス。生きてるか?」
俺が気さくに声をかけると、書類から顔を上げたバルガスは、俺の顔を見るなり「ヒュッ」とカエルのような短い悲鳴を上げ、ガタッ!と椅子から転げ落ちそうになった。
「ク、クロウ……ッ!? お前ら、なんでここに……いや、帝都での大立ち回りはどうしたんだ!?」
バルガスは震える手で机の上の胃薬の瓶を掴むと、中の丸薬を水も飲まずにボリボリと直接噛み砕き始めた。よほど胃が痛いらしい。
「ああ、帝都の貴族連中が面倒くさくなったから、女皇帝カテリーナ陛下に直談判して抜け出してきた。転移魔法で今さっき着いたところだ」
「ぬ、抜け出しただとぉ……!? 帝国最高位の『名誉公爵』様が、事前連絡もなしにフラッと転移してきたってのか!? お前ら、自分の立場の重さを少しは理解して――うぐぅっ!?」
バルガスが胃の辺りを強く押さえて悶絶する。
「お、おい、大丈夫か? お前、相変わらず胃が弱すぎるだろ」
「誰のせいだと思ってるんだ、誰の……ッ!」
バルガスは血走った目で俺を睨みつけ、荒い息を吐きながら椅子に座り直した。
「……はぁ、はぁ。知ってるぞ。北の霊峰の『厄災』を、お前たちだけで完全浄化してきたらしいな。……今日の朝一番で、帝国の冒険者ギルド総本部から魔力通信で『特級報告書』が叩きつけられてきた。俺はそれを見て、朝食のパンを全部吐き戻したんだぞ」
バルガスは、机の上に広げてあった羊皮紙をバンッと叩いた。
そこには、俺たちの新しいステータスと、帝国からの公式な通達が記されていた。
「ギルド史上初の『SSランク』認定。それに加えて、皇帝陛下直々の『名誉公爵』叙爵……。いいか、お前らは今や、歩く国家機密どころか、世界の軍事バランスを単独で崩壊させる『災害指定クラス』のVIPなんだぞ……! それが、護衛もつけずに地元のギルドに帰ってくるんじゃねえ!」
「そう言われてもな。俺たちはただの冒険者だし、護衛なんて俺たちより弱い奴らを引き連れても足手まといになるだけだろ?」
「正論すぎて胃液が逆流しそうだ……ッ」
バルガスは再び胃薬の瓶に手を伸ばした。
「まあ、そう怒るなよバルガスさん。私たち、帝都の美味しいお酒をお土産に持ってきたんですよ?」
レイアが苦笑いしながら、アイテムボックスから高級な蒸留酒の瓶を取り出して机に置いた。
「……酒だと? 馬鹿野郎、今の俺の胃壁がアルコールなんて受け付けるわけが……いや、待て。これは帝室御用達の『天馬の涙』じゃないか……!」
バルガスは酒瓶を見た瞬間、少しだけ目を輝かせたが、すぐにまたハッとして頭を抱えた。
「ああもう! SSランクの公爵様から袖の下なんて受け取ったら、俺がどんな政治的派閥に巻き込まれるか分かったもんじゃない! いいからお前ら、今日はもうさっさと帰って寝ろ! 俺は今から、お前らが無断でバベルに帰還したっていう山のような始末書と報告書を、帝都に向けて書かなきゃならんのだ!」
「悪いな、バルガス。……でも、やっぱりこの街が一番落ち着くよ。これからもよろしく頼む」
俺が笑って片手を上げると、バルガスは深く深いため息を吐き出し、力なく手を振り返した。
「……お前らがこの街を消し飛ばさないことだけを祈ってるよ。……まったく、俺の胃薬の経費は、お前らの依頼達成報酬から天引きしてやりたいくらいだ」
俺たちは、ぶつくさと文句を言いながらもどこか嬉しそうに書類に向かい始めたバルガスを後にし、ギルドの執務室を出た。
「ふふ、ギルド長さん、相変わらずでしたね」
セツナが小さく笑う。
「ええ。あの呆れたような顔を見ると、ああ、バベルに帰ってきたんだなって実感するわ」
シルヴィアも、懐かしさに目を細めた。
さあ、息苦しい正装も、面倒な貴族のしがらみもこれで終わりだ。
俺たちは、ようやく手に入れた「誰にも縛られない最高の日常」を噛み締めながら、バベルの活気あふれる夕暮れの街へと足を踏み出した。




