第82話 御伽噺の影と、流浪の剣客
左腕は完全に砕け、呼吸をするだけで肺から血の味がした。
俺の胸ぐらを掴み、宙へと吊り上げた漆黒の怪物が、無造作にその黒い刃を振り上げる。
『無価値ナ命ヨ。塵ニ還レ』
15年間、どんな絶望的な状況でも生き抜いてきた。
だが、そのすべてを無に帰すような、絶対的な死の切っ先が、俺の心臓に向かって振り下ろされた。
回避も防御も不可能。
俺はせめて、最後に殺されるその瞬間までこの怪物の顔を睨みつけてやろうと、両目を見開いた。
――その時だった。
『……ン?』
怪物の赤い瞳が、わずかに動いた。
音すらなかった。
ただ、怪物の振り下ろした漆黒の刃の側面に、空間の理すら断ち切るような『極限の神速の太刀筋』が横から直撃したのだ。
カキィィィィンッ……!!
澄んだ鋼の音が響き、俺の心臓を貫くはずだった黒刃が、コンマ数ミリの差で軌道を逸らされる。
『――チッ』
怪物が舌打ちをし、追撃を防ごうと俺を放り投げて後方へと跳躍した。
その怪物の頭上、鍾乳洞の闇の中から、元気いっぱいの明るい声が降ってきた。
「とぉーっ! クロウさんたちを虐めるなー!!」
声と共に降り注いだのは、猫のようなしなやかさと、戦槌のような破壊力を併せ持つ強烈な踵落とし。
怪物が障気の膜を展開して防ぐが、その規格外の脚力に岩盤が砕け、怪物の足がズズッと後方へ押し込まれた。
「クロウさん、ひっさしぶりー! 生きてる!?」
宙に放り出された俺の身体を、ふわりと受け止めた小柄な影。
猫耳と尻尾を揺らし、無邪気な笑顔を向けてきたのは、かつてガルドの街で共にスタンピードを鎮圧した流浪の猫系獣人――リンだった。
「リン……!」
「いやぁ、ギリギリ間に合ったようだな。クロウ殿」
俺が驚きに目を見開くと、リンの背後から、静かに刀を鞘に収める一人の剣客が歩み出てきた。
ボロボロの道着に、鋭くも静かに澄んだ、底知れぬ眼差し。
「カガミさん……!」
「ガルドの酒場で語ったであろう? 拙者たちは『厄災』の影を追う修行の旅をしていると。……どうやら、あの御伽噺はただの迷信ではなかったようだな」
カガミは、眼前の漆黒の怪物――邪竜アジ=ダハーカの化身を見据え、ふっと口角を上げた。
「……あんたたち、こんな大地の底まで追ってきたのか。でも、相手が悪すぎるぞ。あいつは……」
俺が痛みに顔を歪めながら警告しようとすると、カガミは静かに首を振った。
そして、彼が半歩前に出た瞬間。
俺の『サバイバーの鑑定眼』が、かつてガルドでは見抜けなかった真のステータスを読み取った。
『個体名:カガミ 種族:最上位人種 / 称号:剣聖』
『個体名:リン 種族:最上位獣人』
(……人間の最上位種であるハイ・ヒューマンだと……!?)
俺と同じ、神代の血を濃く残した絶対的な存在。
彼らはただのAランク冒険者などではなかった。その内に秘めた力は、間違いなく霊峰のドラゴンたちの『族長クラス』に匹敵する。
『……次カラ次ヘト、目障リナ虫ケラドモガ。纏メテ泥ニ変エテヤロウ』
怪物が冷酷な殺意を放ち、再びその姿を掻き消した。
瞬きすら許されない、死の神速。
だが、カガミは目を閉じたまま、静かに刀の柄に手をかけた。
「――リン、右斜め前だ」
「りょうかーいっ! 師匠!!」
カガミの最小限の指示に合わせ、リンが凄まじい脚力で岩盤を蹴る。
彼女の放った飛び蹴りが、何もない空間に激突した――と思った瞬間、そこに怪物の姿がブレて現れた。
『ナッ……!?』
「そして、そこだ」
カガミの身体が霞んだ。
抜刀の軌跡すら見えない。ただ、空間に「線」が引かれた直後、怪物の漆黒の装甲の表面に、浅いが確かな一本の『太刀傷』が刻み込まれた。
俺たちの全力の同時攻撃すら赤子のように弾き返した怪物の装甲に、傷をつけたのだ。
「すごい……! あの二人、あのバケモノの動きに完全についていってる……!」
瓦礫の中から身を起こしたレイアが、信じられないものを見るように声を震わせる。
「……達人なんて次元じゃないわ。あのカガミさん、剣の腕だけで『理』を超えてる……」
シルヴィアも、驚愕に目を見張っている。
「ハッ! 悪いがクロウ殿、あのような化け物相手では、拙者たちでも『時間を稼ぐ』ことしかできん。……息のある仲間を集め、態勢を立て直されよ」
カガミは刀を構えたまま、俺を振り返らずに言った。
「師匠の言う通りだよ! クロウさんたちがいなきゃ倒せないから、早く治してね!」
リンも怪物の猛攻をアクロバティックに躱しながら、元気よく親指を立てる。
俺はアイテムボックスから『特級エリクサー』の残りを取り出し、自分の砕けた左腕と、傷ついた仲間たちへと振りかけた。
折れかけていた心が、二人の背中を見て再び激しく燃え上がっていくのを感じる。
彼らが稼いでくれるこの数分の間に、俺たちはもう一度、あの絶対的な絶望を打ち破るための『刃』を研ぎ直さなければならない。
地下空洞に、猫系獣人の軽快な打撃音と、老剣客の冴え渡る剣戟が響き渡る。
死線への頼もしい乱入者たちによって、停滞しかけた最後のサバイバルが、再び限界のその先へと動き出していた。




