第83話 己の未熟と、神代の血族
地下空洞の空気は、もはや酸素を吸っている感覚ではなかった。
アジ=ダハーカが脱ぎ捨てた巨躯の残骸から噴き出す障気と、そこから這い出た「人型」の怪物が放つ圧倒的な魔圧。それらが混ざり合い、肺に流し込むたびに内臓を焼くような重苦しい毒へと変わっている。
その地獄の底のような戦場の中央で、銀色の閃光と漆黒の凶刃が激突し、火花を散らしていた。
「――シッ!」
鋭い呼気と共に刀を振るうのは、人間の最上位種『ハイ・ヒューマン』の一人、剣聖カガミだ。
彼の戦いは、もはや「剣を振る」という次元を超えていた。怪物が放つ、瞬きすら許さない神速の斬撃。それをカガミは、わずか数センチの首の傾げ、あるいは刀の鞘を用いた最小限のいなしだけで、紙一重で回避し続けている。
カガミが刀を抜き放つ。その一閃は、空間の理を断ち切るような静謐な響きを伴っていた。怪物の完璧な防御姿勢、その「点」とも呼べるわずかな淀みを見逃さず、漆黒の装甲へと銀の線を刻み込む。
「……リン、前へ。呼吸を合わせよ」
「了解っ、師匠!!」
師であるカガミの静かな声に、愛弟子であるリンが呼応する。
リンの足元で、岩盤が爆発するように砕け散った。最上位獣人『ハイ・ビースト』としての異常な脚力が、彼女をただの「速度」から「現象」へと変える。
怪物がカガミの太刀筋を捌こうと腕を動かした、その刹那。リンの姿はすでに怪物の死角へと滑り込んでいた。獣としての野生の本能と、限界まで研ぎ澄まされた格闘技術。彼女の放つ回し蹴りは、空気を圧縮して真空の刃を生み出し、カガミが刻んだばかりの装甲の傷口へと正確に叩き込まれた。
ドォォォォォンッ!
重い衝撃音が響き、怪物の巨体がわずかに後方へと押し込まれる。
「……これが、本当の『強さ』か」
俺は瓦礫の山から立ち上がり、その戦いを見つめながら低く呟いた。
口の中に溜まった血を吐き捨て、アイテムボックスから『特級エリクサー』を取り出す。七色に輝く霊薬を自分と、そして倒れ伏している仲間たちの傷口へと振りかけた。
「あ……く、クロウ……さん……。ごめんなさい、私たち、足手まといに……」
レイアが、震える手で地面を掴み、悔しさに唇を噛み締めながら顔を上げた。特級エリクサーの圧倒的な生命力が、彼女たちの折れた骨を繋ぎ、失われた魔力を強引に底上げしていく。
「謝るな、レイア。……謝らなきゃいけないのは、俺の方だ」
俺は手の中にある『深淵の大剣』を見下ろし、自嘲気味に笑った。
「俺は、15年間死に物狂いで生き抜いてきた。バベルを攻略し、伝説や神代の武具を手に入れて……心のどこかで、自分はもう『完成した』と勘違いしていたんだ。圧倒的なステータスと、最強の武器があれば、どんな理不尽でも押し通せると、驕っていた」
俺は、カガミとリンの流れるような身のこなしを指差した。
彼らは、派手な魔法も、世界を滅ぼすような神代の武器も使っていない。ただ己の肉体と、何十年もかけて極限まで研ぎ澄ませた『技』と『速さ』だけで、あのバケモノと渡り合っている。
「未熟なのは、武具じゃない。俺たち自身だ」
俺の言葉に、シルヴィアやレオナ、セツナもハッと息を呑んだ。
「どれだけ凄い武器を持っていようと、それを振るう俺たちの技術や覚悟が伴っていなければ、ただの重たい棒切れと同じだ。だから俺たちの攻撃は、あいつの完璧な武術の前に、赤子のようにあしらわれたんだ」
他でもない、俺自身の底の浅さ。
サバイバルで培った「生き残るための執念」はあっても、純粋な「武」の頂きを目指す求道者としての道程が、俺には決定的に欠けていた。
「……クロウ。じゃあ、私たちはどうすればいいの? あの完璧な怪物に、未熟な私たちが勝つ方法なんて……」
シルヴィアが、絶望に呑まれそうになるのを必死に堪えながら問う。
