第88話 凱旋と名誉公爵、そして新たな絶望
北の霊峰から、帝国最北の重要拠点『北都ノースランド』へと帰還した俺たちの足取りは、控えめに言っても泥のように重かった。
いくら俺たちが四龍の祝福を受けて『最上位種』へと進化したとはいえ、精神的な疲労までは魔法のように消え去ってはくれない。
ノースランドの定宿のふかふかのベッドに倒れ込んだ途端、俺たちの意識は完全に途絶えた。
そこから丸二日間。俺たちは文字通り、死んだように眠り続けた。
三日目の朝、腹の虫の大合唱でようやく目を覚ました俺たちは、宿の厨房を借りて、ありったけの極上肉と霊峰の氷水で締めた魚介を使い、盛大な宴を開いた。
死線を越え、寿命の呪縛から解き放たれた俺たちが囲む食卓は、これまでの15年間のサバイバルの中で、間違いなく一番美味くて、一番騒がしく、一番温かいものだった。
心身ともに十分すぎる休息を取った俺たちは、俺自身の『長距離転移魔法』を発動し、ノースランドから一気に帝都の中心――俺たちの所有する『別荘』へと、一瞬にして帰還を果たした。
◆ ◇ ◆
「……首が、締まる。この布、本当に人間の着るものか……?」
帝都の別荘に戻って数日後。
俺は、全身を締め付けるような漆黒の軍服風の正装に身を包み、鏡の前で深い深いため息を吐いていた。
今日は、帝国の頂点である女皇帝陛下に、今回の霊峰での『厄災討伐』の顛末を報告するための公式な謁見の日だ。
俺は15年間、動きやすさと装甲の頑丈さだけを重視したサバイバル装備ばかり着てきた。首元をきっちりと締めるクラヴァット(ネクタイのようなもの)や、無駄に装飾の多いジャケットは、どうにも息苦しくて仕方がない。
「我慢してください、クロウさん。今日は帝国の歴史に残る、とても重要な謁見なんですから」
背後から、美しい純白のドレスに身を包んだレイアが、俺の襟元を直しながら苦笑した。
最上位人種へと進化したレイアは、以前にも増して肌の透明感が増し、その立ち姿はどこかの国の王女と言われても疑わないほどの気品を漂わせている。
「レイアの言う通りよ、クロウ。……それに、とても似合っているわ。見惚れてしまいそうなくらいにね」
エメラルドグリーンの豪奢なイブニングドレスを纏ったシルヴィアが、からかうように微笑む。最上位エルフ(ハイ・エルフ)となった彼女の美貌は、もはや芸術品の域に達していた。
「ガハハッ! 旦那様ぁ、このヒラヒラした服、動くたびに破けそうなんだが! 斧を振るう隙間が全くねえぞ!」
「レオナさん、今日は武器の持ち込みは厳禁ですからね……。それに、歩き方がガサツすぎます……」
深紅のドレスを窮屈そうに引っ張るレオナ(最上位獣人)と、漆黒のシックなドレスに身を包み、獣耳を申し訳なさそうにペタンと伏せているセツナ。
そして、絢爛豪華な金糸の和装を纏い、九本の尻尾を器用に隠している伝説の妖狐・タマモ。
俺たちは、サバイバルには全く不向きな正装を身に纏い、豪奢な馬車に揺られて皇城へと向かった。
◆ ◇ ◆
皇城の大謁見の間。
赤い絨毯が敷かれたその広大な空間には、帝国の重鎮や有力な貴族たちがズラリと居並び、俺たちが足を踏み入れた瞬間、水を打ったような静寂が広がった。
玉座には、帝国の頂点に君臨する若く美しい女皇帝が、華麗な皇衣を纏い、威厳に満ちた眼差しで俺たちを見下ろしている。
その傍らには、見知った顔――冒険者ギルドのギルドマスターの姿もあった。
「面を上げよ、クロウ。そして、気高き戦士たちよ」
