第87話 神速の迷い人と、終わらない修行の旅
霊峰の奥深くでの激しい戦闘の余波で大地が崩落し、俺たちが落ちた大地の底――地下空洞。
そこを埋め尽くしていたどす黒い障気が完全に浄化され、後には青白く発光する鉱石の瞬きと、清浄で冷たい空気が残されていた。
つい先ほどまで、世界の終わりを体現したような絶望と死闘を繰り広げていたことが嘘のように、静かで穏やかな時間が流れている。
俺たちは、四龍の祝福によって引き起こされた「最上位種への進化」という奇跡の余韻を噛み締めながら、ひとまずはその場にへたり込んだ。
限界を超えて酷使した筋肉の疲労は確かにあるが、進化した肉体は驚くべき速度で細胞を活性化させ、冷たい空気を吸うたびに活力が満ちていくのを感じる。
「……はぁ。本当に、生きてるんだな、俺たち」
俺が岩に背を預けて呟くと、隣で魔法剣を手入れしていたレイアが、ふわりと微笑んだ。
「はい。クロウさんのおかげです。……それに」
レイアの視線の先。
少し離れた岩壁のそばで、愛刀の刃こぼれを静かに確認している初老の剣客・カガミさんと、その横で「あー、脚の筋肉パンパンだよー!」と屈伸運動をしている猫耳の少女・リンの姿があった。
「あの二人が来てくれなかったら、俺たちは第二形態の時点で全滅していた。……お礼を言わないとな」
俺は立ち上がり、カガミさんたちの元へと歩み寄った。仲間たちもそれに続く。
「カガミさん、リン。……改めて、礼を言わせてくれ。あんたたちの助太刀がなかったら、俺たちは間違いなくあの怨念に呑まれていた。本当に、ありがとう」
俺が深く頭を下げると、カガミさんは刀を鞘に納め、渋い笑みを浮かべた。
「頭を上げられよ、クロウ殿。拙者たちはただ、己の旅の目的を果たそうとしただけのこと。それに、最後の一撃とあの浄化の光……お主らの底力があってこその勝利であった。礼を言うのはこちらの方やもしれん」
「そうだよクロウさん! 私たち、途中から手出しできなかったもん! あの最後のピカーッて光、すっごく綺麗だったね!」
リンが尻尾をブンブンと振りながら、無邪気な笑顔を向けてくる。
「それにしても……」
俺は、ずっと気になっていた疑問を口にした。
「あんたたち、どうして俺たちがここにいるって分かったんだ? ここは、帝国最北の『北都ノースランド』からさらに奥の霊峰だぞ。……いくらあんたたちが強くても、そう簡単にたどり着ける場所じゃないはずだ」
俺の言葉に、シルヴィアも頷く。
「ええ。道中には自然が作り出した凶悪なクレバスや、視界を奪う吹雪の結界すらありました。私たちの足跡を追跡するにしても、時間がかかりすぎるわ」
俺の問いに対し、カガミさんは顎の髭を撫でながら、さも当然のように口を開いた。
「なに、簡単なことよ。……『嫌な予感』がしたのだ」
「はい?」
「ガルドの街で別れた後、拙者たちは各地を巡っておった。ある日、ふとこの北の果てから、空気が重く澱むような、世界そのものが軋み声を上げるような……そんな、剣呑な気配を感じたのでな」
「気配……って、直感ですか?」
レイアが瞬きをする。
「うむ。武の道を歩む者として、あの気配は見過ごせぬ。ゆえに、気配の源流を目指し、リンと共に『一直線』に駆け上がってきたのだ」
一直線、という言葉に、俺は嫌な予感を覚えた。
「……カガミさん。一直線って、まさか……」
「えへへー!」
リンが自慢げに胸を張って答える。
「雪山の登山道なんてぐねぐねしてて面倒くさいから、目の前に切り立った氷壁があったら師匠が刀でぶった斬って、足場が無かったら私が崖を蹴り崩して、とにかく真っ直ぐダッシュしてきたんだよ! 呪われた氷の湖も、水切りみたいに水面を蹴って全速力で走り抜けたの!」
「は……?」
「で、気配のする山頂付近に着いたら、戦闘の余波で地面にドデカい大穴が空いてたから、そのまま一直線にこの地下空洞まで飛び降りてきたってわけ!」
俺たち全員の動きが、ピタリと停止した。
「ガハハハハッ!!」
不意に、レオナが腹を抱えて大爆笑し始めた。
「なんだそりゃ! サバイバルの常識もクソもねえ! ただのバケモノの所業じゃないか! ガハハッ、最高だ!」
「笑い事じゃありませんよレオナさん……! 大自然への冒涜です……!」
セツナが耳を伏せて震えている。
俺は、頭痛を堪えるように眉間を押さえた。
俺たちは、食料や燃料の配分を計算し、凍傷を警戒し、地形を利用しながら、まさに命懸けの「サバイバル」をしてここまで来たのだ。
それを、直感に従って、万年氷をぶち抜き、最後は崩落した大穴からそのままダイブしてきただと?