「簡単なことだ。未熟なら未熟なりに、泥臭く足掻けばいい」
俺は深淵の大剣を強く握り直し、仲間たちを一人ずつ、真っ直ぐに見つめた。
「技術で劣るなら、数とタイミングで圧倒する。あいつがどれほど完璧な武の極致だろうと、物理的な肉体と脳髄を持っている以上、同時に処理できる情報の量には絶対に限界がある」
俺は再び、前線へと視線を向けた。
カガミの「技」は、怪物の防御の理を崩し、傷をつけている。
リンの「速さ」は、怪物の反応を遅らせ、隙を作っている。
だが、どちらもあいつを倒し切るには『決定打』が足りない。あの漆黒の装甲を粉砕し、核を握り潰すだけの圧倒的な物理的質量が、二人にはないのだ。
「カガミさんには『技』がある。リンには『速さ』がある。……そして俺には、良くも悪くも、未熟さを無理やりカバーして有り余るだけの『圧倒的な力』がある」
俺は、自分のハイ・ヒューマンとしての異常な膂力と、15年で溜め込んだ魔力の渦を全身に巡らせた。
「俺、カガミさん、リンの三人で、奴の正面を叩く。ハイ・ヒューマンとハイ・ビースト、神代の血を引く三人の力を一点に同期させれば、あの完璧なバランスも物理的に圧殺できるはずだ」
「……でも、それだけじゃ、またあいつの魔力爆発で跳ね返されるわ」
シルヴィアの指摘はもっともだった。
「ああ。だからこそ、お前たちの命を張った『意地』が必要なんだ」
俺は、仲間たちを背中で守るように一歩前に出た。
「レイア、シルヴィア、セツナ、レオナ、タマモ。お前たちは、あいつを倒そうとしなくていい。俺たちが奴に突っ込むその瞬間、全方位から一塵の隙も与えず、奴を『情報の檻』に閉じ込めるんだ。奴の完璧な脳が、お前たちの命懸けの包囲網を処理しようと、コンマ一秒でも意識を逸らせば……そこが、奴の死に場所になる」
「情報の檻……。つまり、私たちが囮になって、あいつの処理能力をパンクさせるってことね」
シルヴィアが眼鏡を押し上げ、鋭い笑みを浮かべた。
「フン、上等じゃないか。未熟者が達人を殺すには、そういう泥臭いやり方が一番性に合ってる」
レオナが、曲がったハルバードを剛腕で無理やり真っ直ぐに直し、肩に担ぐ。
「……クロウさんのためなら、私の命、いくらでも使ってください」
セツナが、虚空刃を逆手に持ち、琥珀色の瞳を静かに燃やした。
「クロウさん。……私たち、絶対に足手まといにはなりません。私たちのすべてを懸けて、完璧な『一瞬』を作ってみせます!」
レイアが、決意に満ちた声で魔法剣を構えた。
「くふふ、主がそこまで己を省みたのじゃ。わらわも、未熟な坊やたちのために一肌脱ぐとしようぞ」
タマモが九本の尻尾を揺らし、黄金の炎を大気中に散らした。
その時だった。
カガミの刀と怪物の刃が至近距離で激突し、火花と共に空間が爆ぜた。
二人の実力者が、同時に数メートル後方へと跳躍し、着地する。
「カガミさん! リン! 態勢が整った! ――ここからは、俺たち全員で奴を仕留める!!」
俺の叫びに、カガミは静かに刀を鞘に収め、残心を保ったまま深く息を吐いた。リンも天井から俺の隣へと舞い降り、その小さな手で鋭い牙を剥いた。
「……合点承知。クロウ殿、己の未熟を悟り、なお前に進むその眼差し……まさに武の道を行く者の顔つきになったな。お主の『力』、拙者の『技』、そしてリンの『速さ』。……これらが合わされば、あの『厄災の化身』も、現世に留まることはできまい」
カガミは渋いイケおじとしての静かなる凄みを全身から放ち、愛刀の柄を再び握った。
「よし。サバイバルの時間は終わりだ。……全員、これが俺たちの旅の集大成だ! ――行くぞ!!」
俺の号令が、地下空洞に轟いた。
最強の血族3人と、己の未熟さを越えようとする5人の仲間たち。
世界の運命を懸けた「最後の狩り」が、今、再び動き出した。