女皇帝の、凛と澄み渡りながらも、決して逆らうことの許されない絶対的な威厳を持った声が響く。
俺たちは片膝をついた姿勢から顔を上げ、今回の北の霊峰での出来事を――邪竜の化身との死闘、怨念の復活、そして四龍の宝玉による『完全な浄化』の事実を、包み隠さず報告した。
報告が終わると、謁見の間にざわめきが広がった。
数千年もの間、この世界を縛り付けていた巨大な障気が、完全に消滅したのだ。無理もない反応だろう。
「……信じられん。古の伝承にあった厄災を、お主たちだけで浄化してのけたと言うのか」
女皇帝は紅を引いた唇から感嘆の溜め息を吐き、そして力強く頷いた。
「ギルドマスターよ。事前の協議通り、発表を」
「はっ」
女皇帝に促され、ギルドマスターが一歩前に出た。
「冒険者クロウ、並びにレイア、シルヴィア、セツナ、レオナ、タマモのパーティに対し、冒険者ギルド本部より通達を行う。……霊峰における厄災の完全討伐、及び世界規模の障気汚染の抑止という未曾有の功績を鑑み、貴殿らのギルドランクを特例として昇格させる」
ギルドマスターは、謁見の間に響き渡る声で宣言した。
「これより、貴殿らを冒険者最高位である『SSランク』に認定する!」
その瞬間、貴族たちの中から「おおぉっ……!」というどよめきが沸き起こった。
通常、冒険者のランクはSが頭打ちだ。SSランクなど、建前上存在するだけの幻の階級。それはもはや「一国の軍隊すら凌駕する、歩く戦略兵器」であることを、国とギルドが公式に認めたという証明に他ならない。
だが、驚きはそれだけでは終わらなかった。
女皇帝が玉座から優雅に立ち上がり、俺たちに向けて両手を広げた。
「さらに、余から直接の沙汰を下す。……お主らは、この帝国のみならず、世界そのものを救った。その功績に対し、金銀財宝だけでは到底報いることはできまい」
女皇帝の気高き瞳が、俺の目を真っ直ぐに射抜く。
「クロウよ。お主とその仲間たちに、帝国最高位の栄誉たる『名誉公爵』の地位を授ける」
「……名誉、公爵」
思わず声が漏れた。
公爵といえば、王族に次ぐ権力を持つ大貴族だ。
「案ずるな。お主らの自由を縛るつもりはない。領地の管理や面倒な政務は一切免除し、ただ『公爵と同等の権威と特権』のみを与えるものだ。……帝国は、お主ら英雄を永遠の友として遇しよう」
女皇帝の言葉に、謁見の間は割れんばかりの拍手と歓声に包まれた。
俺は横目で仲間たちを見た。誰もが驚きつつも、誇らしげな笑顔を浮かべている。
これで俺たちは、世界最強の武力を持つSSランク冒険者にして、帝国最高位の権力を持つ名誉公爵となったのだ。
戦いは終わった。
世界は平和になり、俺たちは最高の栄誉を手に入れた。
これからは、誰も俺たちの邪魔をすることなく、最高の飯を食い、自由に生きていける。
――そう、思っていた時期が俺にもありました。
◆ ◇ ◆
公式な謁見の後、場所を移して開催された大規模な祝賀パーティー。
豪華なシャンデリアが輝く大広間で、俺は冷や汗を流しながら、壁際に追い詰められていた。
「おお、クロウ名誉公爵閣下! 素晴らしい、実に素晴らしい武勲でございます! つきましては、ぜひ我が伯爵家の長女を、閣下の新たなる妻としてお迎えいただきたく――」
「いや、お待ちくだされ! 閣下に相応しいのは我が侯爵家の自慢の娘! なんなら、妹もセットで嫁がせますぞ!」
「クロウ閣下! 我が領地には絶世の美女が揃っております! ぜひ一度、視察という名目で夜の宴を――」