「……すごいな」
俺の口から、ポロリとそんな言葉がこぼれた。
呆れを通り越して、純粋な感嘆だった。
「15年サバイバルをしてきた俺でも、そんな無茶苦茶な攻略法は思いつかなかった。……やっぱり、あんたたちは本物のバケモノだ。武の極致ってのは、常識すら置き去りにするんだな」
俺が本気で感心して言うと、カガミさんは少し照れたように視線を逸らした。
「クロウ殿にそう言われると、いささか面映ゆいな。……だが、どれほど急ごうとも、あやうくお主らの命に間に合わぬところであった。まだまだ、拙者も修行が足りんということよ」
この理不尽なまでの強さを持っていながら、どこまでも貪欲に高みを目指すその姿勢。
俺と同じ『ハイ・ヒューマン』でありながら、俺とは全く違う道を極めたこの男に、俺は深い敬意を抱かずにはいられなかった。
「なぁ、カガミさん、リン。……もう世界の危機は終わったんだ。俺たちはこれから北都ノースランドへ戻って、最高の飯を食おうと思ってる。あんたたちも一緒にどうだ? 極上の肉料理、腹いっぱい食わせてやるよ。ゆっくり打ち上げでも――」
俺がそう誘いかけた時だった。
カガミさんは、ふっと穏やかだが、確固たる意志を持った眼差しで俺を見つめ返し、静かに首を横に振った。
「その誘いは、至上の喜び。……だが、クロウ殿。拙者たちの旅は、ここで立ち止まるわけにはゆかぬのだ」
「え……?」
レイアが驚いたように声を上げる。
「厄災の化身たる邪竜は、確かに浄化された。……だが、拙者の剣は、まだ天の高みに届いてはおらん。あの怪物との打ち合いで、己の技の『甘さ』を痛感した。……流浪の身である以上、剣のサビを落とすためにも、歩みを止めるわけにはゆかぬのだよ」
「……そうか」
俺は、カガミさんの顔を見て理解した。
この人は、報酬や名誉のために戦っているわけじゃない。純粋に、己の剣の道を極めるため、そして世界を巡る風であり続けるために生きているのだ。
引き止めるのは、野暮というものだった。
「師匠ったら、すぐそうやって修行修行なんだから! クロウさんのご飯、食べたかったのになー」
リンが不満げに頬を膨らませるが、すぐにその顔をパァッと明るくして俺たちに向き直った。
「でも、また絶対に会えるよね! だって、クロウさんたちも『最上位種』になったんでしょ? これから何百年も時間があるんだもん、また世界のどこかでバッタリ会えるよ!」
「ああ、そうだな。俺たちの旅も、これで終わりじゃない。……次は、どこかの街で美味い飯を作って待ってるよ。手合わせも、その時にな」
俺が拳を差し出すと、リンは満面の笑みで自分の小さな拳をコツンと合わせてきた。
カガミさんも、静かに深く一礼をする。
「クロウ殿、そして気高き戦士たちよ。お主らと共に死線を越えられたこと、我が剣客人生の誉れである。……いざ、御免!」
「ばいばーい! みんな、元気でねー!」
その言葉を最後に。
二人の姿は、地下空洞の奥へと続く横穴の暗闇へ、まさに一陣の風のように掻き消えた。
おそらく帰り道も、直感のままに壁を蹴り破って猛スピードで下山していくのだろう。
「……行っちゃいましたね」
レイアが、少し寂しそうに、けれど清々しい笑顔でその背中を見送る。
「ああ。嵐みたいな連中だったな」
俺は、二人が消えた道を見つめながら、小さく笑った。
頼もしくて、規格外で、底知れない強さを持った剣客師弟。
彼らと再び剣を交え、酒を酌み交わす日が来るのは、明日かもしれないし、百年後かもしれない。
だが、確かなことは一つだ。
俺たちの時間も、彼らの時間も、もう何かに急かされることはないのだから。
「さて……俺たちも、北都に帰ろうか。やることは全部終わった」
俺が仲間たちを振り返ると、レイア、シルヴィア、セツナ、レオナ、タマモが、新しい力を宿した身体で、力強く頷いた。
「はい! 今度こそ、宿でゆっくり休みましょう!」
「ええ。クロウのお手製料理、期待しているわよ?」
「ガハハッ! ノースランドに戻ったら、三日三晩の大宴会だァ!」
俺たちは、浄化された青白い空間に背を向け、地上へと続く長い長い道のりを歩き始めた。
絶望から生還した俺たちの足取りは、いつになく軽く、そしてこれからの永遠に続く新しいサバイバルへの期待に満ち溢れていた。