群がる貴族、貴族、貴族。
彼らの目は、完全に「金脈」を見るハイエナのそれだった。
女皇帝の後ろ盾を得たSSランク冒険者にして、領地を持たない名誉公爵。これほど利用価値が高く、取り込みやすい存在はないと踏んだのだろう。
「いや、あー……俺はそういうのは間に合ってると言うか、俺にはもう大切な仲間たちが……」
俺が苦笑いを浮かべて躱そうとするが、彼らの猛攻は止まらない。
怨念の神速の連撃よりも、彼らの欲望に塗れた言葉の連打の方がよっぽど躱しづらい。
さらに最悪なことに、ターゲットにされているのは俺だけではなかった。
少し離れた場所では、俺の仲間たちにも、勘違いをした高位貴族の男たちが群がっていた。
「美しい……。レイア殿、いやレイア嬢。冒険者などという危険な真似はもうおやめなさい。どうです、我が侯爵家の『妾』として、一生裕福な暮らしを――」
「ひっ……!?」
貴族の男の言葉が途切れた。
レイアは完璧な「お姫様のような微笑み」を浮かべていた。
だが、その瞳の奥には一切の光がなく、彼女が握りしめていた純銀のワイングラスが、メキィッ!と音を立てて飴細工のようにひしゃげたからだ。最上位人種の握力が、無意識に漏れ出ている。
「お気遣い痛み入ります。ですが、私はクロウさんの剣。クロウさんの隣以外で生きるつもりはありませんので(これ以上近づいたらその首を斬り落としますよ)」
レイアの背後から漏れ出す、目には見えない圧倒的な『死の気配(殺気)』に、男たちが青ざめて後ずさる。
「シルヴィア殿! エルフの女性を妾に迎えるのは、我々貴族のステータス! ぜひ私に――」
「あら、嬉しいお誘い。……でも、私の矢は『不浄なもの』を自動で射抜く呪いがかかっているの。あなたのその頭、林檎より柔らかそうだけれど、試してみる?」
シルヴィアが扇子で口元を隠しながら、氷点下の冷たさで微笑む。貴族の男がガチガチと歯の根を鳴らして逃げ出した。
「レオナ殿! その逞しい肉体、ぜひ我がベッドで――」
「あァ? 誰のベッドでなんだって? あいにく、私を組み敷けるのは世界で旦那様だけなんでね。命が惜しかったら二度とツラ見せんな、この豚が」
レオナは隠し持っていたフォークを、貴族の男の顔の横の柱に音速で突き刺し、男は泡を吹いて気絶した。
セツナに至っては、話しかけようとした男の背後の影からヌッと現れ、無言で冷たい殺気を放ち続けることで物理的に人を遠ざけており、タマモは「わらわを妾に? くふふ……身の程を知れ、矮小なる人間どもが」と、幻術で男たちの脳内に地獄のビジョンを見せつけていた。
控えめに言って、地獄絵図だった。
最上位種へと進化した彼女たちの放つプレッシャーは、戦いを知らない温室育ちの貴族たちには刺激が強すぎる。
「クロウ閣下! ですからぜひ我が娘を――」
「閣下! ぜひ我が領地の特権を――」
俺を取り囲むハイエナたちの声が、ぐるぐると頭の中で反響する。
状態異常完全無効のスキルでも、この「面倒くさい」という精神的疲労だけは無効化してくれないらしい。
(……帰りたい)
俺は、シャンパングラスを片手に、遠い目をした。
殺意を向けてくるモンスターの方が、どれだけ単純で分かりやすかったことか。
「……大地の底の方が、まだマシだったな」
俺の小さな呟きは、欲に塗れた貴族たちの喧騒にかき消され、誰の耳にも届くことはなかった。
俺たちの終わらないサバイバルは、平和になった世界で、また別の厄介な形へと姿を変えて開幕しようとしていた。




